第134話 神よりも恐ろしい者
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あれから、三年という歳月が流れた。
俺は、世界で最も腐敗し、最も救いようのない街と名高い、ここ"モルゴア"にいた。
法も秩序も、この街では、とうの昔にその意味を失っている。力こそが正義であり、弱者はただ搾取され、踏みにじられるだけの巨大なスラム街。希望という言葉は、この街の辞書には存在しない。
夜が訪れると、俺はダークエイジになる。顔の全てを覆う、のっぺりとした黒い覆面を被り、街の闇へと繰り出す。俺のやり方は、ラーズを倒した五年前と少しだけ変わった。殺さない。だが、再起不能になるまで、あるいは、二度と悪事に手を染めようとは思わないほどの恐怖を、その魂に刻み込むまで、徹底的に叩きのめす。
俺の存在は、この街の悪党たちにとって、唯一、神よりも恐ろしい必要悪として、ある種の都市伝説のように語られていた。
そして昼が来ると、俺はアークという名の、ただの盲目の青年に戻る。街外れにある、小さな工房。そこで、俺は働いていた。
「アーク、少し手を貸してくれ。この歯車が、どうにも上手く噛み合わん」
工房の主人、ギデオンが、油に汚れた手で、俺を呼んだ。彼は片腕を失った、屈強な体つきの老人だ。元は腕利きの兵士だったらしいが、今は、ガラクタ同然の機械を修理したり、時には、独創的な発明品を作り出したりして、細々と生計を立てている。
「分かった、親父さん」
俺は、手探りで彼の元へ向かった。俺の目が見えないことなど、この工房では、何のハンデにもならない。ギデオンは俺が触れただけで、機械の構造や、ミリ単位のズレさえも理解できることを知っている。
それだけではない。この老人は、俺がアークなどというありふれた偽名を名乗る、かつて世界を救った男、ブレイク・カーディフ本人であることも、そして、夜な夜なこの街を騒がす、黒い覆面のダークエイジであることも、全て知っている。
ある日の戦いでボロボロになり、気絶していた俺を彼は救ってくれた。その時に正体に気づいたようだが、彼はただ、黙って俺を受け入れてくれた。初めてアークとしてこの工房を訪れた日、彼は、俺の淹れた不味い茶を一口すすると、こう言ったのだ。
「この街の闇は、お前さん一人がどうにかできるほど浅くはない。だがな、たった一つの石ころが、いつか、思いもよらないところで、濁流の流れを、ほんの少しだけ変えることもある。ワシは、それが見てみたいだけだ」
ギデオンは俺にとって、この掃き溜めのような街での唯一の理解者であり、父親のような存在だった。
「よし、こんなもんか。流石だな、お前さんの指先は、どんな精密機械よりも正確だ」
ギデオンが、満足げに笑う。
「それより、親父さん。頼まれていた、動力用のベルトがもうすぐ切れそうだ。今日のうちに、市場に買い出しに行っておきたいんだが」
「おお、そうだったな。すっかり忘れとったわ。よし、ワシも行こう。たまには、外の空気を吸わんとな」
俺とギデオンは工房の戸締りをすると、街の中央市場へと向かった。モルゴアの中央市場は、あらゆるものが混沌と入り混じる、この街の縮図のような場所だ。
盗品まがいの商品が堂々と並べられ、あちこちで怒声や罵声が飛び交う。活気があるように見えるその裏では常に、弱肉強食の、張り詰めた緊張感が漂っていた。
「相変わらず、ひでぇ匂いだな。血と、カネと、絶望が混じり合った、この街の匂いだ」
ギデオンが悪態をつきながら、目的の店へと向かう。俺も、その後に続いた。その日常であるはずの光景を、突如として、凄まじい轟音が切り裂いた。
ドゴオオオオオオンッ!!
市場の中央広場、その一点で、巨大な爆発が起きたのだ。いや、違う、爆発ではない。地面そのものが内側から、何か巨大な力によって、破裂したのだ。
人々が、悲鳴を上げて逃げ惑う。地面が大きく陥没し、もうもうと立ち上る土煙の中から、ゆっくりと、それが姿を現した。
「あれは、まさか」
そこから現れたのは、岩と土で構成された、15メートルはあろうかという、巨大な人型。
「……巨人だと。何故こんな場所に……」
ギデオンが、信じられないといった声で呟く。
そして俺も即座に、この事態の異常性を理解していた。目の前に突如現れたのはモンスター、それも、上級に分類される巨人。
ラーズとの戦いの後、世界中のモンスターは、その数を激減させた。今では、森の最深部、人跡未踏の秘境でしかその姿を見ることはないはずだ。ましてやこんな、人間の欲望が渦巻く、街のど真ん中に出現するなど、絶対にあり得ない。
そして何よりも、感じられるのだ。あの巨人の体から放たれる、強大で、そしてどこか不自然な力の気配が。これは、自然発生したモンスターなどではない。何者かの明確な意図によって、この場所に、召喚された存在だ。
「親父さん! 先に工房へ戻ってくれ!」
俺はギデオンを、市場の出口へと力強く押しやった。
「アーク! お前、まさか……!」
「いいから、早く!」
俺の気迫に押されたギデオンは、一瞬ためらった後、舌打ちをしながらも走り出した。俺は騒動のさなか、彼の背中を見送ると、懐からいつも持ち歩いている、あの黒いのっぺりとした覆面を取り出し、素早く装着した。
ここから先は、ダークエイジの時間だ。
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