第116話 全てを喰らい尽くす者
登校中、哲人の鼻が異様な臭いを嗅ぎ取り、ピクリと動いた。煙に近い臭いだ。
「……土煙か?」
哲人は五感が常人よりも良く効く。妖気感知の必要がないほどだ。
臭いの元は、今現在まで自身が向かおうと思っていた場所である、学校からだった。駆け足で学校へ向かっていると、道路の真ん中でペタリと座り込んでいる褐色の少年がいた。髪はボサボサで、彼の周りにはお菓子の空袋が複数の山に分かれて積み上がっていた。
「おいお前……何やってるんだ? こんな所でお菓子食べてちゃダメだろ? 車が来たらどうする」
「あむ……うむ……ガブ……」
少年はスナック菓子の袋に手を突っ込むと、むんずとチップスを鷲掴みにし、自身の大きな口へと放り込む。その一連の行動を、ひたすら続けていた。
「おーい、聞こえてんのか? こんな所にお菓子の袋を捨てちゃダメだし、第一、お前小学生だろ? 学校はどうしたんだよ?」
「ガブッ……ムシャ……んむんむ……」
哲人が背後から声をかけ続けるも、少年は何も聞こえていないのか、裏桜中学校の方角をじっと見つめながらお菓子を頬張り続けている。哲人は困り果て、ため息を吐いた。
学校の方からした異様な臭いは気になる。しかし、こんな道端に小学生くらいの男の子を1人、放ってはおけない。頭の中で葛藤した末に、哲人は男の子の方を選んだ。
「ほら、こんな所で座り込んでちゃ危ないから、取り敢えず公園とかに移動しようぜ? な? それまでお菓子食べるのダメだ!」
「あっ……」
哲人は少し口調を厳しくし、パッと少年からスナック菓子の袋を取り上げた。そして、少年の周りに落ちているお菓子の袋も仕方なく拾い始める。
お菓子の袋はぱっと見でも20はあった。しかも、その全てがビスケットやチョコレートなど、一袋に多量のお菓子が入っている業務用のお菓子の袋だった。見ているだけでも胸焼けしそうで、哲人は空の袋をつまみ上げ、思わず顔を顰める。
「ったく、なんで朝からこんなエゲツない量を食えるかね……」
「……さない」
「ん?」
食べていたお菓子の袋を奪われて、固まってしまっていた少年がポツリと呟いた。
「ゆ・る・さ・な・い……!!」
少年はギ、ギ、ギ、と壊れたロボットのように哲人の方をゆっくりと振り向いた。その顔はまるで般若。哲人は豹変した少年を見て、思わず後退る。
「え? お、俺、何か悪いことしたか?」
「よくも僕チンから食べ物を奪ったなぁ……許さない……許さない許さない許さないいいいい」
ボタボタと少年の口から涎が垂れ落ちる。猫背で両手をだらんと垂らしながら歩いてくる少年は、まるで獲物を目の前にした肉食動物のようだった。
「食べ物を奪ったってことは、お前を喰って良いってことだよねぇ……そうだよねええええええ!?」
「は!? 俺を!? 喰うぅ!? ワケ分からんのだが!? 俺何も悪いことしてないじゃん!!」
「僕チンから食べ物を奪う……それが大罪なんだよ。君は何の罪なのかなぁ。暴食? 違うよねぇ。だって暴食は……僕チンだもんねぇぇ」
褐色の少年ーーベルゼブブは口をあんぐりと開ける。彼の口の中は、虚空。歯も舌も何もなく、ただただ黒い空間がそこにあった。
「“暴食”」
ベルゼブブは口を上下させることなく言い、自身の固有術式を発動させた。大量の妖気の流れを感じた哲人は、咄嗟にベルゼブブから離れる。
瞬間、辺りのものが全てベルゼブブに向かって吸い込まれ始めた。葉っぱや石、ゴミ、哲人が抱えていたお菓子の袋。初めはその程度だったが、少しずつ吸引力は強くなり、遂には電柱や木を根っこごと吸い込み出した。
