第134話 神と強欲の終曲 -前編-
変貌を遂げたマモンを前に、涼真たちは固まっていた。目の前の異形の生物から感じる不快な妖気を浴びたせいか、これ以上妖気の源に近寄りたくない、という思いが無意識のうちに涼真たちの内側に根を張っていた。
が、それ以上に感じたのは、あの怪物を放っておけば、いずれ皆が死ぬという予感。
「アザトース、あの状態の奴に弱点は無いのか?」
少し気まずさはあったが、涼真は物知りの魔神に素直に質問をしてみた。彼女とて、今舞が死ぬのは困るだろうと考えての行動だ。
涼真の読みが正しければ、アザトースは涼真の問いに答える筈だ。
少しの沈黙の後、涼真の頭の中で女の声がした。“念話”だ。
(強いて言うならば、奴の身体は肉体を放棄し、妖気で再構築されたということだろうな。物理攻撃は無効になったが、肉体に作用していたモノの効果も消え失せているハズだ)
「……リグレスの薬の効果が消えてるってことか!!」
(恐らくな。だが全身を象ったうえでもなお、凄まじい勢いで体外へ放てるほどの妖気量。術式の効果は落ちたが、単純な威力で言えば以前の奴のものとは桁違いだぞ)
「構わないさ。奴に術式さえ奪われなけりゃ、なんでも」
涼真はグッグッ、と伸脚運動や腕の内旋、外旋運動を繰り返して身体の調子を確かめる。痛みは無い。
「舞、いけそう?」
隣で涼真と同じく軽い体操をし、身体の調子を確認していた舞へ尋ねる。
舞は側屈運動を終えると、力強い笑みを浮かべ、コクリと頷いた。
「うん、大丈夫。戦えるよ」
「よし……行くぞ!」
涼真の掛け声と同時に、涼真と舞はマモンへ向かって駆け出した。涼真は拳を作った両手に自身の黒い妖気を、舞は右手に彼女の背丈ほどある大きな鎌を武器に。
◇◆◇◆◇
忌々しい神と悪魔が再びこちらへ向かってくる。マモンはギリリと歯を怒りとともに噛み締めた。
あの方の目的を達成する為にも、
「オマエラハ……ココデ、殺ス……!!」
マモンは左右非対称の翼を大きく羽ばたかせると、縦に5メートルほど飛び上がった。周囲の木を見下ろせるほどの位置に到達すると、両手を広げ、黒と灰色が混じり、濁った色味の妖気の礫を翼から放つ。
礫は直径5ミリにも満たないほどの小ささ。しかし、その速度と強度は凄まじく、直撃した地面を砂利ごと大きく抉っていく。
横並びで走っていた涼真と舞は互いに見合い、頷くと、舞は背中に黒い翼を展開し、涼真の後ろへ回り込んだ。
涼真はその直後に立ち止まり、両手を体の前でクロスさせる構えを取った。
「“斬黒”」
交差させていた腕を振り払い、十字の黒い妖気を放つ。
しかし、それは2人に向かって弾丸の雨の如く降り注ぐ妖気の礫にではなく、地面へと叩き付けるように放った。
低い地鳴りのような音の爆発と同時に、土が大きく隆起し、ほんの数秒ではあるが、涼真と舞を守る壁となった。
土壁が礫で一掃され、辺りには土煙が立ち込める。
「小賢シイ真似ヲ、スルナァァ!!」
その煙を掻き消すように、マモンは両翼を素早く羽ばたかせ、視界を再び鮮やかな色で染めた。
しかし、そこには涼真の姿も、舞の影も形もない。
マモンが妖気感知で辺りを探ろうとした瞬間、
「ソコカ」
背後に誰かの気配を感じた。
マモンが振り向くと、両手で大鎌を振りかぶった舞が、まさにマモンの首をぶった斬ろうと言わんばかりに鎌を振り抜こうとしていたところだった。
「“鎌獄”っ!!」
血塗られたような赤い妖気を纏った鎌の刃先がマモンの首に差し掛かる。
しかし、マモンにとっては予想の範囲内だった。鎌をすんでのところで刃先を2本の指で受け止め、最も使い慣れた術式を発動する。
「“強欲”」
ズゥッ、と鎌に付与されていた妖気がマモンの体へ吸い込まれていく。同時に、新たな術式を得たという快感が、怪物と化したマモンの全身へ広がった。
「コレゾ……俺ノ本来ノ術式……!! 最モ非力デ、最モ万能ナ術式ナノダァァ!!」
マモンは青黒く燃え盛る妖気の腕を伸ばし、舞の首元をガシッと掴んだ。舞は可愛らしい顔を苦痛に歪ませ、細長い足をバタつかせてもがく。
「あぐっ……! くぅ……!!」
「クハハハ!! イイ!! イイゾソノ顔!! モット苦痛ニ歪ムソノ顔ヲ、俺ニ見セロ!!」
とは言ったものの、もう既にマモンの中に感情と呼ばれるものは存在しない。今の笑いは、以前のマモンとしての生命体の記憶に残っていた反応をそれらしく示しただけである。
今のマモンの中にあるのは、あの方への忠誠心と、あの方の命令を遂行しようという意思だけだ。
