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クロレキシ  作者: 赤森千穂路
第四章 白神編
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第173話 権利

 舞が白神邸の中へ飛び込んだとき、目の前には信じられないような光景が広がっていた。スーツが破れ、体のあちこちに生傷をつけたバトラー。その正面には、瓦礫の上で涼真と思われる少年が凄まじい質の妖気を身に纏っていた。


「ま、舞さま……!」


「バトラーさん! 一体何が……!?」


 慌ててバトラーの元に駆け寄り、彼の傷を固有術式で治す。淡い緑色の光がバトラーの体を包み、傷が癒えていく。

 バトラーは幾分か表情を和らげると、舞に早口で説明を始めた。


「舞さま、今すぐここから離れてください。今、涼真さまは正気じゃないんです。体内で妖気が暴走して……」


 そこまで言った時、瓦礫を吹き飛ばして、涼真がバトラーへ向かってきた。バトラーは舞を庇うように立つと、涼真の拳の一撃を両腕で受け止め、肉弾戦へと突入した。


「舞さま! 離れてください! 今の涼真さまは、貴女さまにも危害を加えかねない!」


「は、はい……!」


 舞は言われた通り、バトラーと涼真から距離をおく。二人の戦闘を眺めつつ、舞は先ほどバトラーが口にした言葉について考えていた。

 妖気の暴走。その現象に、舞は聞き覚えがあったのだ。


「妖気が暴走……それって……」


『ああ、妖気暴走状態(アサルター)だな』


 舞が口にする前に、頭の中でアザトースが涼真の身に起こっている現象の名を告げた。以前彼女に説明してもらった、妖気の暴走。かつて、天界と魔界が大きな戦いを繰り広げていたときによく使われていた、命をも捨てかねないほどの危険性を伴う奥の手だ。

 だが、何故涼真の妖気が暴走しているのだろうか。舞が混乱していると、


『だがヤツの場合、故意な暴走ではなかったのだろう』


「……どういうこと?」


 舞が訊くと、アザトースは少し間を置いたあと、冷静な口調で語り始めた。


『ヤツは先ほど、貴様の怪我を治すためにあの黒い炎の術式を発動させた。だが、あの術には反動があった筈だ。消したものの規模によって妖気消費量が変化する、という、妖気が体の半分近くを占めているヤツにとっては致命的なまでの反動がな。消失した妖気が回復するまではそれなりの時間を要するのだろう。だが、ヤツには全快まで待っていられない理由があった』


 そこまで言われて、舞はようやく気が付いた。ハッと息を呑み、見開いた目でバトラーと戦っている涼真を見つめる。


「白神佚鬼と、私……!!」


『そうだ。万全の状態でも敗北した貴様を白神佚鬼と戦わせる訳にはいかない。そう考えた黒神涼真は、残っていた妖気を高速で練り、体内で膨張させながら白神佚鬼と戦うことにしたのだろう。そして、ヤツの目論み通りに体内の妖気は膨張して体中に行き渡り、体調は全快したが、妖気が勢い余って全身を征服し自我を乗っ取られた、いうところだろうな』


 アザトースが説明する間、舞は震えていた。取り返しのつかないことをしてしまったのかもしれない。その罪悪感と恐怖から、呆然としていた。


「私のせいで、涼真が……!」


『だが、後ろを見てみろ』


 アザトースに言われた通りに振り返ってみると、廊下の端や突き当たりに、白神三兄妹が倒れていた。彼らから感じる妖気はみるみるうちに小さくなっており、今にも息絶えてしまうのではないか、と思うほどだった。


