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第一章 善次郎、気鬱を拝す 《一》

 寛延四年葉月朔日(一七五一年九月二十日)の昼下がり。

 天青に広がる積雲が陽の光を受けて淡く輝く。強い陽射しがやわらぎ、白い風が爽やかな季節を連れてくる。


 江戸城吹上御庭にも、仲秋の匂い立つ澄んだ風が流れ込む。

 添番並御庭之者・明楽善次郎允武は、竹箒を持ち、庭掃除に勤しんでいた。

 善次郎は三十五俵三人扶持、明楽家四代目の御家人である。

 今年六月二十日(陽暦七月十二日)に大御所の有徳院(徳川吉宗)が薨去こうきょされた時は、府内を悲愴が覆い尽くしていた。

 二月ふたつきが過ぎ、慌ただしかった城内も少しずつ落ち着いてきた。役人たちは第九代の公方様(家重)への忠義を新たに、御役目に専心する日々を取り戻りつつある。


 善次郎は掃除の手を止め、ふと空を見上げた。

 雲間に見える高い空は抜けるように青く、とても気持ちが良い。しかし善次郎の背中には気鬱の混じった彊直きょうちょくが張り詰めていた。


(何度となく御下命があっても、この時ばかりは身が縮む)


 齢二十一になる善次郎が家督を継ぎ、もう六年だ。御庭之者――通称〝御庭番〟――の仕事には慣れた。

 だが、見慣れた御庭がいつもよりも広く感じる真因は、善次郎の未熟さ故かもしれない。たった一人で呼び出されるなど、もう何度も繰り返している。

 善次郎が吹上御庭に呼び出されるのは三月振りである。それだけでも、肩に力が入った。


(しっかりせねば。どのような御役目であろうと、儂に宛がわれた仕事であれば、儂にしかできぬ御役目なのだ。出雲守様が抜擢ばってきしてくださるならば)


 改めて気を引き締める。奥の四阿に人影が見えた。

 善次郎は、竹箒を左手に持ち替え、早足に四阿へ向かうと、低頭した。


「変わりないか、善次郎。いや、また背が伸びたか。どれ、顔を見せい」


 善次郎が顔を上げると、御側御用取次・大岡出雲守忠光は柔らかな相好で頷いた。


「面立ちも、以前より凛々しくなったものだ」

「背は、少し伸びましたが、齢を鑑みますと、もうこれ以上は伸びますまい」


 どう応えれば良いか昏惑し、そう返すのが精一杯だった。

 齢四十二を数える忠光からすれば、善次郎は、まるで子供に見えるのだろう。幼い頃から亡き父・明楽嘉太夫雅晴に連れられ会う機会が多かった。そのためか、忠光は善次郎を親類のように可愛がってくれる。

 初めて職に就いた十五歳の時、先達の御庭番が、


「出雲守様は表情が変わらぬ上、言葉も少ない。故に、心の内が見えにくい」


と噂していたのを聞いて、驚いた。

 忠光が善次郎を贔屓ひいきにする仔細は、わからない。

 だが恐らくは、父と兄の宇八郎正元を相次いで亡くしているせいだろう。父の後を継いだ宇八郎は、遠国御用の途中で頓死した。

 部屋住だった善次郎は訳もわからぬまま大慌てで、一回りも上だった兄の後を継ぎ、明楽家当主となった。

 そういう事情と嘉太夫と忠光の密かな親交の所産だろうと思う。


 どのような事情でも、目を懸けてもらえるのは、善次郎にとって素直に嬉しい。

 こそばゆい嬉しさと恐縮が入り交じる。しかし、その気持ちを言葉で表す器用さが善次郎には欠けている。だからこそ御役目をしっかりと果たし、恩を返したい。


(出雲守様の御気持ちに、ちゃんと応えなければ)


 御庭番となり御役目を指示されるようになって六年が過ぎても未だ、善次郎はこれといった大仕事を任されていない。歯痒く情けない心の内を悟られたくない。だからこそ余計に肩に力も入る。