ギリギリ、と舞の首を掴む握力を強めようと、手に力を入れた時、
「悪いけど、お前の楽しみはここで打ち止めだ」
背後から、少年の声がした。
振り向かなくても分かる。アイツだと。
全身の妖気を背中だった箇所へ集め、防御力を上げる。が、それでもあまり意味がない行為だろう。
「“穿黒”」
天地を震わせるほどの衝撃を受けるとともに、マモンの腹部に風穴が空いた。その穴には黒いスパーク状の妖気を纏った腕が貫通しており、拳の先にはマモンの青黒い妖気の残骸が付着していた。
「……ヤルジャアナイカ、黒神涼真」
マモンの下半身を象っていた妖気は腹部から燃えるように消え失せ、マモンはゆっくりと地面へ落下していった。
◇◆◇◆◇
地面へ落ちていくマモンを見届けた涼真は、宙でフラリと力なく倒れそうになっていた舞に近付き、慌てて抱き止めた。
「ありがとう……涼真」
「いいよこれくらい。それより、大丈夫か?」
「大丈夫大丈夫、ちょっと苦しかっただけだから。それより、ごめん。攻撃が決まったと思って油断しちゃった」
「それに関しては、すぐに助けにいけなかった僕も悪いからおあいこな」
涼真と舞はゆっくりと着地すると、地面でうつ伏せで倒れ込んでいるマモンを睨み付けた。
「……まだ死んでないな。そりゃそうか。だって奴の身体は」
「妖気、ダカラナァ!!」
濁った声が聞こえた直後、翼をバサリと羽ばたかせ、高速で宙へと飛び上がったマモンは両手を広げた。
「っ!? くそ!!」
神社の周囲には、いつの間にかマモンを中心に透明なドーム状の結界が張られていた。涼真は念の為に妖術の発動を試みたが、やはり体外へ放つことはできなかった。
「“傲慢”……!! 他人の術式を自分のものみたいにポンポンと……」
「どうする、涼真? 術式が発動できなきゃ、マモンを倒すことなんて……!」
ジャリっと舞が地面を踏み締め、鎌を両手で振り構えた時だった。
「“怠惰”」
低い詠唱とともに、涼真の身体がガクン、と崩れ落ちた。隣で、同様に舞も苦しそうに地面で腕と膝をついて四つん這いのような状態になっている。
「なっ……何、これ……!?」
「クソっ、ここでコレか……!!」
何とか立ち上がろうと足と腕に力を入れようとするが、上手く力が入らず、生まれたての子鹿の足のようにガクガクと震えてしまう。
マモンは2メートルないほどの高さまで降りてくると、ズォッ、と凄まじい速度で下半身を妖気で再生させる。新たに生まれた足は、丁度地面についていた。
「ギヒッ」
マモンは濁った黒色の顔で笑みのようなものを浮かべると、涼真と舞の頭をむんずと鷲掴みにし、高々と持ち上げた。
涼真は抵抗しようとしたが、全身が上手く動かないせいで、マモンの拘束から逃れることができない。舞も同じようで、体を左右へブルブルと小さく振り、抵抗の意思を見せていたが、勿論別人のように逞しくなったマモンの手からは逃れられない。
「オマエラノ術式、全テ奪ワセテモラウ!! “強欲”!!」
マモンが術式を詠唱すると同時に、“怠惰”の時とは別の脱力感が涼真と舞の身体を襲う。
涼真は感じていた。編み出した術式と、“夢現”によって習得した術式が1つ、また1つと自分の中から消えていく奇妙な衝撃を。痛みはなく、何かが自分の身体から消え、ひたすらに虚無感を植え付けていく。
ーー耐えろ、耐えろ耐えろ耐えろ。
ーーここを、耐え切れば……。
涼真は全身に妖気を張り巡らせて身体を強化しているとはいえ、精神の強化はできていない。
「ぅあ゛っっ……!! が、ぁ……」
小刻みに激しく震えた後に、涼真は白目を剥き、意識を手放した。
「りょ……涼真……! ぅぐっ……」
それを見て、舞が悲痛な声を漏らすが、すぐに涼真と同様に激しく痙攣した後、ゆっくりと瞼を閉じ、動かなくなった。
「キャキャッハァ!! 黒神涼真ノ術式ハ残リ少シ……! コレデ、俺ニハムカエル奴ハ、誰モイナクナル……!! 思イ知ッタカ、黒神涼真!! 俺様ノ、勝チダァ!!」
マモンは心底嬉しそうに自身の勝利を高らかに宣言する。実際、“傲慢”をと“怠惰”を奪った時点でほぼ彼の勝利は確定していたと言って良いだろう。
何者かがマモンに近付き攻撃しようものなら、すぐさま“怠惰”を発動させる。また、発動者から200メートル圏内を覆う“傲慢”の効果で、妖術による不意打ちは通用しない。
このコンボが通用する限り、マモンは実質、無敵と言っても過言ではないのだ。
そう、通用する限りは。
◇◆◇◆◇
カランっ……カラカラ……。
