孤独な女王の報われない一生
エレオノーラ・ヴァレンティアが、初めて“女王”と呼ばれたのは、七歳の時だった。
まだ王冠は重すぎて、玉座に座れば足は床につかず、手に持たされた銀の杖は自分の身長ほどもあった。
それでも周囲の大人達は、深々と頭を下げた。
「女王陛下に、栄光あれ」
父王が病で倒れ、母后は既に亡くなっていた。
王家の血を継ぐ者は、エレオノーラ一人。
だから彼女は、七歳で女王になった。
けれど幼い彼女には、王国も、政治も、玉座も分からなかった。
ただ一つだけ分かったことがある。
その日から。
誰も、彼女の名前を呼ばなくなった。
「エレオノーラ様」
そう呼んでくれていた乳母も。
「姫様」
そう笑っていた近衛兵も。
皆、急に距離を置いた。
誰も彼女を抱き上げない。
誰も頭を撫でない。
誰も、泣いても叱ってくれない。
皆、膝をつき、顔を伏せて、同じことを言う。
「女王陛下」
その言葉を聞くたびに、エレオノーラは少しずつ、自分が人間ではなくなっていくような気がした。
女王とは。
泣いてはいけないもの。
弱音を吐いてはいけないもの。
誰かに甘えてはいけないもの。
そう教えられた。
十二歳になる頃には、エレオノーラは誰よりも美しく、誰よりも静かな少女になっていた。
銀色の髪。
薄紫の瞳。
人形のように整った顔立ち。
感情を見せない微笑み。
宮廷の者達は言った。
「陛下は、まことに気高い」
「幼くして、あれほど落ち着いておられるとは」
「天に選ばれた女王だ」
誰も知らない。
その夜。
エレオノーラが一人、寝台の中で声を殺して泣いていることを。
そして十三歳の春。
彼女は、王宮の庭で一人の少年と出会った。
「泣いてるのか?」
無礼な声だった。
エレオノーラは驚いて顔を上げる。
庭の端。
白薔薇の茂みの向こうに、一人の少年が立っていた。
黒髪に、琥珀色の瞳。
年は同じくらいだろうか。
服装は質素だが、腰には木剣を差している。
「……誰ですか」
女王らしい声を出したつもりだった。
だが少年は、少しも怯えなかった。
「俺はレオン。新しく近衛見習いになった」
「近衛見習いが、女王の庭に無断で入るのですか」
「ああ」
「……ああ?」
「迷った」
あまりに堂々と言うので、エレオノーラは言葉を失った。
少年――レオンは、じっと彼女を見る。
「で、泣いてたのか?」
「泣いていません」
「嘘だ」
「嘘ではありません」
「じゃあ目が赤いのは?」
「春の花粉です」
「女王って花粉にも負けるのか」
その瞬間。
エレオノーラは思わず笑ってしまった。
声を出して笑ったのは、いつ以来だろう。
笑った後で、慌てて口元を押さえる。
女王が、こんなふうに笑ってはいけない。
だがレオンは、嬉しそうに言った。
「なんだ。笑えるじゃないか」
「……無礼です」
「よく言われる」
「反省しないのですか」
「しても直らない」
エレオノーラは、また少し笑ってしまった。
それが始まりだった。
レオンは、女王を女王として扱わなかった。
もちろん、人前では礼を尽くした。
膝をつき、頭を下げ、命令には従う。
だが庭で二人きりになると、彼はいつも同じように彼女を呼んだ。
「エレナ」
最初にその名で呼ばれた時、エレオノーラは息が止まりそうになった。
「その呼び方は許していません」
「長いんだよ、エレオノーラは」
「不敬です」
「なら罰するか?」
「……しません」
「ならいいだろ」
よくない。
よくないはずだった。
けれど。
“女王陛下”ではなく。
“エレナ”と呼ばれるたび。
彼女は、自分がまだ一人の少女でいられるような気がした。
レオンは剣の話をした。
城下町の話をした。
市場の焼き菓子の話をした。
川辺で釣れる魚の話をした。
どれも、エレオノーラの知らない世界だった。
