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ヤープの女王2

その日は暑かったこともあり、学校から帰るとすぐに洗面所に行き、頭から水を被っていた。

まだメイクをしていない頃だったので何も気にすることなく、バシャバシャと思う存分浴びられた時期だ。


『柚月』

水の音に交じって誰かが自分の名前を呼ぶ気がした。女の人の声だが、母親ではない。


顔を上げ、あたりを見回しても誰もいない。

空耳かと顔を正面に向けた時、鏡の中の自分の唇が微かに動いた。


『こんにちは、柚月』


もちろん、自分の唇が動いているのだが『こんにちは』なんて自分に言うはずがない。

勝手に口が動いて言っているのだ。


『やっと、こうして話せるね』

また、勝手に喋った。自分の頭がおかしくなったか、幻覚を見ているのか訳が分からなくなり、グーっと顔を鏡に寄せた。


「あんた誰?」

鏡の中の自分の口が同じように動く。いたって普通のことだ。


だが、次の瞬間

『モヤモヤだよ。忘れちゃった?』

(モヤモヤ?)

その言葉を頭の中で反芻し、記憶の中からあの薄黒い煙のようなものを抜き出してきた。


「モヤモヤ⁉」

思わず大きな声が出てしまった。それはそうだろう。最近姿を見なくなったと思っていたあのモヤモヤが鏡の中にいるなんて考えたこともない。


「柚月、どうしたの?」

リビングの方から母親の声がする。大声を出してしまったからだ。


「大丈夫。何でもないよ」

「もう、急に変な声出さないでよね」


最近、スマホで動画を見ていると知らぬうちに声に出ていることがある。小学生の女の子だから普通のことだと思うが、母親にとってはこれが結構なストレスらしく『もうウンザリよ』という感情がその声に乗っているのが分かる。大人は子供がこういった悪意に気付かないと考えているのだろうけど、意外と子供は気づくものだ。


『そうだよ。そのモヤモヤだよ』

そんなアタシの感情にお構いなく鏡の中のアタシは話しかけてくる。


『お母さんとうまくいってないみたいね』

アタシの口が動いてアタシに話しかけてくる。

「アンタに・・」

大きな声が出そうになって慌てて口を抑える。忌々しいことに鏡の中の自分も同じようにしている。

(誰のせいで)

そう叫びたいのをグッと堪えて


「アンタに何か言われる筋合いはないわよ」

感情を抑えて、努めて冷静に鏡の中の自分に言ったのだが、向こうも同じように口を動かしているのだから、その言葉はそのまま自分に跳ね返ってくる。


頭がおかしくなりそうだ。


耐えられなくなり顔を横に向け、鏡を見ないようにする。

するとまた口が勝手に動いた。


『この方がいいよね?やっぱ、正面から向き合うとお互い変な感じするもんね』

顔が見えない分、却って違和感が大きい。だが、この体勢になって分かったことがあった。


口は動いているが、声には出ていないのだ。

声ではなく頭の中に直接、響いてくるという感じだ。

つまり、他の人から見ると小学生の女子が洗面台の鏡の前に立ち、一人二役で会話をして笑ったり、驚いたりしている。


アタシが赤ちゃんなら微笑ましい光景かもしれないけど、小学3年生にもなると可愛らしさより『危ないヤツ』と怖がられそうだ。

まして母親がこんな場面を見たら間違いなくアタシの頭がおかしくなったと思うだろう。


(よし!)


今、もっとも優先しなければならないのは自分の身に何が起きているかを理解するより、まず母親にこの状況を見せてはいけないということだ。


素早くバスタオルを取ると適当に頭と顔を拭い、そのまま自分の部屋へ駆け込んだ。


部屋に入るとドアを閉め、そのままドアに耳を当てる。ちょっとドタドタしたので母親が文句を言いながら部屋に来るかもしれない。


だが、特に近づいてくる足音も無いようなのでひと息つき、ベッドに腰かけた。

頭からタオルを被ったまま小さい声で呼んでみる。


「ねえ、いるんでしょ?出てきてよ」

また、自分の口が勝手に動くものだと警戒して反応を待つ。


しかし、予想に反して1分、2分と待っても何の反応も無い。

「どうしたの?出てきてよ」

先ほどより少し大きな声で呼んでみる。


だが、それでもやはり反応が無い。

(どういうこと?)

ベッドにひっくり返り、天井を仰ぎ見て考える。


「やっぱり、幻覚だったのかな」

冷静に考えれば、それが一番しっくりくる。だが、しっくり来ない部分もある。


(アタシの中でモヤモヤってそんなに大きな存在だった・・・?)

