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孤独な女王の報われない一生

作者: たっくん
掲載日:2026/05/12

 エレオノーラ・ヴァレンティアが、初めて“女王”と呼ばれたのは、七歳の時だった。


 まだ王冠は重すぎて、玉座に座れば足は床につかず、手に持たされた銀の杖は自分の身長ほどもあった。


 それでも周囲の大人達は、深々と頭を下げた。


「女王陛下に、栄光あれ」


 父王が病で倒れ、母后は既に亡くなっていた。


 王家の血を継ぐ者は、エレオノーラ一人。


 だから彼女は、七歳で女王になった。


 けれど幼い彼女には、王国も、政治も、玉座も分からなかった。


 ただ一つだけ分かったことがある。


 その日から。


 誰も、彼女の名前を呼ばなくなった。


「エレオノーラ様」


 そう呼んでくれていた乳母も。


「姫様」


 そう笑っていた近衛兵も。


 皆、急に距離を置いた。


 誰も彼女を抱き上げない。


 誰も頭を撫でない。


 誰も、泣いても叱ってくれない。


 皆、膝をつき、顔を伏せて、同じことを言う。


「女王陛下」


 その言葉を聞くたびに、エレオノーラは少しずつ、自分が人間ではなくなっていくような気がした。


 女王とは。


 泣いてはいけないもの。


 弱音を吐いてはいけないもの。


 誰かに甘えてはいけないもの。


 そう教えられた。


 十二歳になる頃には、エレオノーラは誰よりも美しく、誰よりも静かな少女になっていた。


 銀色の髪。


 薄紫の瞳。


 人形のように整った顔立ち。


 感情を見せない微笑み。


 宮廷の者達は言った。


「陛下は、まことに気高い」

「幼くして、あれほど落ち着いておられるとは」

「天に選ばれた女王だ」


 誰も知らない。


 その夜。


 エレオノーラが一人、寝台の中で声を殺して泣いていることを。


 そして十三歳の春。


 彼女は、王宮の庭で一人の少年と出会った。


「泣いてるのか?」


 無礼な声だった。


 エレオノーラは驚いて顔を上げる。


 庭の端。


 白薔薇の茂みの向こうに、一人の少年が立っていた。


 黒髪に、琥珀色の瞳。


 年は同じくらいだろうか。


 服装は質素だが、腰には木剣を差している。


「……誰ですか」


 女王らしい声を出したつもりだった。


 だが少年は、少しも怯えなかった。


「俺はレオン。新しく近衛見習いになった」


「近衛見習いが、女王の庭に無断で入るのですか」


「ああ」


「……ああ?」


「迷った」


 あまりに堂々と言うので、エレオノーラは言葉を失った。


 少年――レオンは、じっと彼女を見る。


「で、泣いてたのか?」


「泣いていません」


「嘘だ」


「嘘ではありません」


「じゃあ目が赤いのは?」


「春の花粉です」


「女王って花粉にも負けるのか」


 その瞬間。


 エレオノーラは思わず笑ってしまった。


 声を出して笑ったのは、いつ以来だろう。


 笑った後で、慌てて口元を押さえる。


 女王が、こんなふうに笑ってはいけない。


 だがレオンは、嬉しそうに言った。


「なんだ。笑えるじゃないか」


「……無礼です」


「よく言われる」


「反省しないのですか」


「しても直らない」


 エレオノーラは、また少し笑ってしまった。


 それが始まりだった。


 レオンは、女王を女王として扱わなかった。


 もちろん、人前では礼を尽くした。


 膝をつき、頭を下げ、命令には従う。


 だが庭で二人きりになると、彼はいつも同じように彼女を呼んだ。


「エレナ」


 最初にその名で呼ばれた時、エレオノーラは息が止まりそうになった。


「その呼び方は許していません」


「長いんだよ、エレオノーラは」


「不敬です」


「なら罰するか?」


「……しません」


「ならいいだろ」


 よくない。


 よくないはずだった。


 けれど。


 “女王陛下”ではなく。


 “エレナ”と呼ばれるたび。


 彼女は、自分がまだ一人の少女でいられるような気がした。


 レオンは剣の話をした。


 城下町の話をした。


 市場の焼き菓子の話をした。


 川辺で釣れる魚の話をした。


 どれも、エレオノーラの知らない世界だった。


