潤
相川佐兵衛は、捨て子である。
ある日の朝、泰山寺というお寺に、赤ん坊が一人残されていた。おぎゃあ、おぎゃあと良く泣くその赤ん坊は、泰山寺の住職である玄山和尚が見つけ、引き取った。産着には、「佐」の一文字が赤く縫い付けられていた。
子供になった佐兵衛は、寺でも有数の悪小僧であった。和尚は「潤」と名付け、親代わりとして大事に育てていたのだが、潤は、何しろいうことを聞かない子供であった。寺の中を泥だらけで駆け回り、近くの子供に喧嘩を毎日売り続けた。1対1の勝負では、絶対に負けなかった。体は小さいけれど、わんぱくというには、程がありすぎる。
何しろ、負けた子供たちが結託して、不意に後ろから棒で殴りかかったのに、潤は、
「ばかやろう、お前らなぞ、何人で来ても負けねえぞ」
その気迫に押された子供たちは、蜘蛛の子を散らすように逃げて行ったものである。そんな潤に、友達はできなかった。潤は心のどこかで寂しさを覚えていた。
「この気持ちは何なのだろう」
子供であった潤は、自分のそんな気持ちを、つかみ損ねていた。何か、たいせつなもののはずなのだが、わからない。そんなことを考えるとき、潤は決まって流れる雲を、いつまでも眺めていた。
ある時、潤は寺の門前で掃き掃除をしていた。
「坊や、和尚はおられるかな」
白くて長いひげを蓄えた老人がそこには立っていた。和尚は、厳格でありながら、優しさも持ち合わせる人物であったから、悪さをする潤に、時には厳しく叱り、時には優しく頭を撫でてやっていた。潤は、和尚を父のように慕っていた。いつも悪さをしつつも、和尚といるときには、穏やかな、和やかな気分になっていた。
「はい、おられます。お呼びしましょうか」
「いや、それには及ばない。君は、ここの小僧かな?」
「はい、そうです」
「いくつになる?」
「今年で10歳でございます」
潤は、丁寧に頭を下げながら、様子をうかがった。何となく、ただものではない雰囲気がする。
「うむ、では、名前は何という」
「潤と申します。私は、両親と生き別れておりまして、このお寺で小僧として置いていただいております」
「そうか、それは辛いことを聞いてしまった。すまぬ。」
憐憫の表情を見せ、その老人は潤に軽く頭を下げた。
慌てて、潤は、
「そんな、滅相もございません」
といい、頭を深々と下げた。
老人は、軽く手を上げ、石段を登って行った。潤は、不思議そうな顔をしていたが、やがて掃除に戻った。
「潤、ちょっとこっちへ来なさい。」
しばらくして、玄山和尚が潤を呼んだ。
「はい。」
潤は何のことかわからぬまま、小走りで書院に向かった。そこには、先ほどの老人と、和尚が座っている。
「何か御用がございましょうか。」
「お前に話がある。」
「はい。」
「お前が寺に捨て子として来てから10年だったかな。」
「はい、そのご恩は・・・」
「よい。」
玄山和尚はおもむろに口を開いた。
「お前は、外の世界へと出てみたくはないか。」
「は?」
あまりにもびっくりして、拍子抜けたような、間の抜けたような声がでてしまった。
老人は、ゆったりとほほ笑んでいる。
「それは、どういうことでございましょうか」
「この方は、相川甚九郎様と申されるお方じゃ。お主、この方についていく気はないか。この方は、このあたり一帯では名の知られた名士でおられる。掃除をしているお主を見て、たいそう気に入られてな。お主さえよければ、甚九郎様は連れて帰って育てたいともうされておるのじゃ。」
「はぁ。」
再び、潤は気の抜けたような声を上げてしまった。全くもって、思いもよらぬことで、頭がついていかない。
「先ほどは世話になったな。相川甚九郎という。」
老人は、ゆったりとしたほほえみを崩さず、潤に優しいまなざしを向けながら、そう挨拶をした。
「お主が掃き掃除をしているのを見て、気に入ってな。和尚に相談をして、お主と一緒に屋敷に連れて帰りたい、と思っておるのじゃ。お主は、ここの寺で小僧をしているそうじゃな。和尚に話したら、喜んでくれておる。どうじゃ?」
「えっと、えっと~」
潤は、素になってしまった。厳しく仕込まれていたはずの、礼儀がなっていない。
「ふふふ。よいよい。しばらくわしは、ここに逗留しておる。すぐに返事はいらぬ。決まったら、言ってくれ」
「かしこまりました」
「まあ、お主にとって、悪い話ではないぞ。よく考えるがよい。下がりなさい。」
玄山和尚はそういって、すっと手を挙げた。
「は。」
