第155話 黒神涼介
舞のトレーニングを見送ってから、数時間後。雪と明日香は哲人と洋平に加えて、とある助っ人たちを連れて再び黒神家に訪れていた。
ソファに座り、テーブルを挟んで向かい合った黒神は雪と明日香の背後を困った顔でチラチラと見ているが、そんなのお構いなしに力強い目線を送る。
「……と、言うわけで、黒神さん。お願いします」
「アタシたちも一緒に連れてってください」
雪は明日香とともに真っ直ぐ黒神を見つめる。一方で、黒神は口をへの字に曲げつつ、大きなため息を吐いた。
「……そう来たか」
「物怪界で寛いでる場合じゃにゃかったんだにゃあ……」
若干凹んだ声色で喋ったのは、明日香と雪の間に座り、グラスに注がれていたオレンジジュースをストローで飲み干した猫の妖怪、ナギだ。
彼は涼真とは契約を結んでいる身ということもあり、声色の通り、少々落ち込んでいるようだった。
すると、隣にいた紫色の着物を着た金髪の絶世の美女——玉藻前のタマキがニヤリと笑った。
「彼女たちから事情は聞いた。私も白神邸へ彼女たちと同行することにしたよ、黒神殿。黒神涼真の仇討ちとやらに参加しようじゃないか」
彼女と涼真の関係は未だに分からないが、何かしらの繋がりがあることは百鬼夜行の一件で雪にも分かっていた。そして、彼女が相当な実力者であることも。彼女がいるのといないのとでは、戦況が大きく変わってくるだろう。
すると、タマキの隣に立っていた額から黒い二本の黒い角を生やした赤髪の男が、
「おい玉藻前、黒神涼真はまだ死んでねぇぞ。っつか死んでちゃ困る。アイツとはもういっぺん戦ってみてぇかんな」
そう言って右手で作った拳を左の掌にパシっと収めた。彼は、妖怪の中でもトップクラスに戦闘能力のある鬼族の若頭、酒呑童子だ。
喧嘩っ早い性格で、雪の母親である雪女とは会う度に喧嘩している。しかし、なんやかんやで本当は仲が良いことを雪は知っており、このままだと彼が新たな父親になってしまいそうな感じであり、雪が色んな意味で気にかけている男だ。
そして、彼の後ろには甲冑を着た鬼たちが控えており、黒神は彼らのことを一瞥した後、視線を雪たちの後ろから横へ逸らした。
「これだけのメンツを、まさかアンタが集めるとはな……雪女」
黒神の視線の先には、雪の母親である雪女がいた。腰まで伸ばした絹のように美しい白髪をポニーテールにし、水色の着物を着た女性だ。娘である雪から見ても美人であると言えるほどの美貌を携えた彼女は、一歩前に歩み出て、ソファに座っていた雪の隣に立つと、深妙な面持ちで話し始めた。
「……黒神さん。私の娘はアナタの忠告を聞かずに、本当に身の程知らずなことをしようとしているのだと思います。けれど……この子は以前、涼真くんのことを周囲の空気に流されて、疑ってしまったことがあるんです。その時のことをずっと気に病んでいて、その償いをこの子なりにしようと思っていたんです」
母の左が右肩に添えられると同時に、雪は自然と黒神から視線を下げてしまった。
母の言ったことは事実だ。百鬼夜行が始まる直前、他の妖怪たちがしていた噂を間に受けた雪は、涼真が物怪界を滅ぼそうとしているのではないかと一瞬だけ疑ってしまった。少し考えてみれば、彼がそんなことをしないことなんて分かった筈だ。けれど、周囲の妖怪たちが騒ぎ立て、焦った雪の思考は狭まり、反射的に涼真への信頼が揺らいだ。
涼真に言えば、「仕方ないよ」や「気にしない」と笑って許してくれるだろう。けれど、それでは雪の気が晴れなかった。だからこそ百鬼夜行を止めるために奔走したが、逆に敵に操られて涼真のことを襲ってしまい、また彼に迷惑をかけた。
その幾度もの借りを、雪はまだ彼に返せていない。だからこそ、雪は涼真のことを救う為にこの戦いには何としてでも参加したかった。
「ですから、どうかこの子に機会をやってくれませんか? この子にまた……涼真くんの友達だと胸を張って言えるようになるための機会を……」
雪女はそう言って、黒神に向かってペコリと頭を下げた。母の姿を見て、雪も慌てて頭を下げる。
「……そういうのを言われると、ちょっとキツいな。俺の孫の……涼真のことを想ってくれる気持ちは本当に嬉しいし、その気持ちを無碍にはしたくないから」
ポリポリと頭の後ろを掻きつつ、黒神は苦笑いを浮かべる。
しかし、すぐさま表情を凛としたものに変えると、キッパリとこう言った。