「城下には、そんなに人がいるのですか」


「当たり前だろ」


「皆、私のことを知っているのでしょうか」


「まあ、女王だからな」


「……そうですか」


 少し寂しそうに言うと、レオンは首を傾げた。


「でも、誰もエレナのことは知らないんじゃないか」


「どういう意味ですか」


「女王のことは知ってる。でも、エレナが夜に泣くことも、甘い焼き菓子が好きなことも、すぐ強がることも知らない」


 エレオノーラは黙った。


 そんなふうに言われたのは初めてだった。


「……貴方は、私を何だと思っているのですか」


「エレナ」


「そうではなく」


「女王で、普通の女の子」


 その言葉が、胸に刺さった。


 女王で。


 普通の女の子。


 そんな矛盾した存在でいていいのだと、初めて言われた気がした。


 それから二人は、春が来るたび庭で会った。


 十四歳。


 十五歳。


 十六歳。


 レオンは近衛見習いから正式な近衛騎士になり、エレオノーラは少女から美しい女王へ変わっていった。


 けれど庭でだけは、何も変わらなかった。


「エレナ」


「何ですか」


「また泣いてたのか」


「泣いていません」


「花粉か?」


「ええ。春ですから」


「便利だな、花粉」


 そう言って、二人で笑った。


 その頃にはもう。


 エレオノーラは、自分の気持ちに気づいていた。


 レオンが好きだった。


 女王としてではなく。


 王家の血筋としてでもなく。


 ただのエレナとして見てくれる彼が、好きだった。


 だが。


 同時に、分かってもいた。


 女王は、ただの恋をしてはいけない。


 十七歳の春。


 宰相から、縁談の話が持ち込まれた。


「北方大公家との婚姻でございます」


 エレオノーラは玉座に座り、表情を変えなかった。


「理由を」


「北方貴族の不満が高まっております。大公家との婚姻により、王国の結束は保たれましょう」


「相手は」


「オルグレン大公の嫡男、ヴィクター様にございます」


 聞いたことはある。


 冷静で有能。


 だが、野心家。


 王配となれば、王権に深く関わってくるだろう。


「……分かりました」


「陛下」


 宰相は深く頭を下げた。


「王国のためでございます」


 王国のため。


 その言葉は、いつも正しい。


 正しいからこそ、残酷だった。


 その夜。


 エレオノーラは庭へ向かった。


 白薔薇が咲いている。


 月明かりの下で、レオンが待っていた。


「遅かったな」


「会議が長引きました」


「また無茶言われたのか」


「いつものことです」


 彼女は笑った。


 女王の顔で。


 それを見て、レオンは眉をひそめた。


「エレナ」


「何ですか」


「泣きたいなら泣け」


 その一言で、胸が崩れそうになった。


 けれど泣かなかった。


 泣けば、きっと戻れなくなるから。


「私、結婚することになりました」


 レオンの表情が止まった。


 風が吹く。


 白薔薇の花びらが、二人の間を舞った。


「……誰と」


「北方大公家の嫡男、ヴィクター様です」


「そうか」


 短い返事。


 それだけだった。


 エレオノーラは、少しだけ笑った。


「祝ってくれないのですか」


「祝えばいいのか」


「女王の婚姻です」


「エレナの幸せか?」


 答えられなかった。


 レオンは一歩近づく。


「エレナ」


「呼ばないで」


 初めて、そう言った。


 レオンの足が止まる。


「その名前で呼ばないでください」


 声が震えていた。


「私は女王です」


「知ってる」


「王国を守らなければなりません」


「知ってる」


「私の婚姻には意味があります」


「知ってる」


「なら……」


 エレオノーラは唇を噛む。


「なら、そんな顔をしないでください」


 レオンは何も言わなかった。


 ただ苦しそうに、彼女を見ていた。


 それが、一番辛かった。


「私を困らせないで」


 本当は違う。


 困っているのは、彼ではない。


 自分だった。


 女王である自分と。


 ただの少女でいたい自分。


 その二つの間で、引き裂かれそうになっていた。


「……分かった」


 レオンは静かに頭を下げた。


