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玄霧と麗人

 心の靄は晴れないまま、ファウストの部屋を出た。胸の奥に重たいものを抱えたままだ。――課題の束。一週間。

『閉心術の基礎もできないやつが文句を言える立場なのか?』

 ファウストの言った言葉が考えないようにしても、言葉が頭の中で反芻される。

 廊下を歩きながら、無意識に視線が下がった。床の隅。壁の境目。天井の梁の影。――黒い。もやり、と。煙のようで、霧とも違う。確かに“そこにある”のに、形を定めないもの。学院の中で何度か見たものと同じだ。こんなに近くで見たのは初めてだ。黒い砂のような粒子がふわふわと何かの形を持って動いている。足が、止まる。……近づくと、嫌な感じがする。そのときだった。

「それ以上、近づかない方がいいと思いますよ」

 靄の中から、女性の声がした。驚いて振り返る。靄の中に立っていたのは、少女だった。黒曜石のようにつやを持った黒髪。長さは肩にかかるかかからないかの間程の長さだ。伏し目がちで、腕を胸の前で抱えている。表情は淡いのに、視線だけは黒いモヤを正確に捉えていた。――なぜか、目が離せなかった。理由は分からない。ただ、胸の奥が、ひくりと鳴った。

「どうしてそんなずっと見てくるんですか?それともこの子たちがそんなに珍しいんですか?」

 彼女が俺と目を合わせるように言った。目は月のように綺麗な黄金色だった。鼓動がいやにうるさい。

「は、はい!」

 咄嗟に答えた。なんだか、言葉がいつも道理でない。

「……あなたが噂の遅めの新入生ですか?」

 淡々とした声。感情がないわけじゃない。ただ、必要以上を削ぎ落としたような話し方だった。

「あの……これも、見えないことも、ここではおかしいことなんですか?」

 さっきのファウストの言葉がよみがえる。自分がここでは遅れた存在であることをいやでも自覚させられた。見えないことも自分が思っていた以上にここではおかしなことなのかもしれない。

「そうですね……。基本学院にいる人なら初等部で習うことです。」

 彼女は淡々と答えた。

「もしよかったら見方を教えてくれませんか!?」

 また、頭にふと出てきた言葉を口にする。初対面で行き過ぎたことをしていると思ってるのに、ついポンと言ってしまった。侑の動揺とは裏腹に、彼女は眉をピクリとも動かさなかった。ただ侑の目から目線を外し、足元を数秒眺めていた。やっぱり、行き過ぎたことをしたのだと侑が断ろうとしたその時だった。

「いいですよ。」

「やっぱりそうですよね!すみません!……え?」

 予想外の言葉に驚きを隠せなかった。

「目を閉じてください。力を抜いて、深呼吸をしてください。」

 彼女はそう言って俺の手を握って来た。また鼓動が速くなっていく。彼女の手は彼女の冷静さとは裏腹にほんのりと温かった。

 「これは呪いや魔物、式神などの人ならざるもののです。見るのに慣れていたり、注意して見ないと見えないものです。」

 妙に腑に落ちる言葉だった。いつもこの靄は人の周りに多く見られた。

「触れると、良くないです。特に、閉心術を使えない人は」

 胸が、ちくりと痛んだ。

「……分かるんですか」

「はい」

 即答。

「ずっと心の中のことが漏れてますよ」

 彼女は、ほんの少しだけ視線を逸らす。


「ファウスト先生は気難しいですが、授業もわかりやすいですし、一生懸命取り組みさえすれば沢山手伝いしてくれますよ。」

 ――ファウストの声が、脳裏をよぎる。いやな思いだけが心によみがえる。でも、彼女が嘘をついているようには見えなかった。

「……心を空っぽにしてください。それから、……何というか、常識?と思っていることを全部0にしてください。きっと、あなたが今見ようと思っていることは全部あなたの今までの常識とはとても外れたものだとおもうので……。」

 自分でも意外なほど、素直に聞いていた。心を空にしていく。今さっき起こったことへの憤慨も、俺の身に起こったすべてへの形容しがたい感情も……。少女はゆっくり言う。

「目をゆっくりあけて下さい。」

 目の前に大きな人形のような関節に、能面のお面をして女性のような何かが彼女の後ろに肩を持ってふわふわと宙に浮いていた。

「…………ッ!?」

 思っていた以上に大きく、自分に近かったため、声も出なかった。

「……すみません。近すぎましたよね。」

 彼女は数歩後ろに下がった。

「い、いえ」

 慌てて答える。

「た、助かりました」

 その言葉に、少女はわずかに目を丸くした。そして、少し微笑み、小さく頭を下げた。

「よかったです。私の名前は土御門菫です。」

「あっ……お、俺は常盤、侑です」

 名を交わした、その瞬間。胸の奥が、また鳴った。初めての感覚だ。

「……あの」

 菫さんが、遠慮がちに口を開く。

「侑さんは、どちらへ?」

「マーリン先生の部屋です」

 そう答えると、菫は一瞬だけ固まった。

「……私もです」

 視線が下がる。

「課題を、提出しに」

 沈黙が落ちる。気まずさというより、間の取り方が分からない沈黙。俺は、思わず言っていた。

「あの、よかったら……一緒に行きませんか」

 菫は、迷った。ほんの数秒。でも、その間に葛藤があったのが分かる。やがて、小さく頷いた。

「……はい」

 並んで歩き出す。さっきまで気になっていた黒いモヤは、いつの間にか視界の端に追いやられていた。

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