第2話 願いを叶えるアプリ
時刻は18時17分。先ほどまで部活をしていた生徒たちが何人か校門前で集まって話をしているらしく、遠くから時折笑い声を含んだ会話が途切れ途切れで聞こえてくる。
そんな話をしている者たちには、今彼がこんな目に遭っているとは夢にも思わないだろう。
最終下校時刻をとっくに過ぎた中学校の校舎裏は人気がなく、薄暗い。まさに、こういう事を行うには最適な時間と場所だ。
ドス、という低い音と共に1人の少年の鳩尾に拳が入った。
「ぐぁ……っ!」
声の主で12歳の少年、佐藤健生は中学校入学3日目から今日までの2週間、同級生の暗木怜矢と辻本陸玖に毎日放課後に暴力を振るわれていた。
彼らによれば、その理由は単なるストレス発散らしい。理不尽な理由に健生はムカついていた。しかし、暴力を振るい返せば自分も悪者になってしまう、という考えから、健生は2人にやり返す事ができずにいた。
「なぁ健生ぃ? いい加減に金出せよ。今日は随分と渋るなぁ」
怜矢の目がギラリと光り、鳩尾を押さえて蹲っている健生を睨み付ける。本当に小学校を卒業したばかりの子供なのかと思うほど、彼の鋭い目には迫力があった。
「さ、さっきから言ってるだろ!? もうお小遣いが少なくなって払えないって!」
「しょうもねぇ嘘ついてんじゃねぇよ。金ないやつが財布持ち歩いてるわけねぇだろ」
怜矢は唾を吐き散らしながら健生が左手で握りしめている財布を指さした。健生は怜矢から残り少ない所持金を守るため、財布を両手で包み込んだ。
「これは今日の晩ご飯代だよ!」
「その晩飯代をよこせっつってんだよ!」
怜矢は少し日に焼けた跡のある足を振るう。健生の左足のスネに鋭い蹴りがガッと入れられた。
「い゛っ……!!」
健生は突然の激しい痛みに思わず顔を歪める。その時、持っていた財布をポトリと地面に落としてしまった。
「あっ!」
それに気付き、急いで財布を拾おうとしたが時すでに遅し。
彼が財布に目を向けた時には、陸玖がもう財布に触れていた。そのまま陸玖は健生の財布を拾い上げ、自分のズボンのポケットに突っ込んだ。
健生はすぐさま陸玖に訴える。
「か、返してよ!!」
「うるせぇよ。今日はもう終わりだ」
陸玖は冷めた口調で言い放つと右手を振りかぶり、健生の顔面を思い切り殴った。
「あがっ……!!」
ゴッ、という音と共に健生の鼻から鮮血が噴き出す。殴られた勢いそのままに背中から倒れ、健生は意識を失った。
◇◆◇◆◇
体中に走るズキズキと鈍い痛みが、健生の目覚まし代わりとなった。特に痛むのは左足の脛と鼻先だ。どちらも怜矢と陸玖に強く蹴られ、殴られた箇所だったことを思い出した。
「いってて……こりゃ、本気で殴られたな……」
鼻を手のひらで覆いながら辺りを見回す。空は既に漆黒に染まっており、怜矢と陸玖の姿は見当たらない。どうやら自分を放置して帰ったらしい。
今日はもう殴られる心配がないことにホッとしつつ、正門へ向けて歩き出す。左足の痛みはあるが、歩行するのに支障はない程度だった。
ふと空を見上げると、校門前に設置されている屋外時計が目に入った。2本の針が指していた時刻は、午後6時39分。陸玖に顔面を殴られてから20分ほどが経過していた。
「早く帰らなきゃ……」
黒のリュックを背負い直し、誰もいない校門前で1人、呟いた。
健生の学校は街の外れにあり、学校に用事がある人以外は学校の近くを滅多に通らない。その為、よく地域の人たちが見回りをしてくれているのだが、その人たちも既に帰ってしまったようだ。
フィラメントが弱っているのか、パチパチ、と細かく点滅するオレンジ色の街灯の下をトボトボと歩く。
「はぁ……」
ため息が出た。無意識だ。
「なんでいじめるんだよ……僕、なんかしたのかな……」
怜矢と陸玖とは小学校からの同級生だ。
小学生の間は放課後にたまに遊んだりするくらいの仲であり、今のような関係になるとは全く思わなかった。
この事は両親や友人、担任の先生を含めて誰にも相談できていない。
父と母は共働きだ。帰りも遅く、放課後に怜矢と陸玖とのやりとりの後に帰っても、毎日健生の方が早く家に着いている。
両親は仕事で忙しいので、健生には最低限の干渉しかしないが、健生はそんな父と母が好きだった。