『白神佚鬼、そして、朧と美月(ルナ)と思われる二人も倒れている。立ち上がる気配は無い。結果は素晴らしいではないか』


「素晴らしくなんかない! これは涼真の意志でやったんじゃないんだ! こんなこと、涼真は望んでないんだよ! 三人とも助けないと……!」


『ほう。貴様は、貴様の大切なものを奪おうとした者たちに情けをかけるのか? とんだお人好しだな』


 その言葉に、舞は動かそうとした足を止めた。

 アザトースは続ける。


『いいか? 敵に情けなどかけるな。貴様のその容赦や甘さが時に牙を剥き、貴様自身や貴様の大切な者たちに返ってくるやもしれん。奪われたくなければ、先に奪え。一度、命を奪われた者からの言葉だ』


 舞はアザトースの言葉を噛み締め、考えを巡らせていた。

 アザトースの言うことは正しい。それは舞にも分かる。敵を回復させるということは、それ相応のリスクを伴う。そして、今の舞ではその責任を負いかねる。誰がどう考えても、この状況でのアザトースの言葉は正しいだろう。


「……アザトース。私はね、貴女のいうことは正しいと思ってる。でも、佚鬼くんたちを見殺しにはしないよ」


 けれど、やはり舞には、彼らをこのまま見過ごすことはできなかった。その理由は、誰も死なせたくないだとか、これが自分の力の正しい使い方だ、だとか、そんな立派なものではなく、ただの私情であった。


「涼真を、できるだけ傷つけたくない」


『……馬鹿者が』


 舞は最も妖気反応が微弱になっている佚鬼の元へと駆け寄り、彼の胸に手を添えた。そして、“浄化(カタルシス)”を発動させる。

 傷口がゆっくりと閉じ、出血が止まる。体内妖気の減少速度もゆっくりになり、舞はホッと安堵の息を漏らした。

 佚鬼を近くの部屋の中へと移動させた舞は次に、朧と美月(ルナ)の回復をおこなった。二人は思っていたよりずっと重傷を負っていた。二人して肋骨が殆ど折れており、朧は鼻の窪み、美月はモデルのような細い手脚が木の枝のようにバキバキに折れていた。

 これも涼真がやったのか、と思い、歯噛みしながら、舞は二人にも術式を行使した。


 二人の治療も終えた舞は、佚鬼と同じ場所に彼らを安置した後、バトラーと戦う涼真を見やった。


「あの暴走……“浄化(カタルシス)”で抑えられないかな」


『可能だ』


 独り言を呟いたつもりだったのだが、アザトースが言葉を返してくれ、舞は少し驚いた。先ほどのやり取りで、てっきり機嫌を損ねてしまったと思っていたからだ。

 そんな舞の考えを知ってか知らずか、アザトースは続ける。


『妖気は体内の見えない管の中を流れている。妖気が体外にダダ漏れしているということは、その管が破れているのだろう。欠損した管を治せば、ヤツを正気に戻すことは可能だ。だが、貴様の術式の仕様上、管を治療している間はヤツに触れていなければならない。そのうえ、治癒の最中にヤツから攻撃を食らっても、貴様自身は回復できない。死ぬほどの痛みと苦しみを味わう可能性は十分にある。それでもやるか?』


「死ぬほどの痛みと苦しみ、ね……鍛えてた時よりもスゴいのかな?」


『さぁ。それは味わってみんことには分からん。だが、今の貴様は二日前よりも痛みにはずっと慣れている筈だ。だから白神佚鬼に腕を切り落とされた時も、正気を保ったままでいられた』