「けど、俺はそれでも雪ちゃんやみんなをあの場に連れて行くことはできない。彼らを絶対に守るという保証ができないからな」
「私も一緒に行きます」
雪女の発言に、黒神は少し驚いたように目を大きく開けた。雪は予め、話し合いで知っていたことだ。
「この子のことも、舞ちゃんや明日香ちゃん、哲人くんや洋平くんのことも、私が守ります」
「私がじゃねぇ。私たちがだろうが!」
雪女の宣言に、酒呑童子が自身の筋肉質な胸をドンっと叩きながら、やる気満々に張った声で訂正を入れてきた。
直後、チラリと雪の方を見てウインクした酒呑童子は、大きな声で続ける。
「その子にゃあ、一つ貸しがあるからな。俺もその子を守るのに、命張ってやらァ!」
「そういうことだ。良いじゃないか、黒神殿。人数が多い方が役割分担が楽になるぞ」
そこに、タマキも続けて発言した。ただし、彼女はずっと口元に薄らと笑みを浮かべているため、本気なのか悪ノリなのか雪には分からなかった。
黒神は難しい顔をして腕を組み直した後、呆れた口調で問い掛ける。
「お前ら……遠足に行くんじゃないんだぞ? 命を賭けた戦いに行くんだ。子供たちが一度手を出されてる以上、もう無関係だとは言わないが……それでも、危険過ぎるだろう」
確かに黒神の言う通り、神と戦うということがどれほど危険なのか、雪は身をもって知っている。彼らが余裕綽々の笑みを浮かべながら放つ一撃は、雪たちの皮膚を裂き、骨にまで響くのだ。たった一撃で、圧倒的な実力差と命の危機を覚えさせられた。前回は彼らに雪たちを殺す気が無かったからあれだけで済んだものの、次回も彼らが同じつもりだとは限らない。むしろ、殺す気満々だと思っておいた方が賢いだろう。
それでも、雪に折れる気はなかった。しかし、今のままでは黒神も折れる気配がない。このまま硬直状態が延々と続くのか。そう思った時、リビングの扉がガチャリと音を立てて開き、一人の男が入ってきた。見たことのある黒髪に、整った顔立ち。黒装束を纏ったその男はゆっくりとリビングを横断しながら、口を開いた。
「なら……大人や妖怪たちが子供たちに着いていけばいいじゃないか?」
男は黒神が座っているソファの横でヤンキー座りになるなり、「なぁ?」と雪ら子供たちに向かって問いかけてくる。
初対面の男への反応に雪たちが戸惑っていると、黒神がソファの縁に頬杖をつき、少し不満げな目線を男に送った。
「遅かったな……涼介」
「ただいま親父。それに、バトラーも」
「涼介」と呼ばれたその男はその場で「よっこらしょ」という掛け声とともに立ち上がると、雪や明日香の顔をジロジロと興味深そうに見つめてきた。
「君らが涼真の友達だな。えっと……雪ちゃんに明日香ちゃん。それに哲人くんと、洋平くん」
ソファに端から座っていた者順に指を差しながら名前を呼び終わると、涼介はビッと右手の親指で自身を差し、ニカッと白い歯を見せて笑った。
「初めまして。俺が涼真と涼菜の父、黒神涼介です。よろしく!」
「「「よっ、よろしくお願いします……!」」」
「……よろしくお願いします」
雪は明日香、哲人とともに、背筋をピンと伸ばした後、涼介に向かって会釈する。一方で、洋平はどこか訝しげな表情で会釈した。
「親父。さっきも言った通り、俺やバトラーや妖怪たちがこの子らに着いておけば問題ないだろ。せっかくこの子らが涼真の為に戦ってくれるって言ってんだ。それに、戦力は多いに越したことないだろ」
「…………」
黒神は両膝に肘をつくと、両手に顎を乗せ、渋い顔で低く唸り出した。が、やがてソファの背もたれにだらしなくもたれかかるとともに、疲れたような口調で言った。
「……分かったよ。じゃあ、子供たちは涼介と妖怪たちに任せる」
「「「や、やったーーー!!」」」
黒神の発言を聞き、明日香や哲人たちが舞い上がる。もちろんそれは雪も同様で——。
「やったね明日香! これでアイツらボコりに行けるわよ!」
「うん! 舞にも教えてあげなくちゃね!」
明日香は意気揚々とスマホを取り出し、素早い指使いで舞へ送る為のメッセージを書き始める。雪がそれを覗き込むようにして見ていると、黒神がナギとタマキを呼ぶ声が聞こえた。
黒神の方を見てみると、呼ばれたナギとタマキが彼のすぐ側にまでやってきていた。
「お前ら二人は子供たちとは別行動だ。いいな?」
「んぁ? そりゃいいけどだにゃ……一体何の為に……」
