第160話 俺の雪に
やる気満々の二人の肩に手を添えた雪女は、真剣な声で訴えた。
「……退路を塞ぐのは、ダメ」
「「え?」」
「黒神さんから言われてるでしょ。命が危ないと思ったらすぐに逃げるようにって。その時、退路を塞いでいたら私たちまで逃げられなくなっちゃう」
「あ……そうか」
母の言うことに納得したように、雪が頷く。
しかし、特に顔を顰めた様子はなく、彼女たちのやる気を削いだという訳でも、思い付いた作戦をボツにしてしまったという訳ではなさそうだった。
「私は二人のサポートに徹することにするわ。だって今の二人の顔、すごくワクワクしてるんだもの。何か企んでるんでしょ?」
「……やっぱり、分かっちゃいます?」
哲人がいたずらっ子のような顔で振り返った。ウズウズしているというか、お預けを食らっている状態の仔犬の様な印象を雪女は抱いた。
「勿論。まるでこい……ん゛んっ。ひとまず、二人の好きなように任せるわ。でも、危ないと思ったら、二人の首根っこ引っ捕えてすぐに逃げるからね。いーい?」
「うん!」
「はい!」
笑顔で頷く二人。そんな二人に頷き返した雪女は、哲人の耳元に近付き、雪には聞こえないほどの小さな声で囁いた。
「あ、それと哲人くん……」
「はい?」
「雪のこと、よろしくね。色んな意味で♪」
「んがっ!? はっ、はい……」
顔を赤く染め、モジモジし出した哲人にクスリと笑うと、雪女は両手を広げ、術を詠唱した。
「“浮氷原”」
◇◆◇◆◇
雪女の術式が発動し、哲人たちの頭上に大きな氷塊がいくつも出現した。ただ、それらは浮いているだけで、動く気配はない。
どういうことかと哲人が疑問に思っていると、背後から雪女の張りのある声が聞こえてきた。
「さぁ二人とも! 好きなようにやっちゃって!」
「いくわよ、哲人!」
「おうよ!!」
酒呑童子と同レベルに妖怪たちから慕われている雪女のことだから、何か考えがあるのだろう。そう思うことにして、哲人は雪とともに男へ向けて駆け出した。
「チィッ……!!」
男は右手の指に透明の糸を絡ませ、腕を振うようにして哲人たちへ向けて糸を放った。
それを持ち前の優れた五感でいち早く悟った哲人は叫ぶ。
「来たぞ!」
「お母さん!」
「はぁいっ!」
雪の合図の直後、雪女が右腕を高々と掲げた。すると、ズズズズズ、という地響きのような音とともに、浮いていた氷塊が男へ向けて勢いよく放たれた。
「なっ……!?」
男は腕を動かし、哲人たちへ向けて放っていた筈の糸を氷塊へと向けた。氷塊は輪切りにされ小さな爆発を起こして消滅したものの、男が伸ばしていた右手を胸元に戻したことから、糸も掻き消すことができたようだった。
「“変っ身”!!」
哲人は男へ向かって走りながら、固有術式を発動させた。全身が黒い妖気で覆われた直後、妖気が殻のように割れて散り、中から狼男の姿へ変身した哲人が姿を現す。
「これでも、食らいなさい!」
雪が手をかざし、男へ向けて氷柱を放った。男は足元目掛けて放たれた氷柱を、すんでのところでジャンプして躱す。
だが、それは雪と哲人の思惑通りだった。
跳び上がった男の懐へ素早く潜り込んだ哲人は、空中で身動きの取れない男へ拳を連発する。
「オラオラオラオラァアッ!!」
十数発のパンチを顔面に叩き込んだ後、組んだ両手を男の脳天へと振り下ろした。男は勢いよく吹き飛び、廊下のど真ん中で倒れ込む。
着地した哲人に、背後から今度は雪の声が聞こえてきた。
「哲人! 私が一発かます! それまでお願い!」
「ヘヘっ、了解! んじゃあ遠慮なく飛ばしてくぜぇ!!」
