授業と奮起
マーリンとの話が終わり、そのまま授業教室へ案内された。廊下を歩きながら、侑は何度も周囲を見回していた。天井は高く、壁には用途の分からない器具や紋様が刻まれている。どれも、普通の学校で目にするものとは違う。
扉が開かれた瞬間、空気が変わった。教室は、想像していた“教室”とはだいぶ違っていた。机は固定されておらず、円形に並べられているものもあれば、壁際に寄せられているものもある。それに、日本の高校の教室ではあり得ないほど、さまざまなものが周囲に置かれている。見たことのない装置、宙に浮いたまま静止している結晶、かすかに光を放つ板状の器具。何のために使うのか、見当もつかない。それでも、生徒たちはそれらを気にする様子もなく、思い思いに席についていた。
「お、先生来た!」
「今日は遅いじゃん」
「コーヒー切れ?」
飛び交う声は遠慮がなく、教室というより、どこかの作業場のような雑多さがあった。
「はいはい、うるさい」
マーリンが軽く手を振る。その仕草に苛立ちはなく、むしろ慣れきっているように見えた。
「今日は新入りを連れてきた」
一斉に視線が集まる。その瞬間、侑は無意識に背筋を伸ばしていた。
「体験参加だ。気にしなくていいよ」
そう言いながら、マーリンは侑を空いている席へと促す。歩き出したとき、視界の端に見覚えのある背中が入った。
「お」
ケビンが振り返り、にっと笑う。
「来たんだ」
「……はい」
声が少し硬くなる。
「気楽にいけ。どうせ意味分かんねえから」
その言い方が妙に自然で、侑は一瞬だけ肩の力が抜けた。フォローなのか、それは。授業が始まる。
「じゃあ、前回の続き」
マーリンが指を鳴らす。乾いた音と同時に、空中に複雑な構造が浮かび上がった。線が絡み合い、層を成し、まるで生き物のように形を変える。反応を示すたび、色が微妙に変化していく。立体的で、直感的で、それでいて理屈に基づいているらしいことだけは伝わってきた。言葉は聞こえる。説明も耳には入ってくる。理屈も、断片的には分かる。けれど、それが何に使えるのか、どう役立つのか、その全体像がどうしてもつかめなかった。
「ここ、反応おかしくね?」
「いや、条件次第だろ」
「先生、これ別解あります?」
次々に声が飛ぶ。誰かが発言すれば、別の誰かがすぐに食いつく。静かに聞く、という選択肢は、最初から存在しないらしい。
「いい質問」
マーリンは即座に返す。
「じゃあ、それ、前に出て説明して」
「了解っす」
生徒は当然のように前に出ると、空中の構造に手を伸ばし、迷いなく組み替え始めた。
「ほら、こうすると――」
構造が変化し、色の流れが安定する。
「なるほど!」
教室がざわついた。教師と生徒の境界が、いい意味で曖昧だった。教えられる側が、同時に教える側にもなる。質問していい。間違えてもいい。議論していい。その空気が、教室全体を満たしていた。侑は、内容を追うのを諦め、空気を感じ取ることにした。笑い声。軽口。ぶつかり合う意見。それでも、誰一人として手を抜いていないことだけは、はっきりと分かる。ケビンが、肘で軽くつついてくる。
「どう?」
「正直……」
一瞬、言葉に詰まる。
「難しいです」
「だよな」
ケビンは笑った。
「でも、退屈はしないだろ」
その言葉に、侑は否定できなかった。分からない。ついていけない。それなのに、不思議とつまらないとは感じなかった。授業の終わり。
「はい、今日はここまで」
マーリンが手を叩く。
「次までに、各自プリントにまとめて提出」
生徒たちは文句を言いながらも、どこか楽しそうに片付けを始める。談笑しながら教室を出ていく背中は、疲労よりも充実感を帯びていた。
「どうだった?」
マーリンが、侑に声をかける。
「……頭が追いついていません」
「うん、それでいい」
即答だった。
「今日は理解する日じゃない。慣れる日だ」
マーリンは肩をすくめ、くすっと笑う。
「今後、定期的に座学に関する授業にも出てもらう」
侑は思わず目を瞬かせた。
「理解できなくてもいい。空気と流れを体に覚えさせる。それと、実践系の授業には一般生徒と同じく出てもらう」
「……できるんですか」
「できなくてもやる」
きっぱりと言い切られる。
「頭で理解する前に、体が先に覚えるタイプもいる」
マーリンは、侑を見て言った。
「君は、たぶんそっちだ」
机の引き出しを開け、数枚の紙を取り出す。
「補習担当の教師の名簿だ」
紙を受け取ると、そこには想像以上の名前が並んでいた。
「それぞれ、補習や個別指導を引き受けてくれる教師たちだ」
「……こんなに」
「君用にね」
その言い方が、あまりにあっさりしていて、侑は言葉を失う。
「教科書も、各自指定がある。明日までに、この名簿に載っている教師全員に会って、やることと課題を聞いてきなさい」
マーリンは軽く机を叩いた。
「明日……?」
「うん、明日」
逃げ道はない。
「大丈夫」
マーリンは、少しだけ声を落とす。
「分からないって言えるのは、強さだ」
その言葉が、胸の奥に静かに沈んだ。
「あ、あと……」
侑が顔を上げる。
「学院では、“マーリン先生”って呼ぶように」
「……はい」
「生徒と教師の線は、ちゃんと引かないとね」
言葉とは裏腹に、その笑みは柔らかい。
「じゃ、今日はここまで」
教卓から降りる。
「明日から、本番だ」
教室を出るとき、侑は名簿と教科書を抱え直した。重い。けれど、不思議と嫌じゃない。課題がある。進む道が、はっきり示されている。胸の奥が、ざわついている。難しい。それでも、嫌じゃない。この学院で学ぶ、という実感が――ようやく、確かな輪郭を持ちはじめていた。




