第45話 おかえり
第一章、最終話です。
上半身を起こし、眠たそうに目を擦る涼菜を見て、布団のすぐ傍で胡座をかいていた涼真は思わず安堵の声を漏らす。
「スズ……!」
胡座の体勢から正座のような体勢へ変えるとともに、目を覚ました妹の方へと体を向ける。
「そうか、スズって言っても、伝わらないんだっけ……。えっと、名前とか……」
「伝わりますよ」
涼菜の低い声が、涼真の言葉を遮った。
そう言った彼女の肩は震えており、掛け布団の端をギュッと握っている。
「……思い出したんです。昔の私、ううん、ワタシのことも。セラフィエルに拐われた時のことも。そして黒神涼真さん。アナタのことも、全部」
「……ほ、本当……に?」
涼菜が語った内容を、涼真はアッサリと信じることができなかった。彼女がセラフィエルに呼び出され、すぐさま涼真との戦闘を開始した過去があるからだ。
だから、聞き返した。彼女が語った内容が、嘘ではないと、涼真の聞き間違いではないと願って。
その願いに応えるように、涼菜は小さく、コクリと首を縦に振る。
それを見た瞬間、涼真の目元がブワッと熱くなった。
今までの、10年にも及ぶ涼真の行いが、無駄じゃなかったことをようやく理解して。
辛いことも、悲しいことも人一倍乗り越えてきた日々が、無駄じゃなかったことを知って。
そして、涼菜が本当の意味で涼真の元へ帰ってきたことが心底嬉しくて。
「スズ……スズっ……!」
涙がこぼれ落ちるとともに、涼真は涼菜を優しく抱きしめる。
居る。ちゃんとここに、涼菜が居る。
そう確認するように。そして、一度奪われてしまった妹を、もう誰にも盗られないように。
そんな涼真を、涼菜は細い腕でギュッと抱きしめ返す。
当然、今この瞬間に到達するまでの涼真の全てを理解したワケではないだろう。しかし彼女の抱擁には、涼真が今この瞬間こぼす感情を受け止めるだけの力はあった。
「おかえり……スズ」
「ただいま……お兄ちゃん」
まるで奪われた時間が巻き戻ったかのように。
2人の兄妹は、たったそれだけの言葉を交わした。
◇◆◇◆◇
コト、と涼菜の前に大きな器が置かれた。その器は普通の皿と比べて縦に大きく、側面は切り立った形をしている。
その中にはネギ、卵、薄くスライスされた何かの肉に、黄色い麺、黄土色のスープが入っている。
「お兄ちゃん、これは何という料理ですか? 具材はなんとなく分かりますが……」
「スズ、ラーメン食べた事……ない?」
涼菜の隣の席に座った涼真は、驚いた様子で涼菜のことを見つめる。
しかし、天界に居た頃、ロクなものを食べさせてもらえなかった涼菜は、この食べ物を目にした覚えはない。
「らぁめん……? いえ、ありません。らぁめんというのが、この料理の名前ですか?」
目の前で白い湯気を立てる料理をまじまじと見つめていると、涼真が涼菜の肩に手を置いた。
「……スズ。これからお兄ちゃんが楽しいこと、美味しいもの、いーっぱい教えてあげるからなぁ……!」
「あ、ありがとうございます……」
左右で色の違う目を潤ませ、涼真は悲しげなトーンでそう語った。
だが、何故涼真が今にも泣き出しそうな顔なのか。何故そんなことを今言ったのか。それが涼菜には分からなかった。
涼真は潤んだ目を擦ると、テーブルの上に置かれていた箸を手に取り、両手を合わせた。
「ま、見てるより食べた方が良いよ。ラーメンは食べ物なんだから」
「そ、そうですよね! それじゃあ、いただきます」
涼真に促された涼菜は、合掌してから箸を手に取り、スープの中に沈んでいる麺を掴み上げた。
掴んだ麺にはスープが絡み付いており、金色に光り輝いている。
すると涼菜の鼻腔が、麺を掴み上げた時に強く放たれたスープの香りを捉えた。醤油のような香りだが、他にも様々な具材の香りを感じる。しかし、それらは見事に混ざり合い、食欲を大変そそられる香りと成っていた。
箸をそのまま口へ運び、そろりと麺を啜る。
「ん!」
その瞬間、涼菜の舌の上で革命が起こった!