 近衛騎士として。


 女王に対する、正しい礼だった。


「女王陛下の御婚姻に、心より祝福を」


 その瞬間。


 エレオノーラの胸の奥で、何かが壊れた。


 けれど彼女は笑った。


 完璧な女王の顔で。


「ありがとう、レオン卿」


 それが。


 二人が初めて、互いを遠ざけた夜だった。


 女王エレオノーラの婚礼は、国中の祝福を受けた。


 王都の鐘は鳴り響き。


 白い花びらが空を舞い。


 民衆は、美しい女王と気高き大公子の結婚を讃えた。


「女王陛下に永遠の祝福を!」


 歓声。


 拍手。


 笑顔。


 誰もが幸せそうだった。


 だからこそ。


 エレオノーラは、自分だけが取り残されているような気がした。


「……お疲れでしょう」


 低い声。


 隣に立つ男――ヴィクター・オルグレンは、淡々とそう言った。


 北方大公家の嫡男。


 女王の夫。


 そして、これから王配となる男。


「平気です」


「そうですか」


 彼はそれ以上踏み込まなかった。


 冷たい男ではない。


 むしろ有能で、聡明で、礼儀正しい。


 王国にとっては理想的な王配だろう。


 だが。


 彼は、一度も“エレナ”を見なかった。


 見るのはいつも、“女王陛下”だった。


 婚姻後、ヴィクターはすぐに政治へ関わり始めた。


 税制改革。


 北方貴族との調停。


 軍備再編。


 彼は恐ろしいほど有能だった。


「北部の食糧流通を再編します」

「関税を一部撤廃しましょう」

「貴族院の発言権を整理するべきです」


 宰相達は歓喜した。


「なんと素晴らしい……!」

「王配殿下は賢王ですな!」


 エレオノーラも理解していた。


 彼は必要な存在だ。


 王国にとって。


 だから彼女は、隣で静かに頷き続けた。


 女王として。


 正しい選択をし続けた。


 そして気づけば。


 庭へ行く回数が減っていた。


 白薔薇は咲いている。


 けれど、もうそこにレオンは居ない。


 当然だった。


 彼は近衛騎士だ。


 女王の婚姻後も、あの場所に残れるほど愚かではない。


 ある夜。


 エレオノーラは、執務室で書類へ目を通していた。


 もう深夜だった。


 だが終わらない。


 女王の仕事に終わりなど無い。


「……陛下」


 侍女が静かに頭を下げる。


「近衛騎士レオン・アルディス卿がお見えです」


 その名前に、心臓が止まりそうになった。


「……通しなさい」


 声は、震えなかった。


 レオンは以前と変わらなかった。


 黒髪。


 琥珀色の瞳。


 ただ。


 少しだけ、大人になっていた。


「夜分遅くに失礼します、女王陛下」


 完璧な礼。


 昔みたいに笑わない。


 昔みたいに“エレナ”と呼ばない。


 それが酷く苦しかった。


「何の用ですか」


「北西部で盗賊団が発生しました。討伐隊へ参加する許可をいただきたく」


「……貴方が?」


「はい」


 エレオノーラは視線を落とす。


 本来なら止めるべきだった。


 レオンは優秀な騎士だ。


 失えば損失になる。


 だが。


 彼女は知っている。


 彼が戦場を選ぶ時、それは“忘れたい時”だと。


「危険です」


 思わず、そう口にしていた。


 レオンが少しだけ目を見開く。


「女王陛下」


「……っ」


 しまった、と思った。


 だが遅い。


 レオンは静かに笑う。


 悲しそうに。


「ご安心ください。必ず生きて帰ります」


 その言葉が。


 昔と変わらない優しさが。


 余計に彼女を苦しめた。


「好きにしなさい」


 エレオノーラは視線を逸らす。


「ですが死ねば許しません」


「善処します」


「命令です」


「……はい」


 沈黙。


 静かな夜だった。


 本当は聞きたかった。


 どうして最近庭へ来ないのか。


 私を避けているのか。


 あの日のことを、後悔しているのか。


 でも。


 女王はそんなことを聞かない。


 聞いてはいけない。


「では失礼します」


 レオンが去ろうとする。


 その背中を見た瞬間。


 エレオノーラは、耐えきれずに口を開いた。


「レオン」


 その名を呼んだ瞬間。


 空気が止まった。


 レオンの肩が、僅かに揺れる。