「城下には、そんなに人がいるのですか」
「当たり前だろ」
「皆、私のことを知っているのでしょうか」
「まあ、女王だからな」
「……そうですか」
少し寂しそうに言うと、レオンは首を傾げた。
「でも、誰もエレナのことは知らないんじゃないか」
「どういう意味ですか」
「女王のことは知ってる。でも、エレナが夜に泣くことも、甘い焼き菓子が好きなことも、すぐ強がることも知らない」
エレオノーラは黙った。
そんなふうに言われたのは初めてだった。
「……貴方は、私を何だと思っているのですか」
「エレナ」
「そうではなく」
「女王で、普通の女の子」
その言葉が、胸に刺さった。
女王で。
普通の女の子。
そんな矛盾した存在でいていいのだと、初めて言われた気がした。
それから二人は、春が来るたび庭で会った。
十四歳。
十五歳。
十六歳。
レオンは近衛見習いから正式な近衛騎士になり、エレオノーラは少女から美しい女王へ変わっていった。
けれど庭でだけは、何も変わらなかった。
「エレナ」
「何ですか」
「また泣いてたのか」
「泣いていません」
「花粉か?」
「ええ。春ですから」
「便利だな、花粉」
そう言って、二人で笑った。
その頃にはもう。
エレオノーラは、自分の気持ちに気づいていた。
レオンが好きだった。
女王としてではなく。
王家の血筋としてでもなく。
ただのエレナとして見てくれる彼が、好きだった。
だが。
同時に、分かってもいた。
女王は、ただの恋をしてはいけない。
十七歳の春。
宰相から、縁談の話が持ち込まれた。
「北方大公家との婚姻でございます」
エレオノーラは玉座に座り、表情を変えなかった。
「理由を」
「北方貴族の不満が高まっております。大公家との婚姻により、王国の結束は保たれましょう」
「相手は」
「オルグレン大公の嫡男、ヴィクター様にございます」
聞いたことはある。
冷静で有能。
だが、野心家。
王配となれば、王権に深く関わってくるだろう。
「……分かりました」
「陛下」
宰相は深く頭を下げた。
「王国のためでございます」
王国のため。
その言葉は、いつも正しい。
正しいからこそ、残酷だった。
その夜。
エレオノーラは庭へ向かった。
白薔薇が咲いている。
月明かりの下で、レオンが待っていた。
「遅かったな」
「会議が長引きました」
「また無茶言われたのか」
「いつものことです」
彼女は笑った。
女王の顔で。
それを見て、レオンは眉をひそめた。
「エレナ」
「何ですか」
「泣きたいなら泣け」
その一言で、胸が崩れそうになった。
けれど泣かなかった。
泣けば、きっと戻れなくなるから。
「私、結婚することになりました」
レオンの表情が止まった。
風が吹く。
白薔薇の花びらが、二人の間を舞った。
「……誰と」
「北方大公家の嫡男、ヴィクター様です」
「そうか」
短い返事。
それだけだった。
エレオノーラは、少しだけ笑った。
「祝ってくれないのですか」
「祝えばいいのか」
「女王の婚姻です」
「エレナの幸せか?」
答えられなかった。
レオンは一歩近づく。
「エレナ」
「呼ばないで」
初めて、そう言った。
レオンの足が止まる。
「その名前で呼ばないでください」
声が震えていた。
「私は女王です」
「知ってる」
「王国を守らなければなりません」
「知ってる」
「私の婚姻には意味があります」
「知ってる」
「なら……」
エレオノーラは唇を噛む。
「なら、そんな顔をしないでください」
レオンは何も言わなかった。
ただ苦しそうに、彼女を見ていた。
それが、一番辛かった。
「私を困らせないで」
本当は違う。
困っているのは、彼ではない。
自分だった。
女王である自分と。
ただの少女でいたい自分。