昔から、休みの日も明らかに仕事で疲れているのに、健生と嫌な顔一つせず遊んだり、遊園地に連れて行ってくれた。
そんな両親に心配をかけたくない。その思いから2人に学校でのことを両親に言えずにいた。
友人や担任にも言えずにいるのは、彼らに心配をかけたくないという思いと、もし話してしまうと、彼らが両親に話してしまうのではないか、という懸念を抱いているからだ。
俯いて歩いていると、いつのまにか家の前に着いていた。鍵を開けて中に入り、荷物を下駄箱の側に置いて洗面所へ向かう。洗面所の扉を開け、手を洗おうとした時だった。
「あっ……!」
健生は洗面台の真上に設置されている三面鏡に映った自分の顔を見て驚いた。
鼻を中心に、顔が赤く腫れていたのだ。
「マズい……父さんと母さんに心配かけちゃう……!」
健生はリビングに戻り、救急箱からマスクを取り出した。これで顔を覆って、腫れた顔を両親に見られないようにする作戦だ。
両親にマスクを着けている理由を訊かれたら、風邪気味だとでも言えば良い。
体中の傷の手当てをし、録画しておいたアニメを観ようとテレビを点けると、その向かいにあるソファに腰掛けた。
学校から帰って来て、録画しておいたアニメを観る。この時間が健生にとって1日で1番幸せな時間だった。
テレビではニュース番組をやっていた。人気のアナウンサーが有名なコメンテーターと話している。中学生男子にとっては、大して興味の惹かれない内容のニュースを報道しているようだった。
画面を録画した番組一覧に変えようと、リモコンをテレビに向けてかざした時だった。
『続いては、今ウワサの願いを叶えるアプリについてです!』
「えっ!?」
テレビから聞こえてきた女性アナウンサーの言葉に、健生は耳を疑った。急いでリモコンの操作を止め、身体を前のめりにしてそのニュースに観入る。
『願いを叶える? どういうことですか?』
先ほどよく分からない内容を喋っていたコメンテーターが、健生の代弁をしてくれるかのように、女性アナウンサーに質問した。
『本当にそのままの意味なんです! こちらをご覧ください』
女性アナウンサーは液晶パネルを手で指すと、パネルの画面はそのアプリについての内容を面白おかしくまとめたものに変わった。
そのパネルの画面がテレビに大きく表示されると、健生はそれを口に出して読み上げる。
「えっと……なになに……。
・願いを叶えるアプリ【黒神】。
・そのアプリを起動して、名前と願いを書き込めば黒神がメッセージでアドバイスをしてくれるか、依頼者のもとまで来て願いを叶えてくれる。
・犯罪や明らかに自分で解決できるようなこと、くだらない依頼内容だと基本的に反応されない。
・黒神と直接会って依頼をこなしてもらった場合、黒神の外見や声などの特徴に関する情報を全て記憶から消される。
……って、こんなアプリがホントにあるの……?」
テレビを観終わった健生はその内容に胡散臭さを感じていた。そんな都合よく自分の願いが叶う方法がある筈がない。
しかしそんな時、1つの願いが健生の頭の中に浮かんだ。
ーー黒神なら、自分をいじめてくるアイツらをなんとかしてくれるかもしれない。
「な、な〜んて……ハハ」
馬鹿馬鹿しい。自分で考えて恥ずかしくなった。しかし、もしそんなアプリが実在するというのならーー。
「い、入れてみよう……」
健生は早速【黒神】アプリをインストールしようと、自身のスマホを操作して「黒神」と検索する。
すると、スマホの画面に真っ黒なアイコンのアプリのダウンロード画面が表示されていた。すぐさまOKをタップし、アプリをダウンロードする。
30秒ほど待ち、【黒神】がダウンロードされたことを確認するとアプリを起動した。
アプリを起動すると、真っ黒な背景の上に白い文字で、
『御名前』『御依頼内容』
と表示されていた。
「ここに書き込めば……アイツらを……」
名前の欄には『佐藤健生』
依頼内容の欄には、『同級生から暴力を受けています。助けてください。』
と書き込み、送信した。
「はぁ……」
スマホをテーブルに置き、ドサッとソファにもたれる。アプリに数文字書き込んだだけなのにヤケに疲れた。
返信が来るまではしばらく時間がかかるだろうと思い、明日の学校の用意をしようとソファから立ち上がった瞬間、