 エレオノーラも、自分で驚いていた。


 何をしているのだろう。


 女王が。


 既婚の女が。


 こんなふうに男を呼び止めるなんて。


「……何でしょう」


 彼は振り返らない。


 エレオノーラは唇を噛む。


 言葉が出ない。


 言ってはいけない。


 全部。


 王冠が許さない。


 だから彼女は。


「必ず、生きて帰りなさい」


 それだけしか言えなかった。


 レオンは、しばらく黙っていた。


 やがて。


「……はい、陛下」


 そう答えて去っていく。


 扉が閉まる。


 静寂。


 エレオノーラは、その場でゆっくり目を閉じた。


 泣かなかった。


 もう泣き方を忘れてしまったから。


 数日後。


 レオン率いる討伐隊は、北西部で大規模戦闘へ巻き込まれた。


 王宮へ報告が届いたのは、雨の夜だった。


「レオン・アルディス卿、重傷!」


 その瞬間。


 エレオノーラは立ち上がっていた。


 王宮の廊下を。


 エレオノーラは走っていた。


 女王が走るなど、本来あってはならない。


 裾を持ち上げ。


 濡れた窓ガラスを横目に。


 誰の視線も気にせず、ただ前へ進む。


「陛下……!」


 侍女達が慌てて後を追う。


 だが止まれなかった。


 胸が痛い。


 苦しい。


 嫌な予感が、ずっと喉元に張り付いている。


 医務棟へ辿り着くと、騎士達が一斉に膝をついた。


「女王陛下!」


「レオンは」


 短く問う。


 騎士達の顔が曇る。


「……命に別状はありません」


 その瞬間。


 全身から力が抜けそうになった。


 だが同時に。


「ただし」


 続く言葉で、空気が凍る。


「右腕を失いました」


 エレオノーラの呼吸が止まった。


 雨音だけが響く。


 騎士にとって、剣を失うことは命より重い。


 近衛騎士として生きてきたレオンにとって、それは――。


「……会わせなさい」


 声は静かだった。


 だが騎士達はすぐ道を開けた。


 部屋へ入る。


 薬草の匂い。


 薄暗い灯り。


 そして寝台の上に、レオンがいた。


 包帯だらけだった。


 顔色も悪い。


 それでも彼は、エレオノーラを見ると小さく笑った。


「そんな顔するなよ」


 その一言で。


 エレオノーラは泣きそうになった。


 けれど泣かなかった。


 女王だから。


「……馬鹿者」


 彼女は寝台の横へ立つ。


「死ねば許さないと言ったでしょう」


「死ななかった」


「そういう問題ではありません」


「でも、生きて帰ったぞ」


 レオンは少しだけ笑う。


 昔と同じ笑い方だった。


 それが苦しかった。


「右腕を失いました」


「まあな」


「貴方は騎士です」


「だった」


 エレオノーラの胸が痛む。


 レオンは天井を見る。


「剣、好きだったんだけどな」


 ぽつり、と呟く。


 その声はあまりにも軽くて。


 逆に辛かった。


「……すみません」


 気づけば、そんな言葉が零れていた。


 レオンが目を瞬かせる。


「何でエレナが謝る」


 その呼び方に、息が止まる。


 久しぶりだった。


 “女王陛下”ではなく。


 “エレナ”と呼ばれたのは。


「私が」


 彼女は唇を噛む。


「私が、女王だから」


 レオンは黙る。


「王国を守らなければならない」

「貴族をまとめなければならない」

「北方との関係も必要だった」


 エレオノーラの声が震える。


「だから私は、全部正しい選択をしました」


 レオンは静かに聞いていた。


「でも」


 彼女は俯く。


「どうして、こんなに苦しいのでしょう」


 沈黙。


 雨音だけが響く。


 レオンはゆっくり目を閉じた。


「エレナ」


「……はい」


「俺は、お前が女王になった時から思ってた」


 彼は苦しそうに息を吐く。


「この国は、お前に甘えすぎだ」


 エレオノーラが目を見開く。


「皆、“女王だから”って」

「お前が全部耐えるの当たり前みたいな顔して」

「泣くのも」

「弱音吐くのも」

「幸せになるのも」


 彼は笑った。


 寂しそうに。


「全部、許さなかった」


 エレオノーラは何も言えなかった。


 そんなこと。


 一度も考えたことがなかった。