その二つの間で、引き裂かれそうになっていた。
「……分かった」
レオンは静かに頭を下げた。
近衛騎士として。
女王に対する、正しい礼だった。
「女王陛下の御婚姻に、心より祝福を」
その瞬間。
エレオノーラの胸の奥で、何かが壊れた。
けれど彼女は笑った。
完璧な女王の顔で。
「ありがとう、レオン卿」
それが。
二人が初めて、互いを遠ざけた夜だった。
女王エレオノーラの婚礼は、国中の祝福を受けた。
王都の鐘は鳴り響き。
白い花びらが空を舞い。
民衆は、美しい女王と気高き大公子の結婚を讃えた。
「女王陛下に永遠の祝福を!」
歓声。
拍手。
笑顔。
誰もが幸せそうだった。
だからこそ。
エレオノーラは、自分だけが取り残されているような気がした。
「……お疲れでしょう」
低い声。
隣に立つ男――ヴィクター・オルグレンは、淡々とそう言った。
北方大公家の嫡男。
女王の夫。
そして、これから王配となる男。
「平気です」
「そうですか」
彼はそれ以上踏み込まなかった。
冷たい男ではない。
むしろ有能で、聡明で、礼儀正しい。
王国にとっては理想的な王配だろう。
だが。
彼は、一度も“エレナ”を見なかった。
見るのはいつも、“女王陛下”だった。
婚姻後、ヴィクターはすぐに政治へ関わり始めた。
税制改革。
北方貴族との調停。
軍備再編。
彼は恐ろしいほど有能だった。
「北部の食糧流通を再編します」
「関税を一部撤廃しましょう」
「貴族院の発言権を整理するべきです」
宰相達は歓喜した。
「なんと素晴らしい……!」
「王配殿下は賢王ですな!」
エレオノーラも理解していた。
彼は必要な存在だ。
王国にとって。
だから彼女は、隣で静かに頷き続けた。
女王として。
正しい選択をし続けた。
そして気づけば。
庭へ行く回数が減っていた。
白薔薇は咲いている。
けれど、もうそこにレオンは居ない。
当然だった。
彼は近衛騎士だ。
女王の婚姻後も、あの場所に残れるほど愚かではない。
ある夜。
エレオノーラは、執務室で書類へ目を通していた。
もう深夜だった。
だが終わらない。
女王の仕事に終わりなど無い。
「……陛下」
侍女が静かに頭を下げる。
「近衛騎士レオン・アルディス卿がお見えです」
その名前に、心臓が止まりそうになった。
「……通しなさい」
声は、震えなかった。
レオンは以前と変わらなかった。
黒髪。
琥珀色の瞳。
ただ。
少しだけ、大人になっていた。
「夜分遅くに失礼します、女王陛下」
完璧な礼。
昔みたいに笑わない。
昔みたいに“エレナ”と呼ばない。
それが酷く苦しかった。
「何の用ですか」
「北西部で盗賊団が発生しました。討伐隊へ参加する許可をいただきたく」
「……貴方が?」
「はい」
エレオノーラは視線を落とす。
本来なら止めるべきだった。
レオンは優秀な騎士だ。
失えば損失になる。
だが。
彼女は知っている。
彼が戦場を選ぶ時、それは“忘れたい時”だと。
「危険です」
思わず、そう口にしていた。
レオンが少しだけ目を見開く。
「女王陛下」
「……っ」
しまった、と思った。
だが遅い。
レオンは静かに笑う。
悲しそうに。
「ご安心ください。必ず生きて帰ります」
その言葉が。
昔と変わらない優しさが。
余計に彼女を苦しめた。
「好きにしなさい」
エレオノーラは視線を逸らす。
「ですが死ねば許しません」
「善処します」
「命令です」
「……はい」
沈黙。
静かな夜だった。
本当は聞きたかった。
どうして最近庭へ来ないのか。
私を避けているのか。
あの日のことを、後悔しているのか。
でも。
女王はそんなことを聞かない。
聞いてはいけない。
「では失礼します」
レオンが去ろうとする。
その背中を見た瞬間。
エレオノーラは、耐えきれずに口を開いた。