「くっそ……なんだよ、これぇ!?」
哲人は近くの家の塀にしがみついて、なんとか難を逃れていた。しかし、先ほどからミシミシと嫌な音が耳の側で鳴り始めている。その音の正体は、少しずつヒビが入り出した哲人が持たれている塀。そのヒビが縦にゆっくりと進行していっているのだ。もうじき、この塀は崩れてしまうだろう。そうなれば、哲人もベルゼブブの口に呑み込まれて終わりだ。
「ヤベェ……どうする……どうする!?」
哲人が額に脂汗を滲ませ、この状況から逃れる案を捻り出そうとした時、ミシミシミシっと嫌な音が響いた。
ハッとし音のした方を見ると、塀のヒビが道路にまで到達していた。
マズイ、と思った時にはもう遅い。哲人がもたれかかっていた塀は一気に崩れ、その瓦礫と共に、哲人はベルゼブブの口へ吸い込まれていく。
「……っ!! こっ……のぉっ!!」
ベルゼブブの口に吸い込まれる寸前、哲人は妖気を付与した拳でアスファルトの地面を力一杯殴った。哲人は拳が地面にめり込んだのを確認すると、付与していた妖気を爆発させ、土属性の妖術を発動させる。
妖術の発動は見事に成功し、哲人とベルゼブブの間に、大きく変形させたアスファルトで壁を作った。
それと同時に、
「グァウッ!!」
バクン、とベルゼブブがずっと開いていた口を勢いよく閉じた。哲人はアスファルトの壁に強打するも、ベルゼブブに呑み込まれることはなんとか避けられた。
「へぇ……アレを避けられるんだ。お前……もしかして強い? 今のお前から感じる妖気量は低級悪魔程度だけど……もしかして、力を隠してるのかなぁ……」
「さーあ、どーでしょーね!」
哲人はある程度ベルゼブブと距離をおくと、右手と右足を前に出し、半身に構えた。所謂リードと呼ばれる構え方だ。
「確かさっきアイツ……自分のことを『暴食』って言ってたよな……それに加えてこの体が痺れる程の妖気量……間違いねぇ、お前、涼真たちが言ってた七つの大罪だな?」
「お前……黒神涼真の仲間なの? なら……お前は尚更喰わないといけないね」
「あん? どういうことだ」
「僕チンがここにいたのは、見張っていたからだよ……リグレスに歯向かう輩が、この道を通らないかってね」
リグレス、という言葉に哲人は聞き覚えがあった。涼真の追っている、つまり、哲人の父と母を殺した可能性が限りなく高い組織だ。
「そして、見かけた場合……手段を問わず、その者の意識、もしくは命を断てって命令が出てる……だから、お前はここで僕チンに喰われるんだよ」
「……お前、リグレスの一員か?」
「僕チン? 昨日までは違ったんだけどね。ほら、ここ見てよ」
ベルゼブブはクルリと哲人に背を向けると、ボサボサの髪の毛をかきあげ、自身のうなじを見せてきた。哲人が目を凝らして見ると、彼のうなじには小さな穴がポツン、と空いていた。その穴に、哲人は既視感を覚えた。
「お前……その穴は……!」
「これは注射の跡だよ。昨日打ってもらったんだ。これのおかげで、僕チンはリグレスという素晴らしい組織と出会えることができた。今まではルシファーが敵視してたから僕チンも同じようにしてたんだけど、今思えば、なんでそんなことしてたんだろうって思うよ」
“洗脳”だ。ベルゼブブは恐らく、以前の哲人や、あの時の父親と同じように“洗脳”の薬を打たれたのだ。哲人と同じように術式の強化や妖気増量の効果があるかは分からないが、いきなりリグレスに心酔するのはどう考えてもおかしい。