「なら良いじゃん。両腕を切られた痛みに比べたら、大抵の痛みなんか蚊に噛まれたようなものでしょ」


 そう言いながら、舞はその場で屈伸運動を始めた。続いて体を左右前後に捻った後、大きく息を吐いてから、ボソリと漏らす。


「やらない理由が、どこにもないよ」


 その双瞳は、涼真だけを真っ直ぐに見つめていた。






◇◆◇◆◇






 バトラーは吹き飛び、床の上で転がる。しかしすぐに立ち上がり、前方へ向けて鋭い蹴りを放った。

 ドガァァンッ!! という轟音とともに、黒と紅の妖気が爆ぜ、周囲に毒々しい火花が舞い散る。

 バトラーの脚の裏には、涼真の拳が貼り付いていた。


「速い……」


 涼真の姿が、一瞬見えなかった。バトラーですら目で追えないほど、彼が加速したということだ。恐らく、“神速(しんそく)”を強化した術式の効果だろう。

 バトラーは右脚を大袈裟に振るって涼真を振り払うと、床を力強く蹴った。


 妖気を付与した拳を鋭く放つ。涼真はそれを跳んで躱した。身軽な動きで左右の壁を蹴り、上っていく涼真。やがて天井にたどり着くと、壁を蹴って真っ逆さまにバトラーへ向けて突撃してきた。

 間一髪のところで、バトラーは涼真の突撃を大きく跳んで回避した。壁を跳ねていた時の速度との落差のせいか、バトラーには凄まじい速度のように思えた。


 赤いカーペット仕様の床がバキバキと砕け、特殊な成分が混じったコンクリートが露出する。その中心で片膝をついた体勢でいた涼真は、バトラーを狙って“億ノ手(おくのて)”を放った。

 無数の黒い腕がバトラーへ向けて手を伸ばす。バトラーは向かってきた腕を、次々に殴って蹴って弾き落としていく。しかしーー、


 ーーキリがない……!


 “億ノ手(おくのて)”の腕一本一本の耐久力はそこまで高くはない。バトラーが一撃でも加えれば、すぐに瓦解する程度の強度なのだ。

 だが問題は、バトラーの視界を覆い尽くすほどの数だ。現在目視できる限りでも、数十本は存在する。これがあと数千万本もあるとすれば、流石のバトラーでも妖気を使い切り、憔悴してしまうことは間違いないだろう。


 何か良い策はないだろうか。そんなことを考えていると、スカッと左腕が空を切った。視界が晴れ、目の前の景色は元通りのクリーム色だ。


「なっ……」


 一瞬の困惑。それ故の、数瞬の反応の遅れ。

 目の前には“億ノ手(おくのて)”ではなく、涼真の巨大な拳があった。


「ーーーーッッ!!」


 衝撃波とともに、バトラーの巨体が吹き飛ぶ。それを追って、涼真が飛行する。

 バトラーに追いついた涼真は、彼に拳を乱打し出した。そして、右手に更に妖気を注ぎ込むと、トドメと言わんばかりに腕を振るい、“斬黒(ざんこく)”を放った。

 夜の闇の如く、黒い妖気がバトラーの全身に飽き足らず、廊下中の空間を呑み込む。妖気は廊下を突き進み、突き当たりの壁に衝突するとともに消滅した。


「ぐ、うぅ……!!」


 壁が崩れ、瓦礫に埋もれたバトラーは、激しく痛む身体に鞭打ち、重い上体を起こした。

 だがーー、


「っ!! ガハッ……!」


 気力を振り絞って起こした上半身は、涼真の左足によって再び瓦礫にビタリと接着させられた。

 涼真はバトラーの胸に乗せた足をグリグリと左右に動かした。既にできていた傷が更にゆっくりと開かれ、鈍痛が走る。


「くっ……あ、ぁぁあ、あ゛あ゛……!!」


 涼真は苦痛に歪むバトラーの表情を見て、口元をニヤリと動かした。その表情が気に入ったのか、今度はバトラーを踏みつけ出した。


「りょ、涼真、さま……!」


 バトラーは両腕の力を振り絞り、自身を踏んづける涼真の足首を掴んだ。涼真は不快な表情を浮かべ、足を左右前後に振ろうとするが、バトラーは掴んだ手を離さず、自身の胸の上で足を固定する。


