第112話 雨、そして水煙
腕組みをしたリマスは呆れ顔になり、ふぅ、とため息を吐いた。
「こっ酷くやられたみたいだねぇ、サープ、ラグル。それに木の葉天狗」
「……油断していた僕らが悪いから、別に何も言わないけどネ」
「……ラグル殿の言う通りだ。私は今回、目立った功績を残すことができなかった……」
「クヒヒッ、まぁな。だが、良い戦いができたから、俺様はこの結果にも満足だ」
1人は不機嫌そうに。1人は悔しそうに。そして、もう1人は満足げに銀髪の女に返した。
そんな彼らを見回した後、リマスは目を伏せ、静かに笑みをこぼした。
「取り敢えず、頑張ったお前たちに拍手を送ろうかい。囮、ご苦労様」
「お、囮……だと!?」
呆然と立ち尽くしたままのメタトロンが、ハッとし、リマスに訊き返した。リマスはそれに小さく頷く。
「ああ、そうさ。お前やサンダルフォンは気付かなかったんだろうが、お前たちが戦っている間に、私と部下2人が牢獄の中へ侵入していた。サンダルフォン以外の天使は雑魚しかいないのかい? 戦闘が不得手な私でも全員排除できたよ」
「ぜ、全員……!? そ、そんな筈ない! ま、まだ中には、オレッち以外にも数十人の天使が残っていた筈だ!」
サンダルフォンが左腕を勢いよく横に振り、リマスの言ったことを否定する。しかし、そんな彼を嘲笑うかのような笑みを作った後、リマスは口を開いた。
「いや、文字通り1人残らず殺したさ」
リマスはそれから「天使の教育はなってないんじゃないのかい」、と呆れたような口調で付け加えた。しかし、メタトロンの耳に彼女の言葉は入ってこなかった。
自身がヤハウェから託された役目、リグレスの調査。まだ黒神涼真にも彼らについての纏まった情報を伝えることはできていない。それなのに、しくじった。油断した。情報を過信し過ぎてしまった。
リグレスの仮面を着けた下っ端の話を盗み聞きし、理由は分からないが彼らが天界の牢獄を襲撃しに来ることは知っていた。そして、リマスが戦闘が不得手だということも知っていた。故に、彼女は今回の作戦には参加しないものだとばかり思っていたのだ。
どうする。どうするどうする。
リマスは彼女以外にも中に部下が2人入ったと言っていた。彼女の近くにその部下たちがいないということは、今その部下たちはセラフィエルやマモンたちを脱獄させている途中なのではないか。
熾天使として、これ以上の失態は許されない。その思いから、メタトロンは残り少ない体内妖気を絞り出し全身に纏うと、牢獄の入り口へ向けて走り出した。
「サンダルフォン、走れぇ!! オイラがその女の動きを封じておく!! だからお前はその間に、マモンたちの脱獄を止めろーーー!!」
「わ、分かった、兄ちゃん!!」
メタトロンとサンダルフォンはそれぞれ掴んでいたサープとラグルを手放すと、牢獄内へ向けて駆け出す。先ほどの戦闘で妖気はほとんど使い果たした。だが、最後の力を振り絞り、地を蹴る。マモンやアスモデウス、セラフィエルを牢獄から出すわけにはいかない。奴らを解き放てば、リグレスはさらに勢いを増してしまう。それは、それだけは避けねばならない。
亜空間からカトラス・アルターを取り出し、右手でしっかりと握った。刃先に銀色の炎を付与させ、大きく振りかぶる。
「“銀炎の剣”!!」
間合いにアッサリと入り込んだメタトロンはリマスに向かって、銀色に燃えるサーベルを勢いよく突き出す。
しかし、その攻撃がリマスに直撃することはなかった。
「させませんよ、メタトロン。彼女は私の恩人なのですから」
聞き覚えのある、いや、何度も聞いた上品な低い男性の声。メタトロンは声の方を恐る恐る見上げる。艶のある黒髪を整えて、眼鏡をかけた長身の男は薄らと笑みを浮かべながら、自身の剣の刀身を5本の細長い指で掴んでいた。
「……セラフィ……!!」
「はい、セラフィエルです。お久しぶりですね、メタトロン」
ニコリと笑った長身の男ーーセラフィエルは、パッと剣から右手を放すと、そのまま手を引っ込めることなく、人さし指でメタトロンのことを指さした。
「そして、さようなら」
表情を変えずに口だけ動かすと、人さし指の先から白く輝く光線を放った。その光線は真っ直ぐに進み、メタトロンの左胸を貫いた。穴の空いたメタトロンの左胸からは、鮮血が噴き出した。
「が、あ、あぁ……」
メタトロンは剣を手放し、ドサリ、と背中から地面に倒れた。同時に、彼の愛剣もカラランっと乾いた音を立てながら地面で一度バウンドし、メタトロンの頭の横まで転がった。
「に、兄ちゃん!!」
サンダルフォンは仰向けに横たわった兄に向かって、慌てて駆け寄る。しかし、兄の元へ辿り着く前に、白い影が立ち塞がった。
「どうも、サンダルフォン」
「せ、セラフィ……なんでだよ。なんで兄ちゃんを攻撃した!! なんでチミはオレッちたちを裏切った!! そんなにリグレスが大事だったのか!?」
「……あなたに話す義理はありません」
低いセラフィエルの声が聞こえたのと同時に、サンダルフォンの鳩尾に違和感が刺さった。ゆっくりと胸の辺りを見下ろす。すると、鳩尾にセラフィエルの手刀が貫通していた。