「でもお前、自分から王冠降ろさないだろ」


「……当然です」


「だよな」


 レオンは苦笑する。


「だからせめて、一人の時くらい泣けばいい」


 その瞬間。


 エレオノーラの瞳から、涙が落ちた。


 ぽたり、と。


 一滴だけ。


 次の瞬間には、止まらなくなっていた。


「……っ」


 声を押し殺す。


 泣いてはいけない。


 泣けば弱くなる。


 泣けば崩れてしまう。


 そう思っていた。


 でも。


「エレナ」


 レオンが、左手で彼女の頭を撫でる。


 子供の頃みたいに。


 優しく。


「よく頑張ったな」


 その言葉で。


 エレオノーラは、完全に壊れてしまった。


 女王ではなく。


 ただの少女みたいに泣いた。


 長い間。


 ずっと。


 誰かに言ってほしかった言葉だった。


 翌朝。


 エレオノーラは、いつもの女王に戻っていた。


 涙の跡も消え。


 完璧な微笑みを浮かべている。


 王配ヴィクターは、彼女を静かに見た。


「レオン卿の件、お聞きしました」


「ええ」


「お気の毒に」


 感情の見えない声。


 だがヴィクターは、そこで小さく息を吐いた。


「……貴女は、彼を愛しているのですね」


 エレオノーラの指先が止まる。


 沈黙。


 否定すべきだった。


 だが。


「はい」


 初めて、認めた。


 ヴィクターは驚かなかった。


 ただ静かに頷く。


「そうだと思っていました」


「軽蔑しますか」


「いいえ」


 彼は淡々と言う。


「私は貴女を愛しておりませんから」


 エレオノーラは目を見開いた。


「貴女は優れた女王だ」

「私は優れた王配だ」

「だから結婚した」


 ヴィクターは紅茶を口にする。


「それだけです」


 その言葉は冷たいはずなのに。


 どこか、救いでもあった。


 少なくとも彼は。


 彼女に愛を期待していなかった。


「ですが」


 ヴィクターは静かに言った。


「一つだけ、羨ましく思います」


「……何をですか」


「貴女が、一人の男をそこまで愛せることを」


 その瞬間。


 エレオノーラは初めて。


 この冷たい王配もまた、孤独な人間なのだと知った。


 それから十年が過ぎた。


 ヴァレンティア王国は、黄金期を迎えていた。


 北方との対立は収まり。


 税制改革は成功し。


 飢饉も減り。


 民は口を揃えて言う。


「エレオノーラ女王陛下は、歴代最高の名君だ」


 王都には彼女の肖像画が並び。


 詩人は“白銀の女王”を讃え。


 子供達は女王ごっこで遊んだ。


 誰もが彼女を愛した。


 けれど。


 誰一人、“エレナ”を知らなかった。


「陛下、本日の予定です」


 侍女が淡々と予定表を読み上げる。


 外交会談。


 貴族院会議。


 視察。


 晩餐会。


 終わらない。


 女王の一日は、いつだって誰かのために埋め尽くされていた。


「……陛下?」


「何でもありません」


 エレオノーラは静かに微笑む。


 完璧な女王の顔で。


 もう泣くことは無かった。


 あの日。


 レオンの前で泣いて以来。


 彼女は再び、“女王”へ戻った。


 レオンは近衛を辞し、今は王都外れで小さな剣術道場を開いている。


 右腕を失った騎士。


 それでも彼を慕う子供達は多かった。


「先生!」

「また昔の戦の話してください!」


 笑い声。


 夕暮れ。


 剣を握れなくなった男は、それでも誰かに必要とされていた。


 一方で。


 エレオノーラは、王座に座り続けている。


 女王だから。


 国が必要としているから。


 その夜。


 王配ヴィクターが、静かに口を開いた。


「北東部の視察ですが、私が代行しましょう」


「いえ、私が行きます」


「最近、働きすぎです」


 エレオノーラは書類から目を離さない。


「女王の仕事です」


「……貴女は」


 ヴィクターが少し黙る。


「時々、自分が壊れないと思っている節がありますね」


 エレオノーラは手を止めた。


「壊れては困りますから」


「人は壊れます」


「私は女王です」


「だから壊れるのです」


 静かな声だった。


 エレオノーラは視線を上げる。