「あ、貴方、さまは……妖気に呑まれるような器じゃあ、ないでしょう……! 早く……元に、戻ってください……!」


 懸命に声を発し、涼真に訴えかけた。だが、涼真の耳にバトラーの声は届いていないらしく、依然、嫌そうな顔で足に力を込め続ける。


 すると突然、バトラーの視界が薄暗くなった。何かと思い、涼真の後ろを目を凝らしてみると、小さな人型の影が見えた。背中には蝙蝠のような翼が生えている。次第に影は大きくなり、涼真の背中に抱きついた。


「“浄化(カタルシス)”っ!!」


 涼真に抱きついていたのは舞だった。詠唱と同時に、眩い緑色の光が涼真を包み込む。


「ッ……!!」


 涼真があからさまに顔を顰めた。どうやら“浄化(カタルシス)”が効いているらしい。どのような影響を及ぼしているのかは知らないが、暴走した涼真にとっては不愉快な事であるというのは確かだ。


 しかし、不愉快なものは排除したい、と思うのが生物の本能である。

 涼真はバトラーに掴まれていた足の力を抜くと、凍てつくような視線を舞へと向けた。それは、涼真の標的がバトラーから舞へと移ったことを表していた。


「まっ、舞さま……! いけません、危険です……!!」


 バトラーは舞に呼びかける。しかし、舞は涼真の胴に腕を回したまま、動こうとしない。


「まだ……まだだ……! この程度じゃ、まだ……!」


 呪文のように呟きながら、舞は涼真の腰あたりにしがみつき、術式を発動し続ける。

 涼真は痺れを切らしたのか、ガリッと奥歯を噛み締めると、体から妖気を勢いよく解き放った。


「うわぁあっ!!」


 吹き飛ばされた舞は、瓦礫まみれの廊下をゴロゴロと転がる。途中、落ちてある瓦礫の破片で切ったのか、彼女の頬には薄らと血が滲んでいた。


「舞さまっ……!! ぐっ……!」


 バトラーは舞を守ろうと動こうとしたが、涼真は抜かりなく、足に力を込めていた。

 脱出しようとしたことに気が付いたのか、涼真は舞へと向けていた視線をバトラーの方へと戻した。そして、左足に更に力を込め、バトラーの胸の傷口を再度グリグリと踏み躙り出した。


「〜〜〜〜〜ッ!!」


 ブチ……ブチ……と皮膚が少しずつ裂けていく音が聞こえる。その度に激痛が走り、バトラーは思わず声にならない叫び声を上げる。


「涼真!!」


 すると、またしても舞が涼真に抱きついた。そして、再度“浄化(カタルシス)”を発動し、涼真の体を浄化し始める。


「ありがとう、私を守ってくれて!! でも私、もう大丈夫だから!! 敵はみんな、涼真がやっつけてくれたんだよね!? ありがとう!! でも、もう涼真が戦わなくていいの!! これ以上苦しまなくていいの!! だからお願い、止まって!!」


 舞が必死に涼真に呼びかける。神に対して「お願い」と。だが、正気を捨てた涼真にとっては、想い人の願いの言葉でさえも、ただの雑音に他ならなかった。


「ーーーーーーッ!!」


 涼真が咆哮する。どこか怒りを含んだようなその一声は大気を震わせ、屋敷周辺の大地をも揺るがした。


「うぐっ……くぅぅっ……!!」


 舞は苦痛に顔を歪ませながらも、ひたすら“浄化(カタルシス)”を発動させ続ける。だが、凄まじい声圧と妖気圧に、舞の華奢な体は今にも吹き飛ばされそうになっていた。両足が今にも浮きそうになっているその姿は、抱きついているというよりかは、涼真に掴まっている、といった方が正しいだろう。

 やがて、妖気を噴き出しただけで舞が剥がれなくなったことを知ったのか、涼真は背中に妖気を凝縮させ、“億ノ手(おくのて)”を出現させた。それを見て、バトラーは顔を青褪めさせた。


