第103話 私の英雄
裏桜中学校の廊下を歩く2人の生徒。1人は誇らしげな顔を、もう1人は冷めた顔を浮かべながら横並びで理科室へと向かっていた。
「ま、これが俺と涼真の出会いだ。どう? 感動して震えて泣いた?」
「最後で全部台無し」
雪はぶっきらぼうに言った。途中までは雪もウルッときたところがあった。しかし、なぜ最後の話をしたのかと思うほど最悪のオチだった。ただただ汚い終わり方だった。
哲人はズボンのポケットからスマホを取り出し、右手で操作した後、画面を雪に見せてきた。
「ほら、このニュース。『空から吐瀉物? 通行人9人に被害』って出てるだろ?」
「うーわっ、最悪」
雪は思わず哲人からススス、と横歩きで3歩ほど距離をおいた。
哲人はスマホを元の場所にしまい、苦笑いになった。
「あっはは、ごめんって。でも、最後のも含めて、今話したことは全部実話だよ」
「哲人……」
哲人は少し哀しげな顔をした。しかし、すぐにいつも通りの少しヤンチャそうな笑みを見せ、廊下の天井を見上げた。
「だから、本当に涼真には感謝してるんだ。だから、この前の百鬼夜行でアイツを攻撃したこと……本当に悪いと思ってる。そんで、いつか絶対に恩返ししたい。俺がいて良かったって涼真に思ってもらえるくらいの盛大なお返しをな!」
哲人は雪に向けてニカッと笑いかけた。彼の親友に対する気持ちを聞き、雪も思わず頬が緩む。
「うん……そうね。私も百鬼夜行の分、涼真に何かお返ししないと!」
「おう!」
そして、理科室の前に着いた。扉をガラッと開けると、クラスメイトたちがビーカーの中身の液体をかき混ぜたり、フラスコに移している途中だった。
「あら、おはようございます。狼谷くん。氷浦さん」
「「おはようございます、先生」」
黒板の前で生徒たちを見守るように立っていた理科の先生が雪たちに気付き、声をかけてきた。雪たちも揃って挨拶を返す。
理科の先生は小さな眼鏡をかけた鼻の高い魔女のような壮年の女性だ。眼鏡のサイズが合っていないのか、2分に1回ほどのペースでズレた眼鏡を直すのが彼女の癖である。
「えーっと、2人は6班ね。ほら、あそこの班よ。白衣を着て手を洗ってから、実験に参加してらっしゃい」
「「はーい」」
眼鏡の位置をクイッと直しながら先生は理科室の隅のテーブルを指さした。哲人と雪は早足でそのテーブルへ向かう。荷物をテーブルの下にある荷物置きに乗せると、白衣が掛けてあるハンガーラックへ向かった。
「それにしても、哲人の過去があんなに凄惨だったなんて思わなかった」
「そうか?」
「そうよ! だって今の哲人の感じじゃあ、あんな過去を背負ってるなんて思えない」
「まぁ、そりゃそうさ。だって、涼真に全部預けてっから。俺の過去も願いも、全部な」
哲人はハンガーから白衣を外しながら、目を伏せてどこか満足げに笑っていた。
雪は改めて幼馴染2人の絆を確認し、思わず目を細めた。何故か胸が温かくなるほど嬉しくなったのだ。
「……そっか。哲人と涼真はすごいわね。出会った時からずっと繋がってるんだ」
「ああ。俺にとって涼真は、人生の大恩人で、一生モンの親友さ」
哲人は照れ臭そうに、口元を掻きながら笑った。そのまま白衣にスッと腕を通し、ポンポンッと腰の辺りを軽く叩いた。
「ところで、白衣のサイズ合ってる?」
と、雪に向かってクルクルと回ってみせた。雪は自身も白衣を着た後、哲人の方を見た。二の腕の辺りに張りがあり、少しキツそうだ。しかし、それは決して脂肪による張りではなく、彼の逞しい筋肉によるものだということを雪は一瞬で見抜いた。
普段はバカなところや子供っぽい部分をたびたび見せる哲人だが、改めて見てみると、体付きはもう立派な大人の男性だった。雪は白衣越しでも分かる彼の見事に鍛え上げられた体を思わずまじまじと見つめてしまった。
「もしもーし、雪さーん?」
その声で、ハッと正気に戻る。気が付くと、哲人が怪訝な顔で雪の方を見つめていた。
「どした? そんなに変だったか?」
「う、ううん! そんなことないわ! ただ、ちょっと二の腕がキツそうだからもう1サイズ大っきいのに変えた方がいいんじゃない?」
取り繕うように慌ててアドバイスをしてみると、哲人は白衣の二の腕部分を摘んだ。
「あー、確かにちょっとキツイかな。雪の言う通り、変えるわ」
哲人が白衣を脱ぎ出すのを見て、雪は深いため息を吐いた。体を眺めていた、だなんて恥ずかしいし気持ち悪いし死んでも言えない。