「お、美味しーーーっ!」
「な? 食べた方が早いって言ったろ?」
「はい! すっごく美味しいです!」
それから、涼菜はあっという間に具材を食べ尽くすと、スープまでをも飲み干し、初めてのラーメンを文字通り、完食した。
ぷはぁ、と満足の息を吐き、どんぶりをテーブルの上に置くと、再び合掌する。
「ごちそうさまでした!」
「「「お粗末さまでした」」」
涼菜はそこで初めて、涼真と黒神、バトラーから目線を向けられていることに気付き、ポッと頬を赤らめた。
あんなにガツガツとラーメンを食べていたら、大食いなのかと思われてしまう。
「す、すみません。つい……」
「いえいえ、喜んで頂けて良かったですよ。また作りますね」
バトラーは控えめな笑いを漏らすと、食事を再開する。彼の隣に座っていた黒神も、微笑ましそうな笑みを浮かべると、再び箸を手に取り、麺を啜り出した。
一方、涼真は喉の奥を鳴らすような、「クックッ」という笑い声を漏らすと、テーブルの中央に置かれている薬缶を掴み、自身のコップに麦茶を注ぐ。
「スズ、人間界にあるラーメン屋のは、これよりもっと美味しいんだよ」
薬缶を元の位置に戻すと、涼真はニカッと笑い掛けた。
「今度、食べに行こうか」
「ほ、ホントですか!?」
「ああ。お兄ちゃんが奢るから、一緒に食べに行こう」
兄との遠出の約束。
家族との温かな食事。
涼菜が望み憧れていたものが、今では当たり前のように手に入る。
天界に居た頃。
セラフィエルに連れられ外出した時に目にした、ごく普通の親子の様子。母親と手を繋ぎ、笑顔で話している女の子が、涼菜の目にはキラキラと輝いて見えた。
セラフィエルの下僕として生きてきた自分に、家族の温かさなど一生味わえないと思っていた。
でも、それは違った。10年間もずっと、涼菜のことを探し続けて、待ってくれていた人がいた。
ーースズ。
兄の涼菜を呼ぶ声が、頭の中で再生される。
その声はとても温かくて。涼菜の心も体も優しく包み込んでくれそうで。
そんな声にはどうしても、言葉を返したくなる。
「はい!」
涼菜を救ってくれた人。
そして、涼菜のことをずっと誰よりも想ってくれていた人。
涼真がそんな人だからこそ、涼菜には彼にきちんと言わなければならないことがある。
◇◆◇◆◇
深夜1時を過ぎた頃。
涼真が読書を終え、ベッドに潜って寝ようとした時、コンコン、と部屋の扉を叩く音が聞こえた。
「ふぁ〜い」
欠伸混じりの声で返事をしながら、涼真が自室の扉を開けると、そこには涼真の予備のパジャマを着た涼菜が顔を立っていた。
「スズ。どうした? 寝れないのか?」
「夜分遅くにすみません、お兄ちゃん。あのー……そのー……」
顔を俯け、手を体の前でモジモジとさせる涼菜は、何かを言いたげな雰囲気を醸し出している。
これは少し話し込んでしまいそうだ、と悟った涼真は、扉を全開にし、涼菜を部屋へ入るよう手で促した。
「立ち話もなんだし、ベッドに座って話そうよ。立ってるよりも座ってる方が楽だし」
「そう……ですね。じゃあ、失礼します」
やや表情を和らげた涼菜とともに、涼真は横並びになってベッドに腰掛けた。ギシリ、という音を、涼真のベッドマットレスは2人分立てた。
「それで……何か話したいことがあるんだろ? 何でも聞くよ」
「…………」
涼真の言葉に頷くことなく、涼菜は顔を俯かせてしまった。しかし、何かに落ち込んでいる、といった様子ではない。
セラフィエルとの契約が断たれることは既に説明済み。
家に女性用の衣服が無く、明日人間界に買いに行くと伝えた際には喜んでいたため、出掛けることや人間が苦手、という訳では無さそうだ。
会話を少しでも進めたいが、涼菜が考えていることについての手掛かりが何一つ無いので、会話を促すこともできない。
こういう時は静かに待つのが一番だと、涼真は長年の【黒神】経験から学んでいた。相手を急かしてしまえば、急かされた相手は焦って支離滅裂な内容を話してしまい、返って話がややこしくなる可能性もあるのだ。
だから優しい声で、諭すように言葉を掛ける。