「りょ、涼真、さまっ……!!」


 このままでは、涼真は自身の想い人を自分の手で手にかけてしまう。

 それだけは、そんな悲しいことだけは、絶対に起こさせてはいけない。


「くぅっ……ぐぁぁぁぁああああああ!!」


 バトラーは己の不甲斐なさから生まれた怒りを力に変換し、全身に妖気をたぎらせる。バトラーを中心に、紅の妖気が火柱の如く立ち昇る。

 だが、負けじと涼真も自身の妖気を暴発させ、バトラーに対抗する。暗闇がバトラーの妖気を侵蝕し、せっかく抽出した力がどんどん涼真に奪われていく。


「涼真、お願い……! お願いだからっ……いつもの涼真に戻ってよぉっ!!」


 舞が叫び、術式の出力を上げる。エメラルドグリーンの閃光が三人を包み込む。


「ーーーーッッ!!」


 すると、涼真はバトラーとの力比べを止め、頭を押さえてもがき出した。苦痛に満ち満ちた表情から時折り見せる邪悪な眼光が、舞を貫く。

 次の瞬間、“億ノ手(おくのて)”が舞の四肢を掴み上げ、宙吊りにした。術式が途切れ、舞が呻き声を上げる。


「あぁぁあっ……!!」


 大の字で拘束された舞は体を大きく揺さぶって拘束から逃れようともがく。しかし、長さや強度をその都度調整できる億ノ手(このじゅつ)には、意味が薄いだろう。

 すると、涼真が半身だけ振り返り、左手を舞へと向けた。涼真はかざした左手で指鉄砲を作ると、その指先に黒い妖気を溜め始めた。


「涼真さま……!! いけません、それだけはっ……!!」


 バトラーは腕に力を込め、起き上がろうとする。だが、涼真がそれをさせない。バトラーを押さえつける左足には余程の力が入っているのか、ビクともしなかった。

 先ほど、妖気を涼真に奪われたせいか、バトラーの抵抗はもはや、何の意味も為さなかった。うつ伏せで倒れたまま、ただただ舞が貫かれるのを黙ってみているしかないのか。


「ク……ソ、ぉぉおおおおおおおおお……!!」


 バトラーは怒りを燃料に、再び体内で妖気を生成する。しかし、その時には既に、涼真の全ての準備が整ってしまっていた。


 涼真の指先に集まった妖気がバチバチと短くスパークを纏い出した。それは、充填完了の合図。

 涼真は何かを押し出すように、腕を真っ直ぐ伸ばす。指先にあった妖気は十字の閃光の直後、渦を巻く光線として放たれた。


「ああああああああああああああっ!!」


 瓦礫を妖気で消し飛ばし、脱出に成功したバトラーは、カラスのような翼を羽ばたかせ、舞へと向かった。

 だが、光線は既に舞の目と鼻の先。バトラーがどれだけ速度を上げたとて、間に合うことはなかった。


 舞がギュッと目を瞑る。襲いくる激痛を覚悟したのだろう。


 しかし、その必要はまったくなかった。


 バチィンッ!! という壮烈な破裂音とともに、黒い光線の軌道が舞の直前で90度上に逸れ、消滅した。


「舞ちゃん、大丈夫か?」


 妖気が混じった黒煙の中から、聞き覚えのある声が聞こえた。バトラーは声の主を見て口元を緩め、舞は目を見開いた。


「……遅いですよ」


「く……黒神さん……!」


 舞の前にいたのは、黒神だった。振り上げていた右腕を下ろしながら、黒神はゆっくりと舞の方を振り返る。


「明日香ちゃんと雪ちゃんに呼ばれて来たんだが……間に合って良かった」