「……お前がリグレスの連中に受けた命令は、この道を通りかかった涼真の仲間を排除するってことだけか?」
「いいや。僕チンはあくまで意識を断てって言われてるだけだよ」
「え? 殺せって言われてねぇの?」
「うん。僕チンがお前を喰いたいのは、僕のお菓子を奪ったからだよ」
「私怨かよ!!」
哲人は思わずツッコミを入れる。ベルゼブブの個人的な、しかもお菓子を取り上げられたから、というくだらない理由で殺されるなど、堪ったものではない。
「これで話は終わり。さっきからお腹が疼いて仕方ないから、そろそろ僕チンのご飯の時間にさせてよ」
ベルゼブブは口早に言うと、口をガバッと開いた。
「“焦喰み”!!」
彼のサメのような鋭い牙に炎が宿る。獣のような鋭い牙、燃え盛る炎。あの日の出来事が、哲人の脳裏をよぎる。
「……ガキだからって、手ぇ抜くワケにはいかなそうだな」
哲人はそう呟くと同時に背負っていたリュックを道端へと放り投げた。すると、ベルゼブブが哲人に向かって走り出してきた。しかし、いくら術式が強いと言えども、体格は見た目通り、小学生同然。ベルゼブブの動きをよく見て、哲人はバックステップで攻撃を躱す。バクンッと閉じられたベルゼブブの口元から、火花が飛び散った。
「あれぇ? 喰ったと思ったんだけどなぁ」
「悪りぃな。こちとら五感が他の人よりもちぃーっとだけ働くもんで、余裕で躱せたぜ」
哲人は着地し、さらに数歩後ろは退がると、ふぅっと息を吐いた。両手を地面につき、四つん這いになる。ナギと同じく、獣の力を宿した妖怪が本気を出す前に行うルーティンだ。
「こっからは俺も全力だぜ」
ギュルン、と黒鉄色の妖気が哲人の体を覆う。妖気の渦が弾けた時、哲人は狼男の姿に“変身”していた。
それを見て、ベルゼブブは無邪気にはしゃぎ出し、手をパチパチと叩いた。
「おぉー、すごいすごい! 妖気量がちょー増えた! やっぱり力を隠してたんだね。それじゃあさぁ……」
ベルゼブブは両手を左右に突き出す。すると、両腕とも肘から先がグニャグニャと変形し、手がハエトリグサのような形になった。遠目ではあるが、グパァと広げられたハエトリグサの口の中も真っ黒な虚空のように見えた。
「早く僕チンに喰われなよ」
ふっと感情を消したベルゼブブが低い声を発すると同時に、彼の食虫植物のようになった両腕がグン、と哲人に向かって伸びた。ベルゼブブの先ほど見せた口での攻撃は、その迫力から背筋に寒気が走ったのだと思っていたが、この2本の腕が伸びてきたことで分かった。
哲人を襲った寒気の原因は、あの真っ黒な口の中なのだと。ベルゼブブ以外の者の2本の腕の処理をするのならば容易いだろう。しかし、あの鋭い歯先に当たっただけで、真っ黒な虚空へ吸い込まれて無と化してしまうと、生存本能が激しく警鐘を鳴らしている。
せっかく変身したが、仕方ない。哲人は逃げの一手を選んだ。道路を二本足で走って逃げるが、ベルゼブブの両腕は延々と伸びてどこまでも哲人を追ってくる。
「クソっ……あの腕、どこまで伸びんだよ!? もう200メートルは走ったぞ!?」
後ろを振り向きながら走っていた哲人がふっと正面に顔を戻すと、小学生くらいの小さな少女が曲がり角から哲人の正面に飛び出してきた。
「げっ……」
ドンっという音と共に、哲人と少女は勢いよく衝突し、少女だけが尻もちをついた。
「うっ、ふっ……ふぇぇぇぇぇん……!」
哲人は慌ててしゃがみ込み、尻もちをついた状態で泣き出してしまった少女を宥めようと試みる。
「ああぁ、ご、ごめんな! 大丈夫か!?」