潤は、和尚に、ついで老人に頭を下げつつ書院から退出した。
「いったい、何なんだ。え?俺が外の世界へ?どういうことなんだ?」
潤は、退出してからも頭が混乱していた。何のことやらわからない。赤ん坊の時以来、この寺で過ごしていた潤には、外の世界という意味すら解らない。山を眺め、空に癒され、時にはいたずらや喧嘩をしていた日々がよみがえる。
その晩、潤は眠れなかった。
2日後、潤は再び門前の掃き掃除に精を出していた。その日は、風の強い日で、木の葉が掃いても掃いても舞い落ちてくる。潤は、ひたすら懸命に掃除をしていた。その時、豪華な駕籠が、門前におろされた。
「誰だろう?」
潤は、掃除の手を止めて駕籠のほうを見た。駕籠は2つ。大きな駕籠と、小ぶりな駕籠である。大きな駕籠の中から、優雅で気品のある女性が下りてきた。駕籠かきは、地面に頭をこすりつけるくらいに土下座をしている。
「あの駕籠かき、風采も立派なのに、なんであんなに土下座しているんだろう」
潤は、不思議に思った。次いで、駕籠から降り立った女性に目を見張った。年頃は30くらいだろうか。落ち着いた衣装であったが高価であることは、潤にも分かった。髪も、垂髪であったが、その美貌に品がある。佇まいを一目見るだけで、潤とは次元の違う女性であることが解る。
「こころ、着きましたよ。降りてきなさい」
女性は、もう一つの駕籠に声をかけた。
「はい!お母さま!!」
元気いっぱいの声が、小ぶりの駕籠から聞こえてきた。降りてきたのは、潤と同じくらいの年齢の女の子であった。潤よりも、少し背が低い。
「お母さま、ここなの?」
「ええ、そうよ。少し、疲れましたか?」
「ううん、全然!へっちゃらよ!」
「あなたはもう少し、言葉に気を付けなさい。ここ一帯の、お姫様になるのだから」
「はぁい。ごめんなさい」
こころと呼ばれた女の子はしゅんとしょげた。女の子の胸元には、まるで氷柱のような、美しい首飾りがかかっている。そんな女の子を見ていた潤の視線に気づいたのか、女の子は目を上げた。
潤は、その母子らしき二人を、少し離れた石段の上から見ていた。綺麗な女性に、初めは目を奪われていたのだが、駕籠から降りてきた、こころと呼ばれた女の子を見た途端、何か不思議な気持ちになった。
「なんだろう。どこかで出会ったような、懐かしいような・・・」
潤は頭をひねって考え込んだ。どこかで出会った記憶がないのに、なぜか、感じるものがある。元気なのはいいが、うるせえな、と潤は内心毒づいた。
「あーっ!お母さま!あそこに人がいる!!」
「あなたは少し、静かになさい。」
女の子を女性はたしなめて、潤の方に向かってゆったりと歩みを進めた。
「こんにちは。」
女性の涼やかな声が、耳に心地よい。潤は、慌てて頭を下げた。
「舞と申します。玄山和尚はおいでになられますか?」
「はい。ご案内いたします。」
「こころ、行きますよ」
「はい!」
こころは、どこまでも元気が良い。
二人を連れ立って、和尚のもとに案内した潤は、うるせえガキだったなと顔をしかめていた。それに比べて、あの女性はどうだろう。凛とした佇まいに、涼やかな声。潤は、駕籠から降りた女性を思い浮かべて、ぼんやりしていた。
その後しばらく、潤は石段に腰を下ろしてぼーっとしていた。太陽が、燦燦と輝いていていた。
「ちょっとー!何してるの?」
背後から、元気いっぱいの声が聞こえ、潤はびくっとした。慌てて立ち上がり、後ろを振り向くとそこに、にこにこしながら、こころが立っていた。
「ここの小僧さん?何してるの?わたし、退屈なの!一緒に遊んでくれる?」
こころは、まくしたてる。
「いえ、私は今、そうじをしておりますの・・・」
「だめ!遊んで!!」
こころは、潤に有無を言わさず手を引っ張った。
「いや、あの・・・」
「わたし、木登りしたいのよね!あの木ってちょうどいいと思うの!城で登ろうとしたら、爺がうるさくてうるさくて!いいでしょ?近くに人が来たら、知らせるのよ!頼んだから!」
そういって、こころは裾をまくって木に登り始めた。潤は、なんだこいつは、うるせえだけじゃなくて、木登りかよ、と内心あきれていたが、和尚のお客様に何かあってはいけないと、あわてて木の下に走り寄った。こころは一心不乱に上り続けている。ある程度の高さで、横に伸びている木に腰を掛け、
「うわ~!高い~~。すっごく気持ちいい~」
とご満悦である。