ピロリン♪
スマホの通知音が聞こえた。
そんな馬鹿な、とズボンのポケットからスマホを取り出して画面を見ると、【黒神】アプリからの通知が表示されていた。
その内容は、『返信が届きました。』
健生は目を剥いた。まだ依頼をしてから1分弱しか経っていない。そんなにすぐに返信できるものなのか、と疑心を抱えながらもスマホの画面を数度タップし、再び【黒神】を起動した。
そこには、目を疑うような内容が表示されていた。
『御依頼、承りました。明日の午前10時にそちらにお伺いします』
「え……」
頭がおかしくなったのだろうか、と思った。返信の異常な早さなど、もはや気にならない。
『そちらにお伺いします?』
何故、この返信文を送ってきた依頼主は自分の居場所が分かるのか。確かにTVでは『名前と依頼内容を書き込むだけ』と言っていたが。本当にそれだけで黒神が健生の家までやって来るのだとすれば……。
急に怖くなった。体中から冷や汗が噴き出し、背中に悪寒が走る。
スマホがハッキングされたのだろうか。もし本当にハッキングされていて個人情報を抜き取られていて、それを悪用されたら父や母に心配どころか迷惑をかけてしまう。
それだけは何としてでも避けなければ。その一心で考えた返信内容をアプリに打ち込んだ。
『分かりました。ですが、なぜ僕の家が分かったかを教えていただきたいです。返信、お待ちしております。』
という文章を書き込み、送信した。
しかし、黒神から返信が届くことは二度となかった。
◇◆◇◆◇
翌日の午前9時58分。
黒神が指定してきた時間の、ほんの2分前だ。
もうすぐ黒神が家にやって来るかもしれない、という、どうしたって不安の拭えないイベントに、健生は少し緊張していた。
学校には欠席すると既に連絡を入れてある。
両親にも昨晩2人が帰ってきた時に「風邪気味なので、明日は学校を休む」と伝えた。
顔の腫れを隠すためのマスクをし、念を入れて咳の演技も加えたことが効果的だったのか、両親はそれをあっさりと了承してくれた。
その両親は普段通り、今朝早くに仕事に行った。後はもうじきやって来るであろう黒神を待つだけだ。
「あ〜……サングラスかけた怖いおじさんだったらどうしよう……お金とか請求されないよな? もしされたら……」
その時は命に換えてでも許してもらおう、などと廊下をグルグルと歩き回りながら考えていた時だった。
ピンポーン。
「うぴゃあ!!」
突然静かな家中に響き渡ったチャイムの音に健生は驚き、思わず奇声を上げる。リビングの時計を見てみると午前10時になったところだった。
「ほ、本当に……来た……!!」
来ると思っていながら心のどこかで願いを叶える者の存在を疑っていた。その疑心が晴れた瞬間だった。
「は、はい……」
ガチャリと扉のロックを外し、玄関の扉をゆっくり開ける。するとそこにはーー、
「こんにちは」
「……へ?」
1人の少年が立っていた。
身長は自分と同じくらいで、少し低い。
肌の色も自分と同じ、肌色だ。
体格は細くも太くもない、普通。
髪は吸い込まれるような黒色。
顔は中性的で整っている。
そして1番の特徴が、目だ。
パッチリとしており、なにより左右で色が違う。右目の瞳孔は日本人と同じで黒色だが、左目の瞳孔が白色に近い。
おそらく、オッドアイと呼ばれるものだろう。非常に珍しいもの、ということだけは健生も知っている。
しかし、いくら目が珍しいものだとは言えども、それ以外の特徴は、ごく普通のどこにでもいそうな少年と何ら変わらない。
ワケの分からない状況に健生が声も出せずに混乱していると、
「ふふっ」
少年が吹き出し、困ったような顔で笑い出した。
「な……何ですか……?」
「いや、ずっと難しい顔で僕のこと見つめてたからさ。ちょっとおかしくって」
少年は笑いを止めると、薄らと笑みを浮かべながら、首を少し横に傾けた。
「君が依頼してくれた、佐藤健生くんだよね?」
「は、はい。えっと、アナタが黒神……?」
「そうだよ。初めまして健生くん。僕は黒神涼真。よろしくね」
ニコリと笑う涼真の顔が、健生にはとても輝いて見えた。まるで神様のように。
お読みいただき、ありがとうございます。