妖気を溜め始めた雪を見て、哲人はすぐに男へ向けて再び駆け出す。雪は何か大技を仕掛けようとしている。ならば自分は、彼女の意思を肯定し、信じるだけ。
「妖怪風情が……調子にっ、乗んなあ!!」
男は迫りくる哲人へ向けて糸を放った。だが、哲人の鋭い感覚の前では、見えない糸はその強みを活かせない。
哲人は左右へ回転しながら跳び、5本の糸を潜り抜けると、男の腹へ鋭く拳を放った。
「か、はっ……!!」
男は吐血しながら後方へ吹っ飛び、ゴロゴロと回転し、壁に激突して止まった。
男を追って、哲人はまたも駆け出す。だが、腹を押さえて蹲っていた男は、哲人に向けて右手をかざし、詠唱した。
「じゅ……“呪縛糸”!!」
「っ……!?」
突如、哲人を囲むようにして、数本の白い糸が空中に出現した。糸はグルグルと周囲を回っていたが、やがて発光した直後、哲人の全身を勢いよく締め上げた。
「うぉっ!?」
四肢を封じられた哲人は、走っていた勢いそのままに床へ倒れ込む。
なんとかして絡み付いている糸を切れないかと哲人が床でもがいていると、いつの間にか、荒い息を繰り返す男が哲人の前に立っており、険しい形相で見下ろしていた。
「よくも……やって、くれたなぁ……! 妖怪のガキ! お返しや!!」
男がパチン、と指を鳴らすと、哲人を締め付けていた糸が更に力を増した。ブチブチ、と音を立てて肉が裂け、その激痛に耐えられず、哲人は絶叫する。
「ぐ、あぁぁあああーーーーー!!」
「哲人!!」
「哲人くん!!」
雪女が氷塊を再び男へ向けて放つ。だが、男が手を伸ばしたのと同時に、氷塊はアッサリと砕け散った。
「ナメんなよ、妖怪風情が……“箒星”!!」
男は両手の指先に絡ませた糸で『あやとり』のホウキと星を次々に組み立てる。すると、男の全身を覆うように青白い妖気が発生した。男はギロリと雪たちを睨むと、妖気を身に纏ったまま、勢いで飛び出した。
夜空に尾を引く彗星の如く進む男。だが、雪の妖気の充填は完了していないらしく、彼女はまだ妖気を溜めており、あまりにも無抵抗な状態だった。
「しまっ……」
「雪!!」
雪の背後にいた雪女が右腕を一振りすると、雪と男の間に「へ」の字型の巨大な氷壁が出現した。男は勢いそのままに斜面を登り切り、雪たちの後方の宙に飛び出てきた。
雪女はすぐさま男の方を振り向くと、宙へ向けて手をかざし、おびただしい量の氷柱を放つ。
男に氷柱が衝突し、白煙が上がる。だが、妖気反応は未だ消えていない。直後、煙を掻っ切ってきた男が高速で飛行しながら迫ってきた。
雪女は両手を前に突き出すと、雪の結晶の形をしたバリアを生成し、突き出された男の拳に迎え撃った。
「ぐ、うぅっ……!!」
「こんなうっすいバリアで……神を止められるとでも思ったんかぁ!?」
バリン、という硬いものが割れる音がし、雪女が吹き飛んだ。彼女はゴロゴロと転がった後、自身が生み出した氷の壁に衝突し、床にうつ伏せで倒れた。
「お母さんっ!!」
「次はお前やぞ、ガキ」
雪が振り向くと、目の前には狂気的な笑みを浮かべた男が立っていた。口角が不気味なほどに吊り上がっており、まるで口裂け女のようだった。
「死ねぇ!! クソ妖怪ぃい!!」
男は叫ぶと、蒼い妖気を纏わせた拳を高々と振り上げる。次の瞬間には襲いくるであろう、激しい痛みに恐怖し、雪が反射的に目をギュッと瞑った時だった。
「おい」
低い男の声がした直後、パシッ、という音とともに、男の腕が何者かによって掴まれた。男を掴んでいた腕は岩のようにゴツゴツとしていて、銀色の体毛が神々しく輝いていた。
神と同等の質の妖気を放つ彼は、鋭い目を更に吊り上げて、男を激しく睨み付けた。