「ほう。黒神直々の御指示とは……いいだろう。乗った」
ナギは首を傾げながら、タマキは相変わらず妖艶な笑みを浮かべながら黒神に頷く。それを見た黒神は含みのある笑みを浮かべると、ナギとタマキの耳元でゴニョゴニョと何かを囁き始めた。
その不審な様子に、雪が眉を顰めていると、
「涼介さま」
今度はバトラーが涼介を呼ぶ声が聞こえた。声のした方を振り返ってみると、バトラーが神妙な面持ちで涼介の正面に立っていた。
「少し……お話があります」
◇◆◇◆◇
パタタタと音を立てて窓を開き庭に出ると、肌寒さがバトラーの全身を包み込んだ。今日は6月も中頃に差し掛かった雲一つない夜だというのに、だ。雪や彼女の母が何かしている訳でないのは分かっているが、思わずチラリと振り返って、氷結の術式を発動していないかと見てしまう。案の定、そんなことはやはりなかったのだが。
「今日は寒いよなぁ。トレンチコート来てて正解だった」
口元に笑みを浮かべた涼介がそう言うとともに、バトラーと同じように縁側へとやってきた。
今日の涼介は真っ黒なズボンに真っ黒なシャツ、更にその上に真っ黒のトレンチコートと、この夜に溶け込んでしまいそうなほどの一面漆黒コーデだった。しかし、いくら肌寒いとは言え、6月にトレンチコートは大袈裟なのではないか、と思ったバトラーは涼介の服装についツッコんでしまう。
「それ、昼間から来てたんですか?」
「ああ。だって今日寒かったし」
「いや……昼間は普通に暑かったですよ? 私、半袖にしようか悩んだくらいですし」
「そうなのか。まぁ、俺は人間界の海外から帰ってきたばっかだからなぁ。時差ボケと世界差ボケが混じっておかしくなってんだな、きっと」
「それいつまでボケてんですか」
色々間違っている涼介とそんなやり取りを交わしつつ、二人は縁側に並んで腰掛け、目の前に昇っていた月を見上げた。月はまん丸に近い形だったが、まだ肉眼でも完全な球体でないと分かる程度に欠けていた。あと数日もすれば完全な満月になるだろう。
リー、リー、と、どこからか虫たちが各々独奏を始める。それとほぼ同じタイミングで、バトラーが口火を切った。
「涼介さま。私が送ったメールの内容は、もう……?」
「あぁ。読んだし、もう済ませてきた。にしても本当にラッキーだったな。俺の術式がそういうのに向いてて」
「ええ、本当に……。あとは、それが本当に効くかどうかですね」
「あとは神のみぞ知るってとこかな。ま、神は俺たちだけど」
ククク、と自分で言ったことに自分で笑う涼介を黙ってやり過ごしたところで、バトラーは話題を変えることにした。
「ところで……本気で彼女たちを白神邸へ連れて行くおつもりですか?」
そう言って振り向き、視線を家の中へと向ける。涼介もそれに釣られるように振り返ると、フン、と鼻息を鳴らし、口端を吊り上げた。
「ああ。本気と書いてマジだ」
とドヤ顔で返してきた涼介に、気温が1、2度下がるかと思うくらい冷めた視線を向けるも、彼はそれを特に気にする素振りも見せず、空を見上げた。だが、その顔からは得意げな様子は一切消え去り、真面目な話をする際の彼の表情へと変わっていた。
「……お前の言いたいことは分かってるよ。俺は常識的に考えれば大馬鹿野郎だ。子供を命懸けの戦いに巻き込もうとしてるんだもんな。それも、他所の家の子たちを。けど、それじゃああの子らの気持ちはスッキリしないだろ。俺はあの子らとさっきちょっと言葉交わして顔見ただけの関係だが、ここに居るってだけで涼真のことを相当大事に思ってくれてるってことが分かったし、戦いへの意欲もあると見た。だから連れて行くことに賛成したんだ。もちろん、保護者同行は必須だけどな」
「気持ちの問題で、命を賭けた戦闘の場へ連れ出すおつもりだということですか?」
「まぁ、そういうことになるかな。あとは、ほぼ全員が戦力として申し分ない強さだってのもある。ぱっと見だけど」
涼介は、また振り返って家の中を覗くと、フフッと小さく笑いを漏らす。
「何より……中学生の少年少女が、自分の友人の為に命を張ろうって言ってんだ。しかも、その友達というのは俺の息子だぞ? 叶えてやりたいじゃないか、その願い。【黒神】として。涼真の父親として」
良いことを言ったつもりなのか、したり顔で余韻に浸っている様子の涼介に、バトラーは視線の温度をまた1度下げた。
「……アナタ、その役目を4歳の涼真さまに押し付けたクセに、よくそんなこと言えましたね」