「スズのペースで良いからな。お兄ちゃん、夜には強いからいつまでも待てるよ」
口調に合わせるように、優しく涼菜の頭の上にポン、と右手を乗せ、軽く撫でてやる。
左右に手を動かす度、涼菜の体も小さく左右に揺れる。
軽い体。ラーメンを食べた時の反応。
セラフィエルは、本当に涼菜のことを道具や下僕程度にしか思っていなかったようだ。
やはりセラフィエルは許せない。そして、セラフィエルを操っていた組織の連中も絶対に許せない。
怒りから、涼真は下唇を噛み締めた。
その時。
「えっと……」
今まで顔を俯け、押し黙っていた涼菜が、やっと口を開いた。
涼真は右手を両足の間へ戻すと、涼菜の続きの言葉に耳を傾ける。
「お兄ちゃんに、ありがとう……って、言いたくて」
涼菜の口から出てきた言葉は、涼真にとって、やはり予想外のものだった。思わず顔をきょとんとさせたほどだ。
だが、よくよく考えてみれば、今の彼女の発言も予想できたのではないか、と涼真は思う。再会してからあまり時間は経っていないが、今の涼菜の性格についてはそこそこ掴めたと、自分では思っている。
だから、なんとなくその理由も予想できたが、一応本人から答えを貰うことにした。
「ありがとうって……なんで?」
「だって……お兄ちゃんはワタシの為に長い間色んなことをしてくれましたから。おじいちゃんやバトラーさんにも言いたかったんですけど、中々言い出せなくて……」
やっぱり、と涼真は頬を緩ませる。
小さなため息を吐き、頭をポリポリと掻くくらいの間をおいてから、涼真は口を開いた。
「そんなのいいよ、家族なんだから当たり……」
当たり前、と言おうとした瞬間、涼真はハッとし、咄嗟にその言葉を喉の奥へと押しやった。
涼菜がまだ、涼真の当たり前を知らないことに気付いたからだ。
涼真からすれば異様な環境で育った涼菜の当たり前は異様なもので、彼女にとって涼真の当たり前は全て新鮮で特別なものに映っているのだろう。
今この瞬間だって、涼菜にとっては特別なのかもしれない。
だから涼真は、別の言葉を涼菜に投げ掛けることにした。彼女の嫌な記憶を、黒歴史を思い出させないために。
「……スズ。ありがとうって言いたいのは、お兄ちゃんの方なんだ」
「えっ?」
「スズがお兄ちゃんに感謝を伝えたいみたいに、お兄ちゃんもスズに感謝を伝えたいんだよ」
涼菜は困惑した様子で首をかしげる。兄から感謝されるようなことなどした覚えはない、といったように、目を瞬かせる。
「そんな……だってワタシ、お兄ちゃんにしてもらってばっかりですし……」
「そんなことないよ」
そう。そんなことはないのだ。
何故なら彼女は、涼真の願いそのものであり、涼真にとって大切な存在の内の1人なのだから。
そんな涼菜が、人を人とも思わない男の下で10年も過ごし、無事に成長してくれた。涼真との日々を思い出してくれた。
「今日までずっと、生きててくれた」
それだけで、涼真は嬉しかった。
何故ならーー、
「お兄ちゃんのずっと叶えたかった願いを、スズが叶えてくれたんだ」
幼い頃に奪われた日常。
しかし涼菜が帰ってきたことで、一度失ってしまったあの幸せを幾分か取り戻せたような気がしたから。
涼真を、あの頃と同じような気持ちにさせてくれたから。
「だからありがとう、スズ。生きててくれて」
だから涼真は、涼菜にありがとう、と伝えたかった。
だって今の涼真がいるのは涼菜のおかげだから。涼菜が涼真の妹として生まれてきてくれたから、生きていてくれたから、涼真は10年の間、ずっと折れずに頑張れたのだ。
「……なんで」
ボソッと涼菜は言った。
涼真のことを見つめるつぶらな瞳には、涙が浮かんでいる。その理由は涼真には分からない。
ただ、「なんで」と問われたからには、涼真はその先に続く言葉を聞き、それに答えなければならない。
「なんでお兄ちゃんは、ワタシのことを、ずっと探してくれていたんですか……? なんでずっと、大切に想ってくれていたんですか……?」
敵として戦って、負けて、救われて。そして、今では妹として大切に思われている。だが、それらの行動の原動力は何なのか。