「うっ、ううぇぇぇぇぇん……!」
しかし、少女の涙は滝のように流れ出し続ける。ぶつかって驚いたのか、それとも痛かったのか。はたまた、狼男の姿の哲人が恐いのか。その答えは彼女にしか分からないが、恐らく全てが正解と呼べるだろう。
哲人が焦っていると、シュルッ、という音が聞こえた。哲人が後ろを振り返ると、すぐそこにベルゼブブの両腕が近づいていた。
「ヤベェ……!!」
哲人は少女を抱えて逃げようとした。しかし、少女は暴れて哲人に抱っこをする隙を与えない。
「うわぁぁぁぁぁん!」
「ホントにごめん! マジごめん! ちょっとだけ……ほんのちょっとでいいから大人しくしてくれ! 俺の問題に巻き込んじまったお前だけは守りたいんだ! だから!」
哲人が必死に訴えるも、少女は哲人の腕の中で暴れ続ける。すると、哲人の背後まで迫っていたベルゼブブの手先が、トドメと言わんばかりにグパァッと口を開けた。
ここまでかーー。
哲人がベルゼブブの腕から逃げることを諦め、少女を道端に降ろした時だった。
「ちょっと、何女の子泣かしてるのよ哲人」
透き通るような声と共に、ヒンヤリとした冷気が哲人の肌を撫でた。哲人が再び背後を振り向くと、ベルゼブブの両腕が地面から飛び出た氷壁に埋まっていた。
「こ、これは……」
「もう、朝から何やってんの」
哲人は氷の反対側を向く。するとそこには眉を吊り上げた自身の想い人ーー氷浦雪がいた。雪はしゃがみ込むと、少女の頭をポンポンと撫でた。
「私の友達がごめんね。でも悪気は無いと思うの。許してくれるかな?」
雪が優しく声をかけると少女はヒック、ヒックと嗚咽を漏らしながらも、小さく頷いた。雪はそれを見て、ニコリと笑った。
「ありがとうね。どこも怪我してないみたいだし……歩ける?」
「……うん」
少女が再び小さく頷くと、雪は少女の手を取り、彼女をゆっくりと起き上がらせた。
「ここは危ないから、急いで離れた方がいいよ。気を付けてね」
「あ、ありがとう、おねぇちゃん」
少女は雪に向かって手を振ると、駆け足でその場を去っていった。雪は少女を手を振りながら見送った後、ギロリと哲人を睨んだ。
「で? 朝から女の子を泣かすって、どういうこと? 哲人」
「いや、その……こ、コレのせいだよ、コレの……」
哲人は尻もちをついた状態で、氷漬けになっているベルゼブブの腕を指さした。雪は怪訝な目で自身が凍らせた食虫植物のような物体を見つめる。
「凍らせといてなんだけど……コレ、何?」
「七つの大罪の奴の攻撃だ。名前はなんて言ったっけな。確か、べ、べ、ベルゼ……」
「ベルゼブブ、だよ」
低い少年の声が聞こえた瞬間、バキン、と氷壁が崩れた。哲人と雪はすぐさま臨戦態勢に入る。氷がガラガラと崩れ落ちると、両腕をグネグネと動かす褐色の少年の姿が露わになった。
「なんか手先が冷たいなーって思ったら、もう1人増えてたんだね。まさか僕チンの“食手”の動きを止めるなんて……もしかして、お前も黒神涼真の仲間なの?」
「ええ、そうよ。仲間と言うより友達だけど」
「……友達、ね。気に入らないな、その響き」
ベルゼブブはグニャグニャとうねらせていた手先の口を、グバァッと開けた。
「そんな薄っぺらい関係も何もかも、僕チンが喰い尽くしてやるよ。僕チンは七つの大罪、暴食のベルゼブブ。満たされるまで、全てを喰らい尽くすのさ」
軋むような声を発したベルゼブブは、怒りと悲しみが混じったような表情を浮かべた。
お読みいただき、ありがとうございます。