「レオン」
その名を呼んだ瞬間。
空気が止まった。
レオンの肩が、僅かに揺れる。
エレオノーラも、自分で驚いていた。
何をしているのだろう。
女王が。
既婚の女が。
こんなふうに男を呼び止めるなんて。
「……何でしょう」
彼は振り返らない。
エレオノーラは唇を噛む。
言葉が出ない。
言ってはいけない。
全部。
王冠が許さない。
だから彼女は。
「必ず、生きて帰りなさい」
それだけしか言えなかった。
レオンは、しばらく黙っていた。
やがて。
「……はい、陛下」
そう答えて去っていく。
扉が閉まる。
静寂。
エレオノーラは、その場でゆっくり目を閉じた。
泣かなかった。
もう泣き方を忘れてしまったから。
数日後。
レオン率いる討伐隊は、北西部で大規模戦闘へ巻き込まれた。
王宮へ報告が届いたのは、雨の夜だった。
「レオン・アルディス卿、重傷!」
その瞬間。
エレオノーラは立ち上がっていた。
王宮の廊下を。
エレオノーラは走っていた。
女王が走るなど、本来あってはならない。
裾を持ち上げ。
濡れた窓ガラスを横目に。
誰の視線も気にせず、ただ前へ進む。
「陛下……!」
侍女達が慌てて後を追う。
だが止まれなかった。
胸が痛い。
苦しい。
嫌な予感が、ずっと喉元に張り付いている。
医務棟へ辿り着くと、騎士達が一斉に膝をついた。
「女王陛下!」
「レオンは」
短く問う。
騎士達の顔が曇る。
「……命に別状はありません」
その瞬間。
全身から力が抜けそうになった。
だが同時に。
「ただし」
続く言葉で、空気が凍る。
「右腕を失いました」
エレオノーラの呼吸が止まった。
雨音だけが響く。
騎士にとって、剣を失うことは命より重い。
近衛騎士として生きてきたレオンにとって、それは――。
「……会わせなさい」
声は静かだった。
だが騎士達はすぐ道を開けた。
部屋へ入る。
薬草の匂い。
薄暗い灯り。
そして寝台の上に、レオンがいた。
包帯だらけだった。
顔色も悪い。
それでも彼は、エレオノーラを見ると小さく笑った。
「そんな顔するなよ」
その一言で。
エレオノーラは泣きそうになった。
けれど泣かなかった。
女王だから。
「……馬鹿者」
彼女は寝台の横へ立つ。
「死ねば許さないと言ったでしょう」
「死ななかった」
「そういう問題ではありません」
「でも、生きて帰ったぞ」
レオンは少しだけ笑う。
昔と同じ笑い方だった。
それが苦しかった。
「右腕を失いました」
「まあな」
「貴方は騎士です」
「だった」
エレオノーラの胸が痛む。
レオンは天井を見る。
「剣、好きだったんだけどな」
ぽつり、と呟く。
その声はあまりにも軽くて。
逆に辛かった。
「……すみません」
気づけば、そんな言葉が零れていた。
レオンが目を瞬かせる。
「何でエレナが謝る」
その呼び方に、息が止まる。
久しぶりだった。
“女王陛下”ではなく。
“エレナ”と呼ばれたのは。
「私が」
彼女は唇を噛む。
「私が、女王だから」
レオンは黙る。
「王国を守らなければならない」
「貴族をまとめなければならない」
「北方との関係も必要だった」
エレオノーラの声が震える。
「だから私は、全部正しい選択をしました」
レオンは静かに聞いていた。
「でも」
彼女は俯く。
「どうして、こんなに苦しいのでしょう」
沈黙。
雨音だけが響く。
レオンはゆっくり目を閉じた。
「エレナ」
「……はい」
「俺は、お前が女王になった時から思ってた」
彼は苦しそうに息を吐く。
「この国は、お前に甘えすぎだ」
エレオノーラが目を見開く。
「皆、“女王だから”って」
「お前が全部耐えるの当たり前みたいな顔して」
「泣くのも」
「弱音吐くのも」
「幸せになるのも」
彼は笑った。
寂しそうに。
「全部、許さなかった」