 ヴィクターは昔より老けていた。


 だが、その瞳は相変わらず冷静だった。


「陛下」


「何でしょう」


「貴女は、一度も“幸せになろう”としなかった」


 その言葉に。


 胸が少し痛んだ。


「幸せは必要ありません」


「国には?」


「ええ」


「では貴女には?」


 答えられなかった。


 ヴィクターは苦笑する。


「私は、政治的には貴女を尊敬しています」


 紅茶を置く。


「ですが人としては、少し嫌いです」


 エレオノーラは目を瞬かせた。


「……初めてですね。そんなことを言われたのは」


「皆、貴女を崇拝しすぎる」


 ヴィクターは静かに言う。


「だから誰も、貴女へ怒らない」

「誰も、“休め”と言わない」

「誰も、“逃げてもいい”と言わない」


 窓の外では、雨が降っていた。


「貴女は、自分で自分を女王に閉じ込めている」


 その言葉は、妙に胸へ刺さった。


 だが。


 エレオノーラは微笑む。


「今さら、降りられません」


「でしょうね」


 ヴィクターは淡々と頷いた。


「だから私は、最後まで付き合いますよ」


 その言葉は、愛ではない。


 けれど。


 長い年月を共にした者だけが持つ、静かな覚悟だった。


 数日後。


 エレオノーラは、視察帰りに馬車を止めた。


「……陛下?」


「少し寄り道をします」


 護衛騎士達がざわめく。


 だが彼女は気にせず歩き出した。


 王都外れ。


 小さな剣術道場。


 木剣の音が響く。


「先生ー!」

「もう一回!」


 子供達の笑い声。


 そして。


 その中央で笑っている男を見た瞬間。


 エレオノーラは、胸が締め付けられた。


 レオンだった。


 右腕は無い。


 だが左手だけで器用に木剣を振り、子供達へ教えている。


 彼は、笑っていた。


 心から。


 エレオノーラは、思わず立ち止まる。


 すると子供の一人が気づいた。


「あっ! 女王陛下だ!」


 空気が変わる。


 子供達が慌てて頭を下げる。


 レオンも振り返った。


 一瞬。


 昔みたいに笑いそうになって。


 でもすぐ、騎士の顔へ戻る。


「女王陛下」


 胸が痛かった。


 エレナではない。


 当然だ。


 もう戻れない。


「……久しぶりですね」


「はい」


「元気そうで何よりです」


「陛下も」


 よそよそしい会話。


 それなのに。


 子供達がレオンへ向ける笑顔を見るだけで、胸が苦しくなる。


 ああ。


 この人は。


 ちゃんと幸せになっているのだ。


 自分と違って。


「先生!」


 少女がレオンの服を引っ張る。


「この人、本当に女王様なの!?」


「ああ」


「すごーい!」


 無邪気な声。


 エレオノーラは微笑む。


 完璧な女王の笑顔で。


「良い先生を持ちましたね」


 そう言った時だった。


「エレナ」


 レオンが、ぽつりと呟いた。


 時間が止まる。


 周囲の騎士達が息を呑む。


 だがレオンは、苦笑した。


「……悪い。昔の癖だ」


 エレオノーラは何も言えなかった。


 ただ。


 胸の奥で、ずっと閉じ込めていた感情が、静かに悲鳴を上げていた。


 帰りの馬車の中。


 彼女はずっと窓の外を見ていた。


 王都の灯りが遠ざかっていく。


 その時。


 不意に気づいてしまった。


 レオンは。


 幸せになれたのだ。


 剣を失っても。


 地位を失っても。


 “誰かのために生きる”ことを選べた。


 でも自分は違う。


 女王であることを選び続け。


 王冠を守り続け。


 その結果。


 何一つ、自分のものにできなかった。


 エレオノーラは、静かに目を閉じる。


 そして生まれて初めて。


 自分の人生を、少しだけ後悔した。


 エレオノーラ女王が倒れたのは、六十二歳の冬だった。


 執務中だった。


 積み上げられた書類。


 灯りの消えかけた暖炉。


 深夜。


 彼女は、突然ペンを落とした。


「陛下!!」


 侍女達の悲鳴。


 駆け寄る騎士達。


 だがエレオノーラは、自分の身体がゆっくり冷えていくのを、どこか他人事のように感じていた。


 ああ。


 終わるのだ。


 そう思った。


 寝台へ運ばれた後も、彼女は静かだった。


