赤ちゃん、保育園に通う(前編)
「分かっているわね」
「あだ」
「今日で全てが決まるのよ」
「あだ」
「行くわよ!」
「あだ!」
玄関の扉を開けて一歩踏み出した。
「あれ?生川さん?」
突然声をかけられ緊張していた私は飛び上がった。
「相沢さん…おはようございます」
彼は相沢 悟。会社の一つ上の先輩だ。
眼鏡をかけた中身に見合った優しい顔立ちをしており、彼もこの寮で生活している。
「可愛い赤ちゃんだね。おはよう」
相沢さんは竜一の目線に合わせると笑顔で話しかけた。
竜一も相沢さんの挨拶に合わせて口を開いた。
「あう。あだう【おす。眼鏡】」
「挨拶してくれているのかな。可愛いね」
言っている内容は全く可愛くないけどね。
「親戚の子?」
自分の子かと聞かれないのが少し悲しいが、金曜日までは妊娠の兆候などなかったから当たり前といえばそれまでだ。
「そうなんです。しばらく預かる事になりまして…」
私は寮の管理人さんに竜一の件を話しに行った時の事を思い出していた。
「赤ちゃんを預かることになった!?」
体の調子が戻って来た竜一を連れて管理人室にやってきていた。
「そうなんです…。でもこの子夜泣きもしないし大人しい子なんです!」
「あだ!」
すぐに怒鳴り散らす奴が返事をするな!
「あら!お返事が出来るの?いい子ね~」
管理人さんが竜一の頭を撫でると竜一が「あだうばぶう」と喋るもので管理人さんはデレデレに顔を緩めて許可を出してくれたのだ。
許可が下りてホッとしたが…【触るなババア】という事実を知ったら即追い出されるだろうな…。
最近は言葉が分からないのをいいことに笑顔で暴言を吐くという術を覚えた。
正直竜一の言葉が分かる私としては両極端の反応にどう対応してよいのかが最近の悩みとなっている。
「じゃあしばらくは社内保育園に通うんだね」
そうなのだ。朝から気合が入っているのは、今度は社内保育園で預かってもらえないかの交渉に向かうためだ。
昨日の夜、竜一に念押しで言い聞かせた。
「いい竜一!社内保育園で預かってもらうには…」
「あーきゃう!【バーカ】!」
笑顔で愛嬌を振りまいてはいるが内容がな…。
「もし保育園で預かってもらえなかったらあんたここで留守番になるんだからね」
「あぶだ。あだあぶう【大丈夫だ。俺を信じろ】」
カッコつけてるけどあんたの信じろほど信じられないものはないからね。
「もしよかったら僕が保育園に頼んであげようか?」
相沢さんの申し出に目が輝いた。
竜一も「あだう…【眼鏡…】」と呟いている。その発言セクハラだからな。
こうして私達は相沢さんを頼りに社内保育園へと向かったのだ。
「急に預かってと言われてもね…」
園長先生が渋い顔で唸っている。
「そこをなんとか!この子泣かないですし、こちらの言う事もちゃんと聞ける子ですから!」
最後の一文は竜一に向かって放っている。
竜一も若干の危機を感じているのか「きゃあうう…」と可愛く儚げに呟いている。
内容は【ケチくせえなあ…】だけどね。
完全に人にものを頼む言葉ではない。
「園長。一日だけ預かって竜一君が迷惑をかけるようなら次回からは預からないことにしてはどうですか?今日は生川さんも仕事に行かなければなりませんし」
ここに仏がいる!
竜一と二人で相沢さんを崇敬の眼差しで見つめた。
せっかく相沢さんがくれたチャンスをものにしないと!
私は竜一を自分に向けると目で『チャンスを掴め!』と訴えたのだが…。
「あっだぶぶう!!」
みなさん覚えておいでだろうか…。
これは【何、ガン垂れてんだよ!!】である。
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