それにしても、と雪は哲人の過去の話について思い返す。普段明るい哲人からは想像もできない、かなり衝撃的な内容だった。しかし、彼が涼真と出会えて本当に良かったと思う。もし涼真と出会えていなかったら、哲人は今頃どうなっていただろう、などと考えている内に、あることが引っかかった。着替えが終わった様子の哲人に話しかけ、自分と同じことに気が付いているか確かめてみる。
「ねぇ、哲人」
「ん? まだ白衣おかしいか?」
「いや、今度は大丈夫よ。それより、ちょっと話したいことがあるんだけど」
「何だよ?」
雪はゴクリ、と唾を飲み込む。いざ話すとなると緊張してきた。自分は何か、気付いてはいけないことに気が付いてしまったのではないか、と思ってしまった。
しかし、喉の奥につっかえたような言い出しにくい言葉をなんとかして取り出す。
「その……さっきの、話なんだけど……」
「あぁ、俺の話か? それがどした?」
「うん。あの……気を悪くしたら、ごめん。でも、ちょっと気になることというか……引っかかったことがあるの」
「おう、この哲人様に話してみ」
哲人は歯を見せて笑った。
「その……お父さんが、“洗脳”されたって言ってたじゃない? それも注射で……。それってさ……この間の私たちと、一緒よね?」
雪が恐る恐る話すと、哲人はハッと驚いたように目を見開いた。しかし、口は開いていなかった。
少しの沈黙の後、哲人がフッと笑った。
「……やっぱ、気付いてたか」
「やっぱりってことは、哲人も気付いてたの!?」
「ああ。百鬼夜行の帰り道には気付いてたよ。そんで同時に思ったさ。父ちゃんを“洗脳”した奴と、俺たちを“洗脳”した奴は同じなんじゃないかってな」
「私も同じこと考えてた。でも、なんであの時涼真に言わなかったの? お父さんとお母さんの仇は私たちを“洗脳”した奴と同じかもしれないって」
哲人は再び少し沈黙した後、ゆっくりと口を開いた。
「……言う必要がないって思ったんだ」
「え?」
「多分、涼真もそのことに気付いてたと思う。だけど、それを俺に話したらなんもかんもすっぽかして、復讐に行く、とか言い出すと思ったんじゃねぇかな。実際、あの時に俺に話したらそう言ってたかもしれねぇし」
哲人は困ったような笑顔を見せると、肩を竦めてみせた。
「それに、涼真があの時言わなかったのは、何か訳があると思ったんだよ。そんで、その理由がなんとなく分かった気がする」
「ど……どういうこと?」
哲人は一瞬間をおくと、抑揚のない言葉で言った。
「弱すぎるんだ、俺が」
雪は息を呑んだ。
「俺たちが戦ったカエルの奴……アイツと戦って、ギリギリ勝った感じだったろ? まぁ、最後は俺、何の役にも立てなかったけど……」
「そ、そんなこと……」
「あるんだよ。俺は雪を1回守るだけで精一杯だった。あの時、もし涼真が雪を庇って倒れてたら……俺たちはあのカエル野郎に全員殺されてた。俺は……役立たずだ」
雪は哲人の低い声に、思わず口をつぐんだ。彼の言う通り、涼真がいなければ雪たちは皆殺しにされていただろう。
しかし、そんな哲人の消極的な発言に、雪は怒りを覚えた。
「ねぇ、なんでそんなこと言うの?」
「え?」
「私にとっては哲人は……命の恩人よ……? 自分自身とは言え、私の命を守ってくれた人のことを役立たずだなんて言わないでよ!」
雪の張り上げた声に、理科室に居た生徒たちが一斉に雪の方を見た。しかし、雪はそんなことを気にせず、続ける。
「私にとってアンタは……狼谷哲人っていう人は……! 英雄なんだから!! 他人を命をかけて守れるっていうのは、アニメや漫画の中の人だけだと思ってた! だけどあの日、アンタは私を命をかけて守ってくれた!! アニメや漫画の中の英雄みたいに!! カッコよかった! でも、アンタが弱っていく姿を見て、死んじゃうんじゃないかとも思った!」
ポロリ、と雪の紺青の瞳から涙がこぼれた。
「アンタは役立たずじゃない! アンタがいたから私は今ここにいられてるの! アンタが守ってくれたから、私は今生きてるの!! 私の英雄の侮辱は、誰であろうと絶対に許さない!!」
雪は涙を薄らと頬に伝わせながら、荒い呼吸を繰り返す。言いたいことを吐き切った彼女の肩は、上下に大きく動いていた。
雪を呆然とした顔で眺めていた哲人は優しく微笑むと、雪の頭にそっと手を置いた。
「……そっか。そうだよな。俺が今言ったことは俺に対しても、お前に対しても失礼だったよな。ごめん」
「……うん」