 そう微笑んだ後、黒神はパチン、と指を鳴らした。すると、舞を拘束していた“億ノ手(おくのて)”が一斉に消滅した。

 黒神は舞とともに着地した後、バトラーの方へにんまりとした笑みを向けてきた。


「ククッ……! おいバトラー、なんてザマだよ! 涼真相手に手こずってるのか?」


「え、ええ……そう、ですよ……! 我々が、強く育ててしまった……せいでね……!」


 ボロボロになっているのがそんなに面白いのか、黒神は腹を抱えて笑い出した。くつくつと笑う様が絶妙に馬鹿にされた感じがして、バトラーは怒りを再燃させそうだった。


「そうか、なら良かった。お前が衰えた訳じゃなく、涼真がお前を苦戦させるほど力を付けたってんなら、俺は大満足だ」


 黒神は笑いを止めると、視線を涼真へと向けた。涼真は黒神の様子を探っているのか、中々攻撃の姿勢を見せようとしない。

 顎に手を当て、少し考えた様子を見せた後、黒神は手を横に大きく振るった。


「舞ちゃん、俺が合図したら涼真に飛びついて“浄化(カタルシス)”を発動してほしい。それまでバトラーはそれまで舞ちゃんを何が何でも守れ。絶対だ!」


「だ、大丈夫なんですか? だって、黒神さんは……!」


 舞が気遣わしげな表情で黒神に尋ねる。彼女は恐らく、黒神の体調を心配しているのだろう。

 黒神が【黒神】を引退した理由も、加齢による体調不良なのだ。長時間の戦闘が厳しくなり、やむを得ず決断した。

 彼は涼真に【黒神】を託してから、ロクに戦闘を行なっていない。たまに涼真や涼菜と稽古程度で体を動かしていたとはいえ、暴走した今の涼真は普段とはまるで別物だ。

 いくら全盛期が最強だったとはいえ、今の黒神が涼真に勝てるのだろうか。舞はそんなことを思っているのだろう。


 だが、バトラーは不安を抱えるどころか、心の底から安堵していた。


「大丈夫。全盛期ほどじゃないが、俺もまだ戦える方だ。術式は一日に一回が限度だが……孫に対するハンデとしては、丁度いいだろ」


「でもっ……」


 心配の声をかける舞の肩に、黒神はポンと手を添え、バトラーに目配せをした。バトラーはコクリと頷き、舞を守るように立つ。


「さて……たまにはジジイとしての役目も果たさないとな」


 黒神は軽い準備運動をしてから、涼真へ向けて人差し指をクイクイッと動かし、煽った。


「来い、涼真」






◇◆◇◆◇






 舞は術式でバトラーや、気を失っていた佚鬼たちの傷の手当てをしながら、黒神と涼真の戦闘に見入っていた。否、これを戦闘と言うにはあまりにも拍子抜けすぎる。

 神と神とのぶつかり合い。凄まじい規模の被害が出そうなものなのに、舞の目の前で行われていたのは、あまりにも静かなものだった。


 涼真が駆け出し、黒神に再度攻撃を仕掛ける。しかし、黒神は口元に微笑を浮かべたまま、涼真の腕を容易く受け流していく。黒神がアッサリと涼真の攻撃を受け流していることにも衝撃だったが、舞が最も驚いたのは、()()()()()()()()()だ。

 涼真が妖気を放つ直前ではなく、攻撃を仕掛けようと腕を振るった瞬間、既に黒神の掌が涼真の腕に触れているのだ。そして、涼真は黒神の手が描くままの軌道で腕を振るっている。そのせいで攻撃のタイミングがズレているのか、妖気が固まり切らず、放った直後に発散してしまっている。


