出立と前進
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玄関には、簡単な鞄がひとつ置かれていた。母さんはそれを見るたび、何度目かも分からない確認をする。
「学院っていっても、普通の学校なのよね。カウンセリングもあるし、医師の先生も常駐してて……」
自分に言い聞かせるような口調だった。
「向こうから声をかけてくれたんでしょう?今の侑には、環境を変えるのがいいって」
父さんも、静かに頷く。
「慈善だとしても、専門家がいる場所だ。ここで一人で抱えるより、ずっといい」
永介の葬式の後、マーリンさんは俺の家を訪れた。学院は、メンタルサポートや医療体制が充実した支援特化の学校で、事故のことを知り、慈善として俺を支援したい――そういう体で、学院に預けてみないかという提案だった。母さんと父さんは最初、強く反対した。それでも、俺とマーリンさんで説明と説得を重ね、最終的に学院へ通うことを許してくれた。――それが“正しい説明”だと、二人は信じている。俺も、マーリンさんに合わせて、そういうことにしている。
「……うん。大丈夫」
短く答えると、母さんはようやく、ほんの少しだけ笑った。
「無理しなくていいのよ。ちゃんと話して、ちゃんと休んで……それだけでいいから」
“治してこい”じゃない。“元に戻れ”でもない。それが、余計に重かった。
家の戸を開けると、門の前に小春がいた。風に揺れる髪を押さえながら、まっすぐ俺を見る。
「そっか……療養、みたいな感じなんだよね」
「うん。メンタルサポートが手厚い学校らしい」
“らしい”としか言えない自分が、少し嫌だった。
「ちゃんと見てくれる人がいるなら……いいと思う」
小春はそう言って、無理にでも納得しようとしている。
「侑が壊れちゃうより、ずっといい」
「壊れている」という言葉に、否定も肯定もできず、ただ息を吸った。涙目になりながら、小春が俺に聞く。
「……また、戻ってきてくれるよね?」
「当たり前だろ」
そう即答した俺の声は、自分でも驚くほど落ち着いていた。小春はそれを聞いて、ようやく少しだけ笑った。涙をこぼさないように、ぎゅっと唇を噛みしめて。背後で、玄関の戸が開く音がした。母さんと父さんが、外へ出てくる。三人が並んで立つ光景を見て、胸の奥が、じわりと熱くなった。母さんは、俺の鞄を見て、また同じことを言いかけて――やめた。
「……気をつけて」
それだけ。父さんは一歩前に出て、俺の肩を軽く叩く。
「無理だと思ったら、戻ってこい。迎えに行く」
頷くと、言葉が要らなくなった。少し離れたところに、黒塗りの車が停まっている。マーリンさんが、すでに待っていた。――ここから先は、俺の世界じゃない。
「行ってきます」
それだけ言って、歩き出す。誰も引き留めなかった。誰も手を伸ばさなかった。それでも、背中は重かった。車のドアが閉まる音が、やけに大きく響く。窓越しに、三人の姿が遠ざかっていく。手は振らなかった。振ってしまえば、ここが“帰る場所”になってしまう気がしたから。エンジンがかかり、車が動き出す。
――こうして俺は、守られていた世界から、静かに切り離された。