 王国は混乱した。


「女王陛下が危篤だと!?」

「医師を呼べ!」

「神官はまだか!!」


 民衆は祈り。


 貴族達は泣き。


 王都中が、白銀の女王のために揺れていた。


 けれど。


 エレオノーラ本人だけが、不思議なほど落ち着いていた。


「……陛下」


 寝室へ入ってきたのは、ヴィクターだった。


 彼ももう老人だった。


 白髪が増え。


 皺も深い。


 それでも、その瞳だけは昔と変わらず静かだった。


「医師によれば、長くはないそうです」


「そう」


 エレオノーラは小さく頷く。


 ヴィクターはしばらく彼女を見ていた。


 やがて。


「後悔していますか」


 静かに、そう聞いた。


 エレオノーラは少しだけ考える。


 長い人生だった。


 王国を守った。


 民を守った。


 飢饉を減らし。


 戦を防ぎ。


 歴史に残る名君となった。


 誰もが彼女を讃えるだろう。


 けれど。


「……分かりません」


 その答えが、彼女の本音だった。


 ヴィクターは苦笑する。


「最後まで貴女らしい」


「貴方は?」


「何がです」


「後悔していますか」


 ヴィクターは、少しだけ目を伏せた。


「ありますよ」


 即答だった。


「私は、最後まで貴女を愛せませんでした」


 エレオノーラは目を瞬かせる。


 ヴィクターは続ける。


「ですが」

「もう少し、貴女を幸せにしてやれたのではないかとは思っています」


 その言葉は。


 今までで一番、夫婦らしい会話だった。


「……ありがとう」


 エレオノーラは小さく笑う。


 ヴィクターも、静かに笑った。


「こちらこそ」


 その夜。


 ヴィクターは、彼女の寝室を去る前に言った。


「レオン卿を呼びましょうか」


 エレオノーラの呼吸が止まる。


 しばらく沈黙して。


 やがて彼女は、静かに首を横へ振った。


「いいえ」


「……そうですか」


「最後まで、女王でいます」


 ヴィクターは何も言わなかった。


 ただ。


 少しだけ悲しそうに目を伏せた。


 翌日。


 エレオノーラは、一人で庭へ出たいと言った。


 侍女達は止めた。


 冬の庭は寒い。


 身体も弱っている。


 だが彼女は譲らなかった。


「少しだけでいいのです」


 白薔薇の庭。


 かつて、レオンと出会った場所。


 雪が静かに積もっていた。


 エレオノーラは、ゆっくりベンチへ腰掛ける。


 空は白い。


 吐く息も白い。


 静かな冬だった。


「……エレナ」


 ふと。


 昔の声が聞こえた気がした。


 振り返る。


 当然、誰も居ない。


 けれど彼女は、小さく笑った。


「今さらです」


 女王として生きた。


 正しい選択をした。


 逃げなかった。


 責任を果たした。


 だからきっと。


 これで良かったのだ。


 そう思わなければ、女王ではいられなかった。


 けれど。


「……少しくらい」


 エレオノーラは目を閉じる。


「普通の女の子として、生きてみたかったですね」


 それは。


 彼女が生涯で、最後に零した弱音だった。


 その夜。


 エレオノーラ・ヴァレンティアは、静かに息を引き取った。


 享年六十二。


 王国史上、最も偉大な女王。


 民衆は涙した。


 貴族達は彼女を讃えた。


 詩人達は、“孤高の白銀女王”を語り継いだ。


 そして数日後。


 王都外れの小さな剣術道場へ、一通の手紙が届けられた。


 老いたレオンは、その封を開く。


 中には、短い紙が一枚だけ入っていた。


『最後まで、エレナと呼んでほしかった』


 レオンは、長い間その紙を見つめていた。


 やがて。


 皺だらけの顔を歪め、静かに笑う。


「……馬鹿だな、お前は」


 その声は、少しだけ震えていた。


 冬の風が吹く。


 白薔薇の花びらが、静かに空を舞っていた。


 後に歴史は語る。


 エレオノーラ・ヴァレンティアを。


 王国史上、最も偉大で。


 最も孤独だった女王だと。


 だが。


 彼女の本当の名を知る者は、最後まで一人しか居なかった。

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