震えた言葉の内容は、涼菜が抱いて当然の疑問だった。
だがそれは、涼真が異様だと感じる環境で育った涼菜だから抱える疑問なのかな、と涼真は思った。
愛情や絆などとは縁遠い世界で育った彼女に、どう言えば涼真の気持ちを理解してもらえるだろうか。うーん、と低く唸りながら涼真は考える。
悩みに悩み、考え抜いた答えは、
「……妹と一緒に居たかったから、かな」
最終的に逆戻りし、最も簡略的な答えとして導き出された。
「スズが居なくなってから、すっごく寂しかったんだ。心に穴が空いたみたいだった。だからその穴を埋めようと、新しくできた友達を勝手に心の中で穴に嵌めてみたりした。でも……ダメだった」
力なく首を横に振り、口元に薄らと笑みを浮かべる。今考えてみれば、ダメだった理由が当然のことだと思ったからだ。
「スズの形にピッタリ嵌まるのはスズだけで、スズの代わりなんて見つからなかった。見つかる筈が無かった。だってスズは、この世でたった一人の、かけ替えのない僕の大事な妹なんだ」
涼真は本心をゆっくりと語っていく。口を動かす毎に、隣で俯く涼菜の肩の震えと吐息が、少しずつ大きくなっていく。
「だからずっと、スズのことを見つけ出したいって思ってた。そして今日、ようやく見つけて、取り返したんだよ」
「そう……だったんですね」
グスン、と鼻をすすった後、パジャマの袖で目元を擦った涼菜は、真っ直ぐ涼真を見つめた。
「……お兄ちゃん」
「ん?」
「ワタシは……セラフィエルのところにいた時、何をしても怒られて、嫌で嫌で堪らない戦闘訓練を毎日のようにさせられていました。外出する時は必ずセラフィエルから監視されて、とても窮屈な日々を送っていました。でも……ワタシは今、幸せです」
涼菜は口元に小さな笑みを浮かべると、高鳴る心臓の鼓動を確かめるように、そっと胸に両手を添えた。
「ワタシのことを必要としてくれて、ワタシのことを大切に想ってくれる人がいるってことを思い出せたから。新しく知ることができたから」
家族がいることの温かさを、涼菜は10年越しに思い出すことができた。
誰かに必要だと伝えられることの嬉しさを、涼菜は齢12歳にして知った。
普通の生活を送っている者たちからすれば、当たり前のこと過ぎて、気にも留めないことかもしれない。しかし、その者たちの当たり前を知らない涼菜からすれば、とても素晴らしいものに思えたのだろう。
「そして、こんなワタシでも、誰かの心を救うことができるって知れたから」
セラフィエルの命令に忠実に従う下僕。その過去を無かったことにはできない。
でも、それ以外の生き方を見つけることができたから。
「だからワタシは、胸を張って言えます。今のワタシは、これ以上無いほど幸せです」
涼菜の目元で光る水滴が、彼女の笑顔をよりいっそう輝かせていた。
そんな涼菜の笑みにつられるように、涼真は彼女を見てニコリと微笑む。
「……なら、お兄ちゃんはスズが今以上の幸せを見つけられるように頑張るよ」
涼菜が知らないことはまだまだ多い。ならば兄として、涼真は妹に色々なことを教えてやりたい。そして、彼女が楽しいと思えることを沢山見つけてほしい。
母の言った「生きて」という言葉は、涼真と涼菜の2人に向けたものなのだろう。ならば涼真は生者として、その遺言に応えたい。そして、涼菜にも応えてほしい。
いつか死んだ時、母に立派に生きたことを笑顔で報告できるように。
「これからはずっと一緒だよ、スズ。誰が来たって、何があったって、お兄ちゃんがスズのことを守るから」
笑って、涼菜の頭を撫でる涼真。
そんな兄のことを少し低いところから見上げて、涼菜は伝える。
その内容は、涼菜が涼真と再会してから、ずっと言いたかったこと。
「……ありがとう、お兄ちゃん」
まだまだ冷たさを感じる5月の夜。
しかし、涼真には今日の夜が、いつもより少しだけ温かく感じられた。
お読みいただき、ありがとうございます。
次回からいよいよ第二章です。
よろしくお願いします。