「アレー、ソウダッタカナー」
大根役者も驚くほどの棒読みでそっぽを向き、下手な口笛をし始めた涼介。普通ならイラつくところなのだろうが、彼のことを幼い頃から知っているバトラーは、「昔から変わってないな」という印象を抱くだけに留まったのだった。
「ところで、一体人間界で何をしていらしたんです? それも10年近くも……」
数年ぶりの再会。しかしその間、涼介が人間界で何をしていたのか、バトラーは知らなかった。一度気になって黒神に涼介の目的を尋ねてみたが、なんと彼も知らないと言う。
積もり積もった疑問を投げかけてみると、涼介は「あー……」と、どこかに気まずそうな声を出し、頭の後ろをポリポリと掻いた。
「……俺は、人間界にいる神々の元へ行ってたんだ」
「神々の元へ……? 一体何の為に?」
「バトラーたちのところにも、届いたんじゃないか? コイツが」
涼介がそう言って、コートの内ポケットから取り出したのは、白い封筒だった。その封筒に見覚えがあったバトラーは、素直に頷く。
「ええ、届きましたよ。そして、神界へ会議に行ってきました。会議の内容は、『魔神テュポンの封印の弱体化』について」
「魔神テュポン……かつて世界中の神々を打ち破り、宇宙すらをも砕こうとした、災厄と呼ばれる神……」
「その名は昔から知っていましたよ。ですが、私がサタナエル……天使として誕生した頃には、もう既に宇宙の果てにある牢獄、タルタロスに封印されたと聞いていたのですが……」
「タルタロス自身もまた神だからな。神であろうとも、この世に誕生したからには必ず死が訪れる。タルタロスの寿命が近づいて封印の効力が弱まっているんだ」
そこまで言うと、涼介は含みのある笑みを浮かべた。
「ここまで言えば分かるだろう? 俺の目的」
「……タルタロスの力が弱っていることをどういう訳かいち早く悟った貴方さまは、タルタロスに代わる新たな神を探していた……といったところでしょうか」
「そういうことだ。俺がタルタロスの弱体化を知ってたのは、そのことをある人に教えて貰ったからで、タルタロスの代わりの神を探してたのは、ソイツに依頼を受けたからだ。それが、涼真が裏世界に来てすぐのことだった。親父はもう弱ってたし、まだ小さい涼真にこんな重大な依頼を任せる訳にはいかないから、俺が引き受けることにしたんだ。まぁ、10年近くの旅の成果は、全くと言っていいほど無いがな」
涼介は「やれやれ」とでも言いたげに眉尻を下げ、かぶりを振った。だが、バトラーは涼介の言葉に大して驚くことはなかった。むしろ、結果を聞く前から大体予想は付いていたのだ。組んだ脚の上に肘をつき、小さく鼻息を吐く。
「……でしょうね。タルタロスは、この世に神という存在が誕生した時から存在する、原初の神。数万年もの間、力を発揮し続ける神に代えられる者など、そう存在しないでしょうから」
大勢の神々が住む世界、神界でもタルタロスに匹敵するような神が存在するという話は耳にしたことがない。
そのうえ、涼介が10年の月日を費やしても見つからないということは、人間界にもタルタロスと同等の力を持った神がいる可能性は限りなく低いだろう。
残るは天界、魔界、物怪界。そして、今バトラーたちがいる裏世界だが、そんな者がいるのなら、とっくにその存在が知れ渡っていそうなものである。
神界で執り行った会議でも、「タルタロスに妖気を供給し力を分け与える」や、「タルタロスの上に結界術を張る」などの、気休め程度にしかならない案しか出なかった。他の神に詳しい筈の神界に居る神々ですら、新たなタルタロスとなり得る存在は知らないという証拠だ。
——このままでは地球どころか、宇宙全体が混沌と化してしまう……。
タルタロスの封印が破れて、テュポンが復活すると予測されているのが8月頃。残された時間は2ヶ月程度しかない。その間にタルタロスに代わる神が見つかる、または生まれる可能性は、砂漠の中から特定の砂粒を一粒見つけることよりも難しく、低い可能性だろう。
どうしたものかと、バトラーが頭を抱えていると、
「もう一つ案はあったんだが……ソイツはどうやら間に合いそうになくてな。だから、俺は決めた」
と言って、涼介が立ち上がり、笑顔でバトラーの方を振り向いた。
「俺が、タルタロスに代わる封印になってやる」
お読みいただき、ありがとうございます。