「俺の雪に触んじゃねぇ」
◇◆◇◆◇
あれから、ずっと考えていた。
今の自分にとって何が必要なのか。
どうすれば雪を、涼真を、大切な人たちを守れるくらい強くなれるのだろうか。
今の哲人に必要なのは、一体何なのか。
「ただの遠距離攻撃だな」
「……へ?」
黒神は平然とした顔でそう言い放った。ソファに寝転び、手前のテーブルに置いてあったコーヒーの入ったマグカップを口元へと運ぶと、ズズズ、と啜る。
コト、とカップをテーブルに戻すと、隣に座っていた哲人へ視線を向けた。
「今の哲人くんに必要なのは、遠距離からでも相手に攻撃できる手段だ。そうすれば、誰かを守りながらでも、複数人と互角以上に戦える」
黒神はカップの横にあった皿からクッキーを一枚摘み上げると、口の中へと放り込んだ。そして、またコーヒーを一口飲むと、今度は哲人に質問をしてきた。
「1対1の近接戦闘と1対1の遠距離戦闘。不意打ちでない場合、攻撃を防御される可能性が低いのはどっちか分かるか?」
「え? うーん……近接戦闘、かな。なんとなく……」
「そう。正解は、圧倒的に前者だ。何故なら、両者ともに相手に考えさせる隙を与えないから。だからこそ、君の性格や能力と近接戦闘は合ってて、今までの戦いでも相手に通用していた。
だが、今回の相手は神だ。今まで戦ってきてた相手とは比較にならない。しかも、君はその戦法で一度白神兄妹に敗北している。なら長所を伸ばすよりも、短所を補う方が良い。相手に戦法を知られてるのなら、尚更な。
そこで、遠距離攻撃ができる妖術だ。君の場合、近距離の相手は持ち前の超感覚と反射神経でなんとかなるだろうが、遠距離から攻撃されたら防戦一方だろ?」
「うぐ……」
哲人は図星を突かれ、奥歯を噛み締めた。
朧と美月と戦った時も、遠距離攻撃ばかりで攻められた末に敗北したのだ。接近戦に持ち込むどころか、彼らに接近する隙さえなかった。
「だからこそ、ちょっとだけでも妖術で牽制し、敵に隙を作ることができれば、後は相手の懐に切り込み、得意の近接戦闘に持ち込むことができる。そこからは君の土俵だ」
「でも、どんな妖術を身に付ければいいんすか? 一応、学校で習った基本的な妖術は使えるっすけど……」
「その基本的な妖術でいいんだよ。後は使い方次第。今回は俺の経験から、最も有効的な術の使い方を教えよう」
黒神は「よっこらせ」という掛け声とともに立ち上がると、哲人へ向けて人差し指をクイクイと動かした。彼の足が向いていたのは黒神家の奥の部屋。つまり、訓練場で妖術を教えてくれるということだろう。
一体どんな妖術なのだろうか。歴戦の神が教える妖術なのだから、余程テクニックが必要な使い方なのだろう。
そんなことを思って哲人が固唾を飲んでいた時、黒神が表情を緩めた。
「そう身構えなくていい。これは超簡単だから。そうだな……ゲーセンでゾンビと戦うやつあるだろ。アレと似たような要領でやればいい」
黒神は指鉄砲を作ると、「バァン」と何もないところを撃ち、いたずらっ子のように笑った。
◇◆◇◆◇
哲人は男の腕を掴んだまま、雪に指示をする。
「雪、妖気の充填を続けてくれ。俺が時間を稼ぐ」
「う……うん!」
雪は初め、目の前の銀色の狼男が哲人かどうか分からなかったのか少し戸惑った顔であったが、すぐに表情を引き締め、頷いた。
哲人はそれに笑い返すと、男を掴む腕に力を込める。
「オラァアアーーーッ!!」
男を氷壁の方へと投げ飛ばし、それを追って素早く跳ぶ。
「ガハ……ッ!」
「まだまだぁ、こっからだ!!」
氷壁に衝突した男をさらに氷に埋め込むようにして蹴る。だが、威力が強すぎたのか、男は分厚い氷の中を突き進み、貫通してしまった。