 速度や一撃一撃の迫力はまったくの別物だが、まるで小学生同士が手押し相撲をしているかのような光景に、舞は少し気が抜けてしまっていた。

 だが同時に、激しい戦闘を激しい戦闘だと視認させないほどの黒神の技量に、舞は得体の知れない不気味さを覚え、少し身震いした。


 黒神は凄まじい速さで腕を動かし、パシパシパシッと涼真の攻撃を捌き続ける。

 涼真は眉間に皺を寄せると、“億ノ手(おくのて)”を発動させた。涼真の背中から無数の腕が伸び、黒神に襲いかかる。

 しかし、黒神はこの攻撃も容易く受け流すか、腕を軽く殴って消滅させるかして対応した。


 すると、黒神の視界を覆い尽くすほどの“億ノ手(おくのて)”を突き破って、涼真が短剣を鋭く突き出してきた。


「そりゃいかん」


 黒神は短く呟くと、短剣の鍔を蹴り上げた。剣は蹴りの衝撃で涼真の手から抜け、クルクルと宙を舞い、天井に突き刺さった。

 あからさまに不機嫌そうな顔になった涼真を見て、黒神はほくそ笑んでから、


「ぬん!」


 眼力だけで衝撃波を放った。

 凄まじい圧が涼真の体を襲う。すると、涼真の左腕を覆っていた黒い妖気が粒状になって掻き消されていった。再び腕に妖気を纏わせればいい話だが、涼真はそれなりの妖気を消費するだろう。

 涼真の攻撃力と防御力を低下させることに成功した黒神だったが、その顔はどこか不満げだった。


「今ので体内妖気が枯れなかったのか……確かに、これならバトラーが苦戦したのにも納得だな」


 涼真が再び両腕に妖気を纏い、巨大な手を生成する。またしても飛びかかってきた涼真の攻撃を僅かな動きだけで躱しつつ、黒神は右手の人差し指と中指に妖気を付与した。

 涼真が右腕に更に妖気を込めた瞬間、隙が生まれた。そこへすかさず、黒神は二本の指を涼真にこめかみに突き立てた。


「止まれ」


 言い放つと同時に、妖気を涼真の体内へと送り込む。

 ビクン、と涼真の体が大きく震え、動きが止まった。直後、ガタガタと振動し始めた涼真は、白目を剥き、口から泡を噴き出した。

 やがて、膝から崩れ落ちた涼真。完全に倒れ切る前に、黒神が涼真の胴に腕を回し、体を支える。


 何が起こったのか、舞にはサッパリ分からなかった。しかし、涼真が黒神に仰向けで床に寝かされたのを見て、ようやく二人の戦いが終わったのだと気が付いた。


「舞ちゃん、頼むよ」


 言いながら振り返った黒神は、笑顔を浮かべていた。微塵も疲れを感じさせずに佇む彼を本当に異次元の存在なのだと改めて思った。

 舞は涼真の元へと駆け寄る。すぐ傍で見た涼真の体からは、まだ黒い妖気が薄らと溢れ続けていた。今は気を失って、体から放出されている妖気も微弱になっているが、また目覚めたら先ほどのように暴走してしまうのだろう。

 その場に膝をついた舞は、涼真の左手を両手でギュッと握ると、囁くように詠唱した。


「“浄化(カタルシス)”」


 淡い緑の光が涼真の体を包み込む。涼真の体を覆っていた黒い妖気が少しずつ剥がれ落ちるようにして消滅していく。


 ーー涼真、戻ってきて。


 舞は術を発動させ続けながら、そう願う。これ以上、涼真に誰も傷つけさせないように。そして何より、これ以上、涼真の心が傷つかないように。

 舞も、バトラーも、黒神も。黒神を呼びに行ったという明日香と雪も、きっと涼真が正気に戻ることを心から願っているだろう。

 そしてまた、普段通りの、なんでもない日常を送りたいと思っている。その日常とは、涼真が存在しなければ成り立たないものなのだ。


「だから、お願い……。もう一度私に、君の隣に立つ権利をください」


 たった一人の、子供の神に託した願い。本来、子供の神とはまだまだ力不足であり、願いを叶える資格すら与えてもらえない者も多い。

 しかし、舞が願った神は、既にキャリアが10年近くもある現役の神の代行者である。それ故、人々の期待に応えた数は多い。


 だから、彼は今回もきっと期待に応えてくれる。そう信じて、舞は涼真に術式を発動させ続けた。

お読みいただき、ありがとうございます。

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