目を瞑り、考えを巡らせる。


だが、いくら考えても思い出と言うほどのものは出てこなかった。


なんなら、今の今まで忘れていた。


記憶をいくら辿ってもこれ以上考えても何も出てこないと気づき、思考が止まる。

そして、そのまま眠りに落ちていった。


呼吸の間隔が『すう、すう』と長い寝息に変わり、そのまま深い眠りに入っていきそうになった・・が、次の瞬間。

突如、頭に光が走り、上半身をベッドから跳ね起こすと、そのままの勢いで部屋を飛び出して一気に洗面所へと駆け込んでいった。

そして鏡を前にして


「アンタ、そこにいるの?」

と荒れた呼吸のまま訊ねた。


『そうだよ』

鏡の中の口と同じように自分の口も動いて質問に答えた。


「やっぱり」

自分の考えが正しかった。


部屋で何も反応が無かったのは、モヤモヤがここにいるからだ。

眠りに落ちそうになった時、ボンヤリとした頭にふと思い浮かんだ可能性。

そのことに気付いた時に眠気は吹き飛び、体は自然と動きここまで来ていた。


「ねえ、教えて・・」

これが現実だとしたら、訊きたいことは山ほどある。それを口に出そうとしたが・・上手く口が動かない。


おかしいと思って鏡の中の自分を見ると向こうも何か喋ろうとしている。


(そうか、同時に話すのは無理だもんね)

そう理解した時に右手が動いた。

鏡の中の左手も同じように動いている。


(体も動かせるんだ)

自分の体が勝手に動く奇妙な感覚に感心していたが、ふと手の形がおかしいことに気付く。


その動きは人差し指を立てて、何かを指しているように見える。

鏡の中の指先に目を凝らす。

そこには人が立っていた。


「・・・柚月」

その声に背中から汗がドッと噴き出した。冷や汗という言葉の意味を実感した瞬間だった。


「お母さん」

ゆっくりと振り返りながら、出来る限り穏やかに母親に話しかける。


だが、目にした母親の顔は真っ青だった。人間の顔が青くなるという比喩表現が本当であることも、この時初めて知った。


「今、誰と話していたの?」

母親は無表情のまま、今まで聞いたことのない低く、沈んだ声で訊いてきた。


怒っているのか、驚いているのか、感情が読み取れない。


どうしようか?モヤモヤのことを話してみる?


いや、それはダメだ。

(お母さんはモヤモヤの話をするのが嫌いだ)


幼稚園までは家で話題にすることも出来たが、小学校に入ってからこの話をしようとするとひどく不機嫌になるのを知っていた。


最初のうちはその反応が面白くて無理に話そうとしたこともあったが、ある時調子に乗りすぎて母親が泣いてしまったことがあった。


悪いことをして怒られるのは理解できる。だけど大人が小学生の子供の言葉で泣いてしまうという状況は想像もしていなかった。


声を押し殺すように、肩を震わせ涙だけがポタポタト流れ落ちる母親の姿を見た時に心の底から自分のやったことを後悔した。


母親が泣いた本当の理由は今も分からない。だけど、他人を泣かせてしまうくらい自分は酷いことをしたのだということだけは当時でも理解でき、大泣きしながら抱き着いて謝った。

それ以来、母親の前だけでなく父親の前でもモヤモヤの話は一切しなくなった。


「柚月」

何も言わない自分を見て母親がもう一度、問いかけてくる。


(どうしよう?)

そう考えた瞬間に口が動いていた。


「誰とも話していないよ。何か聞こえた?」

あっけらかんと、何事もなかったかのようにアタシは答えていた。


いや、アタシではない。

アタシの口を使ってモヤモヤが答えたのだ。


「え、だって『アンタ、そこにいるの?』って言っていたわよね」

そんなところから聞かれていたのか。


「あー、聞いていたの?やだな、さっき、見た動画の中で言っていたのよ」

「本当に?」

「本当にって何よ?あー、アタシがまた何か変なものを見たとか言い出すと思っていたんでしょ?」

「違うの?」

「あのね、確かに昔は言っていたけど、いつまでもその話を蒸し返すのはやめてよ」

少し切れ気味な声でアタシが言う。


いつの間にか母親の方が悪者にされている。

「そりゃあ、あれだけ聞かされたんだから、こっちだってしばらくは言う権利があるわよね。小学校の間は使わせてもらうわよ」

母親の顔に生気が戻り、声も落ち着いている。


「ムカつく!」

そういってアタシは母親の脇を通り、洗面所から出ていった。


「携帯は1日3時間、それ以上はダメよ」

背中から母親の声が追いかけてくる。


「分かってるわよ!」

またしても切れ気味に返す。


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