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18. 仕様書のある聖女

 三日後、本物の発注書が届いた。


 巻物ではなく、きちんと綴じた冊子である。表紙には『北方防衛結界 維持管理業務 発注書』とあり、めくってみれば、中身は存外しっかりしていた。業務範囲、期日、数量、支払条件。項目ごとに欄が切ってあり、その余白には、別の筆でびっしりと赤が入っている。角の丸い、几帳面な赤字――――この筆跡には、覚えがある。


 頁を繰るたび、新しい紙と、乾いたばかりのインクの匂いが立つ。誰かが夜なべで仕上げた紙は、こういう匂いがするものだ。命令形の武骨な字が、頁を追うごとに少しずつ丁寧になっていくのが可笑しくて、私は途中から、匂いのせいにして目を細めた。


「レナート様。殿下の宿題を、添削なさいましたね?」


 夕方、閉めた店の裏口から当然のように入ってきた監査卿は、出した白湯を一口飲んで、小さく頷く。


「王太子が三度、持ってきた。そのたびに突き返している。四度目で、ようやく金額の欄が埋まっていた」


「ずいぶんと、面倒見がよろしいこと」


「監査だ。数字の空欄を見ると、埋めたくなる。性分だ」


 照れ隠しの語彙が、いつも会計なのが、この人である。行灯の火が、白湯の湯気を蜂蜜色に透かしている。私は仕様書の隅々まで検分し、受注請書をしたためた。防衛結界の維持管理。案件単位の、業務委託。対価は正当、納期は明記。文句のつけようのない、上等な取引である。九年勤めて、こんなに気持ちのいい発注書を受け取ったのは、初めてかもしれない。署名を終えて、書面から手を離すのが、少しだけ惜しかった。書類に情が移るのは、事務員の悪い癖である。


 翌朝――。


 北の詰所へは、市場筋を抜けて数刻の道のりだった。家並みが低くなり、畑が途切れ、荷車の轍だけが深くなる。振り返れば、王都の屋根が朝靄の底で鈍く光っていた。行き交う人が減るほどに、風の音だけが大きくなる。


 北の詰所は、王都の外れに、ぽつんと建つ石造りの建物だった。


 近づくにつれ、空気が変わっていく。風に灰色が混じり、鼻の奥に、金気に似た瘴気の匂いがひっかかる。舌の奥が、うっすらと鉄の味を覚えた。ここは王都と魔王領の、境目にいちばん近い場所なのだ。門をくぐり、一歩、中へ足を踏み入れると――燐光を放つ魔石が、棚にびっしりと。いや、びっしり、ではない。棚の半分は虫食いのように空で、床には木箱が、来客の予定もなく無造作に積み上げてある。青白い光と、ひやりと湿った石の匂い。魔石の光は、雪の日の窓明かりに似ていた。綺麗だが、温度がない。その奥で、詰所の役人たちが、帳面を片手に、何やら深刻に言い争っていた。


「せ、聖女様ですか?!」


「え? あぁ、そうです。本当は返品屋……」


「ああ、よくぞおいでを。もう、滅茶苦茶なんです。魔石は足りない、記録は合わない、上はただ『祈りで何とかしろ』と言うばかりで――」


 駆け寄ってきた詰所長は、私の言葉を最後まで聞かずに、今にも泣き出しそうな声を出す。差し出された手は、ペン胼胝と霜焼けだらけだった。丸めた背中に、疲労が幾重にも積もっているのが見て取れる。よほど長いこと、追い詰められてきたらしい。


「祈りで、魔石の在庫は増えません」


「で、では、聖女様が聖なる力で……?」


「これは、聖なる力の問題ではありません。台帳の問題です。――まず、棚を数えさせてください。話は、それからです」


「だ、台帳……ですか?」


 私は前掛けの紐を締め直し、腕カバーを付けた。戦う力はないが、数える力ならある。私はただの事務員なのだ。


 棚を数え、木箱を開け、埃をかぶった伝票を一枚ずつ繰っていく。指先はかじかみ、吐く息は白い。昼を過ぎると、高窓の光が石の床をゆっくり這って、伝票の山の影を長く伸ばしていく。それでも、数字を追う目だけは、こういう時、不思議と冴えてくる。詰所長は、私の手元を、祈るような顔で覗き込んでいた。魔石が足りないのは自分の失態だと、この人はどうやら思い込んでいるらしい。けれど、帳簿というのは、たいてい正直だ。数が合わないのなら、合わない理由が、必ずどこかに落ちている。単純な作業ほど、嘘は隠れる場所を失っていく。――半日も過ぎたころ、私は一つの、妙な事実に行き当たった。


 搬入の記録は、毎月きっちり、判で押したように同じ数。ところが現物の在庫は、月を追うごとに、少しずつ、少しずつ、帳尻の下をくぐるようにして減っている。誰かが、現物ではなく、記録の帳尻だけを、律儀に合わせ続けているのだ――。


「詰所長さん。この搬入印は、どちらの商会のものですか?」


「……北方への物資を一手に請け負う、御用商会のものですが。長年の、お出入りで」


 私は伝票の隅の、小さな判子を、指の腹でそっと押さえる。九年のあいだ、私はこういう『きちんとしすぎた記録』を、いくつも見てきた。人の手というのは、そうそう毎月きっかり同じ数を運べるものではない。きちんとしすぎた数字は、たいてい、どこかで、きちんと嘘をついている。


 長年のお出入り、というのが、いちばんの曲者だ。信用というのは、点検を省くための、格好の口実になる。誰も数えなくなった棚ほど、静かに軽くなっていく。――そうして軽くなった分は、どこかの誰かの蔵で、ちゃんと重くなっているはずだった。


 窓の外では、東の灰色が、夕焼けを半分だけ呑み込んでいる。詰所の棚の空白と、あの空の灰色は、たぶん帳簿の上で繋がっているのだ。



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