 そんな善次郎を見透かしたような忠光の眼が、笑みを消した。そっと肩に寄り、開いた扇子で口元を隠す。告げられる言葉を片言かたことたりとも余すことなく聞き取ろうと、善次郎も身を寄せた。


「御府内の、徳川家に所縁のある神社の狛犬が、ことごとく壊されておる。加えて先日、これが目安箱に紛れていた」


 忠光が袂から小さな紙きれを取り出した。

 覗き込むと『狛犬を助けて』と書かれている。手習いを始めたばかりの童子が書いた落書らくがきのような文字だ。目を近付け、凝視した。


(この文字は、人が書いたのでは、ないな)


 と、識見すると同時に、


(やはり、この手の御役目か)


 気落ちしたのは、ほんの一瞬。


 直ぐに気を取り直して、紙の上の文字に向き合う。目を見開いて、かすかに漂う妖の様子を探る。


「これらに繋がりがあるのか、何故、狛犬が壊されるのか、真相を探れ」


 頭上から忠光の声が降ってくる。

 夢中で文字に見入っていた善次郎は、はっとして顔を上げた。

 忠光は苦笑にがわらいして、善次郎の肩に手を置いた。


「其方の実直さは父や兄以上だな。気が向かぬ指示にも、懸命に励む」


 びくりと、肩が強張る。善次郎は、慌てて口を開いた。


「気が向かぬ御役目など、今までに一つも、ございませぬ。どのような仕事も、必ずや結果を持ち帰ります」


 思わず嘘をついた。同時に、偽りない本心を、熱を込めて返す。

 忠光は善次郎に眼を合わせた。


「良いのだ。わかっておる。だが、これは明楽家、いや其方にしか任せられぬ御役目だ」


 忠光の眼の奥に、仄暗い光が灯る。


「善次郎、其方そなたが明楽家の家督を継ぎ最早六年。いつまでも瑣細ささいなつまらぬ仕事ばかりを宛がうつもりはない。意味は、解るな」


 これまでに見たことのない忠光の冷めた目に臆して、善次郎は只々頷く。


「大御所様が御隠れになったばかり。公方様の御為にも不穏な動きは未然に封じたい。此度は殊更に冀望しておるぞ」


 柔らかな笑みに似合わぬ鋭い眼光に、どきりと、心ノ臓が下がった。

 切れ長の目に鼻筋の通った端正な顔立ちと、淡々とした語り口の忠光は、笑みを隠せば冷淡な感懐を人に与える。


(きっと、この顔が、皆の知る出雲守様なのだ)


 この六年で、もう何度も、この吹上御庭で謁見している。にも拘らず、初めて、そう感じた。善次郎の胸中に、得も言われぬ発揚の熱血が湧き上がった。


「此度は、これまで以上に出雲守様の御心に添えるよう、励みます」


 腰から深く頭を下げ、気持ちを込めて言葉を返す。


「これが、狛犬の壊された神社だ」


 目の前に差し出された紙を、低頭したまま受け取る。忠光は静かにその場を離れた。

 観察役の小姓の様子が消えるまで、善次郎は頭を上げられなかった。初めて垣間見た忠光の眼光と言葉が、胸の奥に刺さっていた。


(出雲守様は、気付いていらっしゃったのか)


 それとも、ほんの刹那に見せた気鬱を気取られたのか。忠光の言葉を受けて発揚した嬉しさに、じんわりした怖さが混じる。


(この手の御役目は、確かに気が向かぬ)


 そのような素振りは今まで一度も見せたつもりはない。だが、忠光には善次郎の胸の内など、すっかり見えているのかもしれない。背筋に寒いものを感じながら、ようやく顔を上げた。


(未熟だなんだと甘えては、おれぬ。これが明楽家の御役目であると、しかと心得ねば)


 改めて痛感し、猫のように丸まりそうになる背中を、ぐいと伸ばした。


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