哲人は氷壁の上に飛び乗ると、斜面を滑って男を追う。
氷壁の前で腹を押さえて蹲っていた男に、滑り降りた勢いのまま、蹴りをかました。
「うらあっ!!」
「ギャべっ!!」
男はまた吹き飛ぶと、ヨロヨロと飛ばされた先で立ち上がった。
「ちょ、調子に乗んなよ……妖怪ぃい……!!」
「なんだ? それしか喋れないのか? 俺の友達の神様はもっと賢いんだけどな」
「黙れッ!! 神の俺をここまで愚弄しおって……もう後悔してもおそ」
「くらえー」
哲人は妖術で生み出した小石を、男の顔面目掛けて弾き飛ばした。バチっという鈍い音の後、男が鼻を押さえて悶絶し出した。
「い゛っ〜〜〜!!」
どうやら、哲人が放った小石は鼻先に当たったらしい。鼻先といえば、体の急所と呼ばれる箇所の一つ。今男を襲っている感覚は、痛いなどというレベルではないだろう。
「ひひっ、ビンゴ」
これこそ、黒神直伝の戦闘方法。遠距離攻撃で相手の動きを止め、その隙に距離を詰め、哲人の土俵に持ち込む。今回は当たりどころが良すぎたが、本来ならば敵を一瞬怯ませるか意識を逸らす程度で良いのだ。
そのほんの一瞬があれば、今の状態の哲人ならば敵に十分接近しーー、
「“天狼星”」
拳を数十発は叩き込める。
流星の如き拳が宙に蒼い閃光を描きながら男の全身を乱打する。一撃一撃が一瞬にも満たない速度で、男にはこの攻撃を回避どころか、防御する隙もなかった。
男を数百発ほど殴った頃だろうか。背後に凄まじい妖気反応を感知した哲人は攻撃を止め、その場で高く跳び上がった。
「こんなもんでどうだ!? 雪!」
男はもはや虫の息。だが、油断はできない。涼真が肩を貫いたという白神佚鬼は、涼介の話によれば術式も問題なく扱えたとのこと。つまり、白神家の誰かが治癒の術式を扱える可能性が高いのだ。ここで確実にこの男の動きは止めなければならない。
「ありがとう哲人! 後は私に任せて!」
氷壁の上に立った雪が、右腕を高く掲げていた。その手中には、冷気を纏った鳥肌が立つほど濃い妖気。
「凍てつきなさい! “天牢雪獄”っ!!」
雪が右腕を勢いよく振り下ろした直後、彼女の手にあった妖気が小さく爆ぜ、辺り一面が一瞬で雪景色に変貌した。男が廊下の真ん中で氷漬けになっていたのは、言うまでもないだろう。
「相変わらずスンゲェ技……」
一面に雪原を目を丸くして見つめていると、背後にひんやりとした気配を感じた。
振り返ってみると、笑顔を浮かべた雪が立っていた。
「哲人も凄かったわよ。あんな不意打ちみたいな技、いつの間に身に付けたの?」
「黒神さんにちょろっと教わっただけだよ。ま、何はともあれ……」
哲人はスッと右手を挙げた。それに気付いた雪も、パッと顔を明るくして、同じように右手を挙げる。
「俺たちの勝ちだな!」
「うん!」
パチン、と音を立てて、二人はハイタッチを決めた。『あの術式』の出番さえなかったものの、神相手に勝利できたのは哲人たちにとって大きな自信となるだろう。
「あらあら、随分と見せつけてくれちゃって」
すると、氷壁が星屑のようにキラキラと輝きながら消え、その向こう側から雪女が歩み寄ってきた。先ほど氷壁に吹き飛ばされていたが、どうやら無事なようだ。
「あ、お母さん。忘れてた」
「コラっ」
雪女に軽く手刀を食らった雪は、小さく舌を出して微笑んだ。
「二人とも、あんまり油断しちゃダメよ? まだ戦いは終わってないんだから。イチャイチャするのは良いけど、節度を守ってね〜」
「「い、イチャイチャなんかしてない(っすよ)!!」」