エレオノーラは何も言えなかった。
そんなこと。
一度も考えたことがなかった。
「でもお前、自分から王冠降ろさないだろ」
「……当然です」
「だよな」
レオンは苦笑する。
「だからせめて、一人の時くらい泣けばいい」
その瞬間。
エレオノーラの瞳から、涙が落ちた。
ぽたり、と。
一滴だけ。
次の瞬間には、止まらなくなっていた。
「……っ」
声を押し殺す。
泣いてはいけない。
泣けば弱くなる。
泣けば崩れてしまう。
そう思っていた。
でも。
「エレナ」
レオンが、左手で彼女の頭を撫でる。
子供の頃みたいに。
優しく。
「よく頑張ったな」
その言葉で。
エレオノーラは、完全に壊れてしまった。
女王ではなく。
ただの少女みたいに泣いた。
長い間。
ずっと。
誰かに言ってほしかった言葉だった。
翌朝。
エレオノーラは、いつもの女王に戻っていた。
涙の跡も消え。
完璧な微笑みを浮かべている。
王配ヴィクターは、彼女を静かに見た。
「レオン卿の件、お聞きしました」
「ええ」
「お気の毒に」
感情の見えない声。
だがヴィクターは、そこで小さく息を吐いた。
「……貴女は、彼を愛しているのですね」
エレオノーラの指先が止まる。
沈黙。
否定すべきだった。
だが。
「はい」
初めて、認めた。
ヴィクターは驚かなかった。
ただ静かに頷く。
「そうだと思っていました」
「軽蔑しますか」
「いいえ」
彼は淡々と言う。
「私は貴女を愛しておりませんから」
エレオノーラは目を見開いた。
「貴女は優れた女王だ」
「私は優れた王配だ」
「だから結婚した」
ヴィクターは紅茶を口にする。
「それだけです」
その言葉は冷たいはずなのに。
どこか、救いでもあった。
少なくとも彼は。
彼女に愛を期待していなかった。
「ですが」
ヴィクターは静かに言った。
「一つだけ、羨ましく思います」
「……何をですか」
「貴女が、一人の男をそこまで愛せることを」
その瞬間。
エレオノーラは初めて。
この冷たい王配もまた、孤独な人間なのだと知った。
それから十年が過ぎた。
ヴァレンティア王国は、黄金期を迎えていた。
北方との対立は収まり。
税制改革は成功し。
飢饉も減り。
民は口を揃えて言う。
「エレオノーラ女王陛下は、歴代最高の名君だ」
王都には彼女の肖像画が並び。
詩人は“白銀の女王”を讃え。
子供達は女王ごっこで遊んだ。
誰もが彼女を愛した。
けれど。
誰一人、“エレナ”を知らなかった。
「陛下、本日の予定です」
侍女が淡々と予定表を読み上げる。
外交会談。
貴族院会議。
視察。
晩餐会。
終わらない。
女王の一日は、いつだって誰かのために埋め尽くされていた。
「……陛下?」
「何でもありません」
エレオノーラは静かに微笑む。
完璧な女王の顔で。
もう泣くことは無かった。
あの日。
レオンの前で泣いて以来。
彼女は再び、“女王”へ戻った。
レオンは近衛を辞し、今は王都外れで小さな剣術道場を開いている。
右腕を失った騎士。
それでも彼を慕う子供達は多かった。
「先生!」
「また昔の戦の話してください!」
笑い声。
夕暮れ。
剣を握れなくなった男は、それでも誰かに必要とされていた。
一方で。
エレオノーラは、王座に座り続けている。
女王だから。
国が必要としているから。
その夜。
王配ヴィクターが、静かに口を開いた。
「北東部の視察ですが、私が代行しましょう」
「いえ、私が行きます」
「最近、働きすぎです」
エレオノーラは書類から目を離さない。
「女王の仕事です」
「……貴女は」
ヴィクターが少し黙る。
「時々、自分が壊れないと思っている節がありますね」
エレオノーラは手を止めた。
「壊れては困りますから」
「人は壊れます」
「私は女王です」
