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10. 殿下からの無給のお仕事

 命令書は、上等な紙に立派な字で書かれていた――が、内容は立派ではない。


『聖女代役ノ補佐トシテ、王宮ニ出頭スベシ。任期ハ追ッテ沙汰スル。俸給ハ、名誉トス』


「……名誉は、通貨ではないのですが?」


「殿下のご厚意である! 名誉であろう!」


「任期が『追って沙汰』ということは、無期限ですか?」


「そ、それは……追って沙汰である!」


 使者の返答は要領を得なかったが、書面のほうは雄弁だった。差出人、王太子アルディス殿下。決裁印は殿下の個人印のみ。国璽、なし。宰相の副署、なし。予算の裏付け、当然なし。つまりこれは、王国の正式な徴用ではなく、殿下の「思いつき」を立派な紙に書いたものである。


 手帳の論点欄に書く。『一、権限。二、対価。三、期限』。——三つとも、ない。ここまで揃って無いと、逆に清々しい。


 思いつきにしては、紙だけが立派だった。この国の理不尽は、どうしていつも、紙だけ上等なのだろう。


 荷札は、もう浮かんでいる。返品は、できる。できるが——着弾先が王太子というのは、さすがに気が重い。返品屋開業以来、最大口の理不尽である。


       ◇


 同じ頃、王宮の東翼で――。


 王太子アルディスは、送り出した命令書の返事を待っていた。侍従が三度、「せめて宰相府にお諮りを」と進言してきたが、三度、退けている。


「瘴気は来る。聖女の儀は失敗続きだ。なのに、あの下町の店の周りだけ、靄が晴れている。……ならば、あの者を王宮に置けば、皆が安心するであろう?」


 理屈は、彼なりに通っていた。手順が、何ひとつ通っていなかっただけである。


       ◇


「返品屋。目が半分しか開いてないぞ」


「元からです」


 考えていたところへ、ちょうどいい人が来た。銀灰色の髪、黒い手袋、王室監査卿。もはや週に一度の定例である。挨拶より先に台帳へ直行するのが、この人の様式美だ。


 レナート様は今日も隅から隅まで(あらた)めてから言った。


「——概ね適正」


「概ね、ですか?」


「繰越欄の数字が(にじ)んでいる。書き直しておけ」


 小さな紙片が台帳に挟まれる。赤い線の入った、几帳面な指摘のメモである。むっとした。事務歴九年、帳簿の数字で人に指図されたのは初めてだ。……あとで確かめたら、確かに滲んでいた。二重にむっとする。


 ちなみにこの赤メモ、台帳の間にもう三枚挟まっている。『日付の揃え、良』『訂正印の位置、良』『焼き菓子の原価計算、詰めが甘い』。最後のは絶対に監査の範囲外だと思う。でも、捨てずに取ってある。理由は、考えないことにしている。


 その仏頂面の監査卿様の前に、私は命令書を置いた。


「ご意見を伺っても? 業務外ですが」


 彼は一読して、眉をひとつも動かさずに言った。


「国璽がない。副署がない。予算措置がない。——命令書の形をした、私文書だ」


「返品できると思っていました。確認です」


「できる。だが」


 レナート様は、黒手袋の指で命令書の隅を叩いた。


「ただ突き返すな。監査院への申立書を添えろ。差し戻しは、正規の手続きに載せたときに、いちばん重くなる」


 なるほど。理不尽の返品にも、効果的な梱包というものがあるらしい。


 私は申立書の用紙を広げ、監査卿様は帰らずに、向かいで赤入れの構えを取った。閉店後の店に、ペン先の音と竈の残り火の音だけが続く。


「白湯しか、出せませんが」


「構わない。……この店の白湯は、うまいな」


「白湯に、上手いも下手もありません」


 あるらしい、と思うことにした。


 ペンを走らせながら、ふと聞いてみる。


「レナート様は、なぜ監査のお仕事を?」


 カップを持つ手が、一瞬だけ止まる。答えは期待していなかったのだけれど、低い声が、存外あっさりと返ってきた。


「……昔、正しい帳簿が、正しくない理由で燃やされるのを見た。それだけだ」


「……白湯、おかわり要りますか」


「もらおう」


 深入りはしない。うちは詮索しない店ではないけれど、白湯くらいは、黙って注ぐ。


「……『到底受領しかねる理不尽な要求』。感情的だ。『権限を欠く発出につき受領不能』と書け」


「私の理不尽の定義は、間違っていません」


「間違ってはいない。だが、書式に感情は載せない。載せなくても、通る」


「……直します。悔しいですが、正しいので」


 書き上げた申立書は、我ながら美しい仕上がりである。監査卿様は最後にもう一度だけ目を通し、「概ね」と言いかけて、やめて、「適正だ」と言い直した。概ねが、取れている。初めてである。


「では——殿下に、差し戻します」


 自然と笑みが湧いてきた。


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