「自分を否定して、どこかで逃げようとしてた。俺自身の弱さから。だけど、今雪に言われて決めた」
哲人は雪の頭に置いた右手を左右に優しく動かし始めた。
「俺は弱い。でも、その弱さとちゃんと向き合うよ。役立たずにならないように」
「……うんっ」
雪は目に涙を溜めながら首を縦に振った。
「ありがとな、雪。俺の頭冷やしてくれて」
「……上手くないわよ、バカ」
雪はスポッと哲人の胸に顔を埋める。そんな雪の頭を、哲人は微笑みながらずっと撫でていた。
理科室に居た生徒たちの視線は2人に集められ、実験を進める手は完全に止まってしまっていた。
理科の先生も口をあんぐりと開けたまま停止していた。
◇◆◇◆◇
西校舎の3階にある生徒会室から東校舎の2階にある2年3組に行くには、一度1階まで下りてから下駄箱前か中庭を通って東校舎に行き、再び階段を登る必要がある。
哲人と雪が理科室に向かっていた頃、舞と涼真は生徒会室を出て、下駄箱前を通ろうとしていた。
「あ、そういやさぁ、舞」
と、涼真が何かを思い出したような口調で声をかけてきた。舞は彼の体を支えたまま応じる。
「ん? どうかしたの?」
「ヨウってどこに行ったか知ってる? 今日アイツの姿を見てないんだけど……」
ヨウ、とは涼真と舞の友人の見間洋平のことだ。どうやら涼真は、生徒会室に彼が居なかったことを疑問に思っているようだ。
「洋平くんは今日は休みだよ。なんか、術式の不具合が止まらないんだって。心配だね……」
「術式の……あぁ、そういやアイツ、術式が暴走してたな。あの日は1日中ヨウが2人いたんだっけ」
「そうそう。それが今日は3人とか4人になったとかで休むって哲人くんから聞いたよ」
「ふーん、3人とか4人ねぇ……。ヨウはまだ裏世界に来てから日が浅いから術式に慣れないんだろうけど、そんなに不安定なもんなのかなぁ……?」
すると、舞の視界の端に何か異様なものが映り込んだ。その場で立ち止まり、校庭を見る。すると涼真も立ち止まり、不思議そうに舞に訊いてきた。
「どうした? 舞」
「ねぇ涼真、あれ……」
舞は下駄箱の隙間から見える校庭を指さした。舞の指が指し示したものは、こちらへ向かって歩いてくる1人の男だった。その男は金髪で黒のスーツに身を包み、ぱっと見では20代後半のイケメンに思えるだろう。しかし、彼の本当の年齢を舞は知らない。ただ1つ知っていることは、彼は涼真や舞よりもうんと歳上だということだけだ。
「ば、バトラー!?」
下駄箱の前にある一面ガラスの扉を引き、舞たちの正面にズンズンと長い足で歩んできたイケメン。それは涼真の家に仕える執事、バトラーだった。彼は涼真と舞の顔を交互に見ると、ホッとしたように息を吐き、表情を緩めた。
「涼真さま、舞さま。よくぞご無事で……」
「あ、ああ……それよりもバトラー、何でここに? っていうか、勝手に学校に入ってきちゃダメだろ」
「すみません……ですが、七つの大罪の妖気を感じて居てもたってもいられなくて……皆様、お怪我はありませんでしたか?」
「ああ。しおりさんが術式を展開してたからな。七つの大罪は誰も術式を使えなかったし。途中でしおりさんが技を放ってたけど、それでも怪我人はいなかったよ。多分、かなり威力を抑えてたんだろうな」
涼真の説明に、バトラーは顔をポカンとさせていた。確かに、これだけの説明ではワケが分からないだろう。涼真は苦笑いを浮かべると、バトラーに先程までの出来事をかいつまんで説明した。バトラーは終始黙って涼真の話を聞いていたが、時折目を少し見開くなど、驚きの表情を見せていた。
「なるほど……そうだったのですか。お2人や皆様がご無事で何よりです」
「ああ。心配してきてくれたのは嬉しいけど、今日はバトラーの出る幕はなかったよ」
涼真はバトラーと笑い合うと、舞の手を取った。
「んじゃあ僕ら、これから授業だから。また家でな」
「分かりました。それでは私はこれで」
バトラーはペコリと一礼すると、校庭に向かって歩き出す。しかし、すぐに立ち止まり、クルリと舞たちの方を向いた。
「舞さま!」
「はっ、はい! 何ですか?」
バトラーは何かを躊躇うような素振りを見せた後、困ったような笑顔を浮かべた。
「……いえ、すみません。なんでもないです」
「は、はぁ……」
舞が曖昧な返事をすると、バトラーは踵を返して裏桜中学校を後にした。バトラーが学校を去る時、舞には彼の背中がヤケに大きく見えた。まるで、何か大きなものを背負っているかのように。
お読みいただき、ありがとうございます。