二人揃っての否定が面白かったのか、雪女はクスリと笑う。その姿を見て哲人は、やはり彼女たちは親子なのだなぁ、と改めて思った。
すると、
「待てやぁ!!」
「ちょこまか動きよって!!」
などという怒号が聞こえてきたかと思ったら、
「ニャァァアアアアアアアアアア!!!」
と、絶叫しながらこちらに向かって必死の形相で走ってくるナギの姿が目に入った。その後方には、大勢の神たち。恐らく、全員が先ほど倒した男の親戚だろう。
「な、ナギちゃん!?」
「なんか凄いことになってるな……」
「て、哲人! 雪ちゃん! 助けてくれぇえええええ!!」
助けてと言われても、あの数の神を止めるのは骨が折れるだろう。何しろ、神一人倒すのに切り札である“狂狼化”を使ってしまったほどだ。それが10倍以上もの相手ともなれば、いくら今の形態の哲人いえども、敗北もあり得るのだ。
しかし、雪は迫り来る神たちを見てニヤリと笑うと、哲人の肩をツンツンと突いた。
「哲人、アレをやるわよ」
アレという単語が出て、哲人はすぐにピンときた。だが、雪の言うアレはまだ完成度が低く、実戦で使ったことすら無かった為、哲人はあまり乗り気でなかった。
「えー……俺まだ不安なんだけど……」
「大丈夫。もしも失敗したら、その時は一人一人凍らせればいいだけだし。それに」
そこまで言うと、雪は上目遣いで訊いてきた。
「私のこと、守ってくれるんでしょ?」
哲人の脳裏に、あの夕陽の光景が鮮明に蘇った。
以前交わした、約束。
必ず守ると、夕焼け空の下で誓った。
哲人は、涼真のように大勢の者との約束や願いは守れないし、叶えられない。
でもたった一人の、恋人との約束や願いくらいは守りたいし、叶えたかった。
「……分かった。んじゃあ、もういっちょやるか!」
哲人が大きく頷くとともに、二人は神たちへ向かって手をかざした。
「「術式統合!!」」
哲人が両腕を床につき四足歩行になると同時に、背後から雪が振りかけるようにして彼に妖気を纏わせる。それを合図に、哲人はナギと神たちへ向けて駆け出した。
稲妻の如き速さで突進し、10人以上いた神たちを宙へ巻き上げる。神の周囲には、吹き飛ばした瞬間に神たちに付与させた雪の妖気が漂っていた。
「「統合術式、“霧氷・白狼”!!」」
雪がパチンと指を鳴らすと、神たちの雪の妖気が鋭く発光した。
次の瞬間、耳をつん裂くような甲高い音とともに、神たちが一斉に氷像と化した。氷が廊下の壁にまで到達しており、蜘蛛の巣のようになっている。その真ん中で、白い冷気を放ちながら佇む神たちからは、もう動く気配は感じられなかった。
「お、おっかにゃいにゃあ……」
尻もちをついた体勢で目の前の氷像を見上げたナギは、苦笑いを浮かべていた。もう少しで自身もこうなるところだったのだ。当然の反応だろう。むしろ、あの近距離でよく巻き込まれなかったな、と哲人は思ったが、氷の術の制御はほぼ雪が行なっているので、ナギが凍り付かなかったのは彼女の技量のおかげだろう、と予想した。
「ナギ!」
「よーぅ。助かったぜ、二人とも」
「『よーぅ』じゃねーよ。何? これ」
哲人はしげしげと氷像と化した神たちを見上げる。その数なんと13人。涼真や白神兄妹よりも妖気の総量ではかなり劣っている様子だったが、彼らも神だ。統合術式が全員に決まったのは奇跡だな、と哲人は思った。
「黒神に言われた通り、屋敷中を走り回ってたんだよ。オイラはとにかく、捕まらずに目立ち続けるのが役目だからにゃ」
「にしても凄い数を引きつけてきたわね……よく捕まらずにここまでこれたね、ナギちゃん」
雪が驚いたような、呆れたような声で笑った。彼女の発言に、哲人も隣で同意する。