「“聖なる突き”」
ズボッと腕をサンダルフォンから引き抜く。ボダボダと赤く、熱い液体が流れ出すと共に、サンダルフォンはガクリと膝から崩れ落ち、うつ伏せに倒れた。
「すまないね、セラフィエル」
「いえ、お気になさらないでください、リマス様」
「「リマス様!」」
セラフィエルがリマスに向かって頭を下げた直後、黒装束で、楕円が彫られた白い仮面をつけた男が2人、リマスの横で片膝をついた。そして、リマスから見て右側の男が口を開いた。
「マモン様とアスモデウス様をお連れしました」
リマスが仮面の男たちの後ろを見ると、組織内では彼の同僚とも呼べる立ち位置の者たちがいた。
「どーもどーも〜、助かりました。いやぁ、シャバの空気は美味いなぁ〜!」
「早く……早く、あの執事を……黒神涼真を殺させろ……!! 早く……早く……!!」
銀髪のチャラい青年と眉間に深すぎる皺を掘っている大柄な男がやってきた。七つの大罪、マモンとアスモデウスだ。アスモデウスは先程から険しい顔でブツブツと呟いていた。
すると、セラフィエルがブルル、と体を震わせた。彼の腕にはビッシリと鳥肌が立っていた。セラフィエルはマモンたちとはあまり交流のなかったのだが、元の種族の血だろうか。同じ組織の仲間であるのに、彼らと話すと嫌悪感を抱いてしまうらしい。
「ふふ……ようやく主役が揃ったな」
リマスはマモンたちを一目見た後「下がれ」と命じた。すると、仮面の男たちは音も立てずに消えた。クルリとマモンたちから背を向けると、倒れているラグルたちの方を向き直った。コツ、コツ、と黒いハイヒールを鳴らしながら十数歩歩いた後、ラグルの前でしゃがみ込んだ。
「そろそろ起きたらどうだい、サープ、ラグル、木の葉天狗」
丁度近い所に3人が揃って倒れていたので、リマスの元いた場所、つまり牢獄の扉前から最も近い所でうつ伏せで倒れていたラグルの前に来たのだ。ラグルと木の葉天狗の服はボロボロになっていた。先ほどまでサンダルフォンの妖気の矢が刺さっていたからだ。だが、サンダルフォンが倒れたのと同時に矢の術式が消えた。
ラグルはヨロヨロと起き上がると、顔を顰めた。妖気解放状態はいつの間にか解けており、普段の酷く痩せた血色の悪い男の姿になっていた。
「うぅ……まだ普通に痛いんだけどネ……体中に穴空いたし……」
「お前は純粋な妖怪だろう? 妖気で体を構築できるんだから、その程度の怪我ならすぐに治せるんじゃないのかい? それに木の葉天狗も。サープは特に目立った外傷は無いみたいだねぇ」
リマスは囮役を命をかけて演じた3人の体を順番に見ていく。一応、リマスはリグレスの中で唯一医療や治療に適応している者なのだ。桜庭舞やラファエルのような回復の術式は持ち合わせていないが、様々な術式を閉じ込めた薬同士を掛け合わせ、回復の効果がある薬を作ることができる。その為、任務とはいえ、自分の囮となってくれた義理として、彼らの怪我は治しておかなければならなかった。
「クヒヒッ。まぁ、俺もまだ半分……妖怪みたいなもんだからな」
「ふっ……そうか。よし。全員動けるな。なら、さっさとこんな所おさらばして、次の目的地に行こうじゃないかい」
「次の目的地……? それはどこだ、リマス殿」
「魔界だ」
場の空気がザワついた。反応はそれぞれ違った。ニヤリと笑う者、舌打ちをする者、つまらなさそうにする者、ダルそうにする者、興味深そうにする者、表情を変えない者。
リマスはどんな顔をしていたか。答えは、遠足前の小学生のような顔、だ。前々からあの方に言われていた薬が完成したので、それをようやく試せる時が来たのだ。ワクワクが止まらない。
「さぁ、他の天使たちが来る前に行こうじゃないかい。四大天使やヤハウェが来ると面倒になるからね」
赤い液体の上で横たわっているメタトロンとサンダルフォンの横を通り過ぎ、リマスは足早に天界を後にしようとする。足取りが軽い。早く新作の薬を試したい。そして、あの方に褒めていただきたい。キャラでもないスキップをしてみたくなるほどに、今のリマスは気分が高揚していた。
「待っていてください、ボス……! 今度こそ完成したこの薬で、我々を邪魔する者たちを排除してみせます……!!」
白衣のポケットに手を突っ込み、リマスはズンズンと歩いていく。その時、ポチャッ、と彼女の高い鼻先に水滴が落ちてきた。天界では珍しい、雨だ。しかし、今のリマスには、もはや雨が降ろうが槍が降ろうがどうでもいい。リマスという実験者が知りたいのは、新作の薬が果たして自身の思い描いた通りのものになっているかどうか、ただそれだけなのだ。
サープたちは彼女の後に続いて、天界の牢獄を後にする。彼らの背中には、まだ血がドクドクと流れ続ける2人の熾天使がいる。しかし、もうサープたちが熾天使たちを振り返ることはない。彼らの頭の中からは、もう二度と関わることがない熾天使たちのことなどすっかり消えてしまっていた。まるで、水煙に覆われたかのように。
お読みいただき、ありがとうございます。
主人公…全然出ないなぁ。