「だから壊れるのです」
静かな声だった。
エレオノーラは視線を上げる。
ヴィクターは昔より老けていた。
だが、その瞳は相変わらず冷静だった。
「陛下」
「何でしょう」
「貴女は、一度も“幸せになろう”としなかった」
その言葉に。
胸が少し痛んだ。
「幸せは必要ありません」
「国には?」
「ええ」
「では貴女には?」
答えられなかった。
ヴィクターは苦笑する。
「私は、政治的には貴女を尊敬しています」
紅茶を置く。
「ですが人としては、少し嫌いです」
エレオノーラは目を瞬かせた。
「……初めてですね。そんなことを言われたのは」
「皆、貴女を崇拝しすぎる」
ヴィクターは静かに言う。
「だから誰も、貴女へ怒らない」
「誰も、“休め”と言わない」
「誰も、“逃げてもいい”と言わない」
窓の外では、雨が降っていた。
「貴女は、自分で自分を女王に閉じ込めている」
その言葉は、妙に胸へ刺さった。
だが。
エレオノーラは微笑む。
「今さら、降りられません」
「でしょうね」
ヴィクターは淡々と頷いた。
「だから私は、最後まで付き合いますよ」
その言葉は、愛ではない。
けれど。
長い年月を共にした者だけが持つ、静かな覚悟だった。
数日後。
エレオノーラは、視察帰りに馬車を止めた。
「……陛下?」
「少し寄り道をします」
護衛騎士達がざわめく。
だが彼女は気にせず歩き出した。
王都外れ。
小さな剣術道場。
木剣の音が響く。
「先生ー!」
「もう一回!」
子供達の笑い声。
そして。
その中央で笑っている男を見た瞬間。
エレオノーラは、胸が締め付けられた。
レオンだった。
右腕は無い。
だが左手だけで器用に木剣を振り、子供達へ教えている。
彼は、笑っていた。
心から。
エレオノーラは、思わず立ち止まる。
すると子供の一人が気づいた。
「あっ! 女王陛下だ!」
空気が変わる。
子供達が慌てて頭を下げる。
レオンも振り返った。
一瞬。
昔みたいに笑いそうになって。
でもすぐ、騎士の顔へ戻る。
「女王陛下」
胸が痛かった。
エレナではない。
当然だ。
もう戻れない。
「……久しぶりですね」
「はい」
「元気そうで何よりです」
「陛下も」
よそよそしい会話。
それなのに。
子供達がレオンへ向ける笑顔を見るだけで、胸が苦しくなる。
ああ。
この人は。
ちゃんと幸せになっているのだ。
自分と違って。
「先生!」
少女がレオンの服を引っ張る。
「この人、本当に女王様なの!?」
「ああ」
「すごーい!」
無邪気な声。
エレオノーラは微笑む。
完璧な女王の笑顔で。
「良い先生を持ちましたね」
そう言った時だった。
「エレナ」
レオンが、ぽつりと呟いた。
時間が止まる。
周囲の騎士達が息を呑む。
だがレオンは、苦笑した。
「……悪い。昔の癖だ」
エレオノーラは何も言えなかった。
ただ。
胸の奥で、ずっと閉じ込めていた感情が、静かに悲鳴を上げていた。
帰りの馬車の中。
彼女はずっと窓の外を見ていた。
王都の灯りが遠ざかっていく。
その時。
不意に気づいてしまった。
レオンは。
幸せになれたのだ。
剣を失っても。
地位を失っても。
“誰かのために生きる”ことを選べた。
でも自分は違う。
女王であることを選び続け。
王冠を守り続け。
その結果。
何一つ、自分のものにできなかった。
エレオノーラは、静かに目を閉じる。
そして生まれて初めて。
自分の人生を、少しだけ後悔した。
エレオノーラ女王が倒れたのは、六十二歳の冬だった。
執務中だった。
積み上げられた書類。
灯りの消えかけた暖炉。
深夜。
彼女は、突然ペンを落とした。
「陛下!!」
侍女達の悲鳴。
駆け寄る騎士達。
だがエレオノーラは、自分の身体がゆっくり冷えていくのを、どこか他人事のように感じていた。