潤は、ヒヤヒヤしながらその様子を見守っていた。潤も木登りはする。そこは俺の、特等席なんだよ、と、内心ふくれっ面をしていた。
しばらくして、
「じゃ、わたし、降りるね!」
こころがそういって、潤に声をかけた。こころは、降りようとして、ぴたっと動きを止めた。全く動かなくなったこころに、潤は声をかけた。
「早く下りないと、人が来るよ。どうしたんだ?」
「無理。」
「なにが?」
「怖い。」
「え?」
「高いところ、怖い」
潤はあきれ返った。なんだよこのガキ、手を焼かせやがって。下り方も知らねえくせに、俺の特等席に座ったのかよ。
「まずは、そこのくぼみに足を掛けるんですよ」
「ここ?」
「そうだよ!」
だんだん、潤の言葉遣いも乱暴になってくる。こころはそろそろと降りてきた。
「ここからは?」
あと、1mくらいだろうか。それくらいの高さからは、足場になるようなものはない。
「そこからは、滑り降りるんだよ!」
「わかった」
こころは、木をはさんで、ゆっくりと滑りだした。あと、もう少し、というところで、気が抜けたのだろうか、
「あっ!!」
という声とともに、こころは木から落ちた。
「あぶない!」
潤は、こころの体を受け止めた。その時、潤とこころの目が合った。潤は、その目に吸い込まれそうな気がした。
「ありがとう!えへへ」
こころは、潤の腕の中からぴょんと飛び出して、勢いよく石段を駆け上った。石段の上に着いたこころは、振り返って潤に向かって深々とお辞儀をし、元気よく手を振った。つられて、ふらふらと手を振った潤は、こころの体の重みや、その瞳を思い出していた。
二人の母子が来てから、4,5日が過ぎたころ、潤は玄山和尚に呼ばれた。書院の襖をあけ、頭を下げた潤は、「お呼びでしょうか」と声をかけた。そこには、和尚と、甚九郎と名乗る老人が仲良く囲碁を打っていた。ちょうど勝負がついたところらしく、和尚が、「参りました」と頭を下げていた。
「おお、来たか」
変わらず、優しい顔で、甚九郎は潤に声をかけた。和尚も、「潤、入りなさい」と入室を促し、囲碁をかたづけた。どこかで、雀の鳴き声が聞こえてくる。
「どうだ?その後、変わりはないか?」
そう、甚九郎老人は潤に声をかけた。潤は、
「ありがとうございます。変わりなく過ごしております」
「そうか。それでは、前の話、考えてくれたか?」
潤はうつむいた。まだ、考えがまとまったわけではなかった。外の世界とやらに好奇心が膨らんでいく自分も十分感じてはいたものの、和尚と離れるのは、寂しかった。そんな潤の気持ちに気づいてか、甚九郎老人は、軽く微笑んで、
「お主が、和尚を父と慕っている気持ちは十分わかっておるつもりじゃ。何も、今生の別れではない。和尚に会いたくなったら、いつでも来られる。わしは、お主の成長を見届けていきたいだけなのじゃ。どうじゃ?」と優しく語りかけた。
その言葉を聞いて、潤は覚悟を決めた。
「解りました。付いていきます」
和尚は、目を閉じて黙然と座っていたが、目を開けて、潤に向き直り、こう声をかけた。
「潤、今までお前がおって、楽しい日々であった。世話も相当かけさせて、手間のかかる子供ではあったが、何よりも、一生懸命掃除をしてくれておった。お前を実の子供のように思っておるし、いつでもこの寺に帰ってこい。甚九郎様、潤をよろしくお願いいたします」
そういって、和尚は仁九郎老人に、深々と頭を下げた。和尚の目は、少しうるんでいた。
それを見た甚九郎老人は、
「よきかな、よきかな。それでは、屋敷へと連れて行こう」
老人は、ゆったりとほほ笑んで、立ち上がった。
甚九郎老人の屋敷は大きかった。和尚と二人きりで過ごしていた泰山寺は、立派ではあったが簡素な作りで、小さなお寺であったので、屋敷を見た潤は圧倒される思いでいた。中に入り、今に通された潤は、きょろきょろと辺りを見渡した。絢爛ではないが、調度品のどれを見ても品が良かった。潤は、ふと大きな衝立に目が留まった。衝立には、雲の中から竜が描かれており、その目は蒼く輝いていた。その竜は大きく、まさに天から舞い降りてきたような、得も言われぬ迫力があり、潤は竜の目に引寄せられるように、じっとその衝立を見ていた。そこに、甚九郎老人がやってきて、端然と座った。
「ここが、これからお主の家となる。武芸や、学問も授けよう。今、年は10であったな。あと、6年もすれば元服させる。ゆくゆくは、この家を継ぐがよい」
「はい、ありがとうございます」
潤はそう言って、深々とお辞儀をした。