「ああ。これだけの数を今止められて、助けられたのはナギじゃなくて俺らだな……」
「ふふん。屋敷内の殆どの神を引き連れてきたぜ。黒神からの伝達によれば、後は白神どもだけが見つかってにゃいみたいだけど……」
ナギがそう言った時、哲人と雪の持っていたスマホが、同時に鳴った。
◇◆◇◆◇
白神邸、2階。
酒呑童子たちとはまた別の強大な妖気の反応を察知した朧が向かってみると、そこには、スーツを着た金髪の男と、槍を携えた茶髪の少女がいた。
「フン、七つの大罪の二人と戦えるとは……嬉しいね。しかも、片方は初代七つの大罪統率者、サタンときたもんだ」
「それはどうも。ですが、私はこれっぽっちも嬉しくありません。貴方のことが心底憎いからです」
「あらら。初対面からめちゃくちゃ悪印象だな、俺」
「確かに我々は初対面ですが、実質、もう何度も顔を合わせているようなものでしょう」
首元に手を運び、シュルッとネクタイを緩めるバトラー。彼は朧を静かに睨み付けると、赤黒い妖気を全身から解き放った。
「やってくれたな、ガキ」
朧は、目の前の一人の悪魔の圧倒的な存在感と威圧感に思わずたじろいだ。発せられた妖気だけで鳥肌が立ったのはいつ以来だろう。しかも記憶している限り、悪魔相手に恐ろしいと感じたことは生まれて一度もない。
まるで心臓を掴まれたような途轍もない危機感を覚えた朧は、できる限り平常心を保とうと、口を動かすことにした。
「……黒神涼菜ならまだ生きてるぜ。どこに居るかは教えねぇが……。それに、黒神涼真を眠らせたのは俺じゃなく弟だ。文句ならアイツに言ってくれ」
「私があなた方に怒っている理由はそれだけではないのですが……それは一先ず置いておきましょう。連帯責任、という言葉をご存知ないようですね。まぁ、それもあまり関係ありませんか。知らないのならそれまで。今からその身に叩き込んで差し上げましょう」
バトラーが纏っていた妖気が増した。朧は引っ込みかけていた全身の鳥肌が、今度は痛いくらいに立つのを感じていた。
すると、
「バトラーさん。皆への連絡、終わったよ」
と、バトラーの背後から明日香がスマホをズボンのポケットにしまいつつ、報告した。
その直後、朧は目の前の光景を目にして、驚愕した。
尋常じゃないほどの質の妖気が一瞬にしてバトラーの体内に引っ込んだと思ったら、彼は明日香に笑顔を向けたのである。
先ほどまでの怒りは演技だったのだろうか、などと朧が思っている間に、バトラーと明日香は言葉を交わす。
「ありがとうございます、明日香さま。では、私より後方にて、槍での援護をお願いします。私は彼と近接戦を」
「……本当に勝てるの、バトラーさん。アタシ、一回アイツと戦ったけど、凄い強さだったよ。手も足も出ないくらいに……」
不安げな瞳でバトラーを見つめる明日香。バトラーはそんな彼女を安心させるかのようにフッと優しく笑いかける。
「分かっていますよ。だからこそ勝つんです。完膚なきまでに叩き潰して、ね」
白い手袋を外し、ズボンのポケットに突っ込んだバトラーは、呟くように詠唱した。
「“憤怒”」
それと同時に、バトラーの髪が血塗られたように赤く染まり、鋭く逆立った。全身から烈火の如く妖気を放ち続けるバトラーに、朧は先ほどまでの怒りが演技でなかったことを確信し、息を呑んだ。
「……本気だな、憤怒の悪魔」
「こうでもしないと鎮まらないんですよ。私の中の、煮えくり返るような激情が」
地を揺らすほどの踏み込みの直後、バトラーは目にも留まらぬ速度で朧へ向かって飛び出した。
お読みいただき、ありがとうございます。