背後に何かの気配を感じ、咄嗟に翼で風を起こし、迎撃した。
金属音とともにマモンの足元に転がってきたのは、1本の槍だった。
よく見ると見覚えのある槍であり、持ち主の顔もハッキリと覚えている。それがマモンに向かって放たれていたということは、近くに槍の持ち主がいるということだ。
「……ハァ。マダイタノカ。黒神涼真ニ与スル者……アスモデウス」
ガサガサと近くの茂みから姿を現したのは、マモンの予想した通りの人物、井出明日香だった。
彼女の猫を連想させる可愛らしい顔は激しく歪み、拳は腰に密着し、ワナワナと震えていた。
「……哲人から聞いた。雪は、ベルゼブブに殺されたって。でも、剛琉はそんなことする奴じゃない」
「……何ガ言イタイ?」
「アンタが剛琉を“洗脳”したんでしょ……? そんで、魔王の城跡に火を放って、証拠を何もかも隠滅した……アンタらの妖気の残穢も……違う?」
「……正解ダ……ッテ、言ッタラ?」
明日香はキッと眉を吊り上げると、裏声混じりの声で叫ぶ。
「アンタのせいでっ!! アタシの親友が死んだんだ!! アンタが責任取れよ!! アンタが責任持って雪を生き返らせろ!! 奪った術式!! 奪った命!! 全部!! 全部全部返せ!! できないなら、ここで……アタシの槍に貫かれて、死ね!!!」
顔を左右に振り、涙をボロボロと零しながら絶叫した明日香は左手をマモンに向けた。
直後、ふわりと槍が浮いたのを見て、マモンは足元の槍を思い切り踏み付け、地面で固定した。
「んなっ……!?」
「残念ダッタナ。オマエ如キガ俺ニ一泡吹カセヨウトシテモ無駄ナンダヨ」
グシャ、グシャ、と槍を踏み付け、遂には柄の部分をバキリと折った。
ギロリと青黒く光る目を槍から明日香へ向けると、舞を放り捨て、空いた左手を明日香に向かって伸ばした。
「“怠惰”」
「っ!? うぐっ……!」
気の強い彼女でも、やはり“怠惰”の力には抗えないようだ。
当然のことであるが、やはり気持ちの問題でどうにかなることは少ないのだな、とマモンは改めて思い知るとともに、目の前で必死に這いつくばっている少女を哀れんだ。
「……弱者ガ出シャバルカラダ。待ッテイロ。スグ楽ニシテ……」
楽にしてやる。そう明日香に声を掛けようとした時だった。
バチュン! と何かが弾け飛ぶような乾いた音とともに、マモンの中の術式の1つがマモンの意思に逆らい、機能を停止した。
「ナッ……“傲慢”ガ、発動ヲ停止シタ……!? 馬鹿ナ、俺ノ意思ジャナイゾ!! ナラ……破ラレタ、トイウコトカ……!?」
自身に言い聞かせるように口に出して思考を纏めようとするも、予想することを全て記憶が否定する。
最強の悪魔、ルシファーの固有術式を黒神涼真以外の者が破れるなど、マモンの事前の計画には入っていなかった。
計画の残りは、このまま黒神涼真の固有術式を全て奪い尽くし、殺すだけだというのにーー。
「誰ダ!!? 俺ノ計画ニ邪魔ヲシタ奴ハ!!? 今スグニデモ俺ガ殺シテヤルカラ、大人シク出テコ」
ズババババババババババババッッ!!!
「エッ」
突如、凄まじい勢いで金属が振り抜かれた音が数度した。
それも、マモンのすぐ側で。
人の気配がする。
それも、大勢じゃない。たった1人の、亜人の気配。
背後から感じたその異様な気配に、マモンは思わず首を後ろへと回した。
「悪いな」
低く、気怠げな男の声。
それが聞こえたのと同時に、マモンの右手の力が抜けた。
背後には誰もいない。
気配は後ろからしたハズなのに、何故また後ろから声が聞こえる?
マモンが再び振り返ると、右手首から先が消えて無くなっていた。
それを認識した瞬間、マモンの全身に白い太刀筋が刻み込まれ、粉々に崩れ落ちた。
今や妖気で全身を形成しているマモンにとって、かすり傷にすらならない攻撃。しかし、それをマモンが意識していない間に行ってみせた敵の技量に、マモンは感じるハズのない恐怖を覚えた気がした。
崩れ落ち、小さな妖気の欠片となったマモンは目としての役割を担っていた妖気を、最後に声がした方へ向けた。
そこには、3人の少年少女をそっと寝かせていた1人の男の姿があった。髪は寝癖をそのままにしたかのようにボサボサで、顎には無精髭を生やしている。
「この子らは、俺の生徒なんだ」
振り向きざまにその男が発したその言葉は、とても重く、何か大きなものを背負っているかのように聞こえた。
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