ああ。
終わるのだ。
そう思った。
寝台へ運ばれた後も、彼女は静かだった。
王国は混乱した。
「女王陛下が危篤だと!?」
「医師を呼べ!」
「神官はまだか!!」
民衆は祈り。
貴族達は泣き。
王都中が、白銀の女王のために揺れていた。
けれど。
エレオノーラ本人だけが、不思議なほど落ち着いていた。
「……陛下」
寝室へ入ってきたのは、ヴィクターだった。
彼ももう老人だった。
白髪が増え。
皺も深い。
それでも、その瞳だけは昔と変わらず静かだった。
「医師によれば、長くはないそうです」
「そう」
エレオノーラは小さく頷く。
ヴィクターはしばらく彼女を見ていた。
やがて。
「後悔していますか」
静かに、そう聞いた。
エレオノーラは少しだけ考える。
長い人生だった。
王国を守った。
民を守った。
飢饉を減らし。
戦を防ぎ。
歴史に残る名君となった。
誰もが彼女を讃えるだろう。
けれど。
「……分かりません」
その答えが、彼女の本音だった。
ヴィクターは苦笑する。
「最後まで貴女らしい」
「貴方は?」
「何がです」
「後悔していますか」
ヴィクターは、少しだけ目を伏せた。
「ありますよ」
即答だった。
「私は、最後まで貴女を愛せませんでした」
エレオノーラは目を瞬かせる。
ヴィクターは続ける。
「ですが」
「もう少し、貴女を幸せにしてやれたのではないかとは思っています」
その言葉は。
今までで一番、夫婦らしい会話だった。
「……ありがとう」
エレオノーラは小さく笑う。
ヴィクターも、静かに笑った。
「こちらこそ」
その夜。
ヴィクターは、彼女の寝室を去る前に言った。
「レオン卿を呼びましょうか」
エレオノーラの呼吸が止まる。
しばらく沈黙して。
やがて彼女は、静かに首を横へ振った。
「いいえ」
「……そうですか」
「最後まで、女王でいます」
ヴィクターは何も言わなかった。
ただ。
少しだけ悲しそうに目を伏せた。
翌日。
エレオノーラは、一人で庭へ出たいと言った。
侍女達は止めた。
冬の庭は寒い。
身体も弱っている。
だが彼女は譲らなかった。
「少しだけでいいのです」
白薔薇の庭。
かつて、レオンと出会った場所。
雪が静かに積もっていた。
エレオノーラは、ゆっくりベンチへ腰掛ける。
空は白い。
吐く息も白い。
静かな冬だった。
「……エレナ」
ふと。
昔の声が聞こえた気がした。
振り返る。
当然、誰も居ない。
けれど彼女は、小さく笑った。
「今さらです」
女王として生きた。
正しい選択をした。
逃げなかった。
責任を果たした。
だからきっと。
これで良かったのだ。
そう思わなければ、女王ではいられなかった。
けれど。
「……少しくらい」
エレオノーラは目を閉じる。
「普通の女の子として、生きてみたかったですね」
それは。
彼女が生涯で、最後に零した弱音だった。
その夜。
エレオノーラ・ヴァレンティアは、静かに息を引き取った。
享年六十二。
王国史上、最も偉大な女王。
民衆は涙した。
貴族達は彼女を讃えた。
詩人達は、“孤高の白銀女王”を語り継いだ。
そして数日後。
王都外れの小さな剣術道場へ、一通の手紙が届けられた。
老いたレオンは、その封を開く。
中には、短い紙が一枚だけ入っていた。
『最後まで、エレナと呼んでほしかった』
レオンは、長い間その紙を見つめていた。
やがて。
皺だらけの顔を歪め、静かに笑う。
「……馬鹿だな、お前は」
その声は、少しだけ震えていた。
冬の風が吹く。
白薔薇の花びらが、静かに空を舞っていた。
後に歴史は語る。
エレオノーラ・ヴァレンティアを。
王国史上、最も偉大で。
最も孤独だった女王だと。
だが。
彼女の本当の名を知る者は、最後まで一人しか居なかった。




