第101話 小さな猛獣
哲人過去編パート2です。
「グルルルアアアア!!」
父ちゃんはもう一度雄叫びを上げると、拳を大きく振りかぶった。
「ま、待ってよ父ちゃん! 俺だよ! 哲人だよ!」
「ガルルルアア!!」
父ちゃんに俺の言葉は届いていないようだった。振り上げられた拳は真っ直ぐに俺に向かって飛んでくる。
ヒュンっという音が聞こえた直後、俺は仰向けでアスファルトの上に倒れていた。それに気付いた瞬間、体の奥から込み上げてきた熱いものをガハッと吐き出す。
「ゲホッ、ゴホッ……!!」
喉の奥で血が逆流し、さらに息苦しくなってしまった。俺はすぐさま体を起こし、地面に向けて血を吐く。
「うっ……ゴホッ、ガハッ……!!」
はぁ、はぁ、と荒い息をすると、今度は気分が悪くなった。うっ、と手で口元を押さえる。
「グルルル……」
父ちゃんは唸りながら俺に近付いて来る。しかし、今の俺には父ちゃんをどうすることもできない。
バシッと右頬を鋭い爪で引っ掻かれた後、ガシッと首を掴まれ、持ち上げられてしまった。
「と、父ちゃん……」
「グラゥ、グルルゥ……」
父ちゃんは何かを喋るように唸った後、俺の首を掴んでいる右手に力を込めた。ギシギシという嫌な音が俺の体の中から聞こえている。まるで悲鳴のように。
「や、めて、くれ……とう、ちゃ……!!」
俺が懇願すると、父ちゃんは力を緩めるどころか、さらに手に力を込めてきた。
「ぐ、ぁぁああ……あ、あ……!!」
俺は両手で父ちゃんの太く強靭な腕を掴んだり、ジタバタと宙でもがいたりしたが、父ちゃんは顔色1つ変えずに俺を掴んだまま睨み付けている。
右頬から流れ出た血が俺の右腕を伝い出した時、俺は段々と意識が薄れてきた。目の前の景色は霞み、激しかった雨音も聞こえなくなってきた。
「なん、で、だよ……父、ちゃん……」
俺は血塗られたような紅の目をした父ちゃんに最後に呼びかけると、瞼をゆっくりと閉じた。
父ちゃんは俺が死んだと思ったのか、俺を地面に叩き付けると、まだ黒煙が上がっている車の中に手を突っ込み、おばさんの体の一部を取り出して、それを貪り始めた。バリ、ボリ、と骨を砕き、父ちゃんの口周りには真っ赤な血が付着していく。
その時、唸り声を上げた。
「グルルル……」
父ちゃんは喰っていた手を捨て、父ちゃんから見て右を向いた。
父ちゃんの目の前には、黒銀色の体毛を奮い立たせ、両手両足を地につけた小さな猛獣のような生物がいた。
俺だ。
「グルルルァァア!!」
俺はダッ、と父ちゃんに向けて駆け出した。父ちゃんは俺を警戒しているのか、二本足で立ちながら身構えたように見えた。
俺はガラ空きになっている父ちゃんの腹に攻撃を入れーーーーようかと思ったが、まずは股を潜り抜けた。そして、背後から父ちゃんの背中の中心部を思い切り蹴り飛ばした。
父ちゃんは前方に吹っ飛び、顔から地面にスライディングした。さらに隙ができた。
俺は大きく跳び上がり、うつ伏せになっている父ちゃんの上にズドン、とのしかかる。その拍子に、父ちゃんはバシャっと血を吐いた。
俺は父ちゃんの背中で執拗にジャンプした。まるで踊るように。何度も何度も踏み付けた。しかし、それでくたばる父ちゃんじゃない。
「グァァアアアーーー!!」
うつ伏せの状態から俺を背に乗せたまま起き上がった。俺は起き上がった父ちゃんに捕まらないよう、父ちゃんの背中を蹴ってから地面で後転し、父ちゃんとの距離をおいた。
「グルルルルル……」
父ちゃんは両手を地面につき、四足獣のような構えを取った。俺もそれを倣らうように構えを取る。互いに低く唸りつつ、ジリジリと相手に近付いていく。
すると、父ちゃんの横で炎上していた車がボンッと爆発して、さらに火を噴いた。父ちゃんはそれに気が取られたらしく、ほんの一瞬、俺から目を逸らした。
俺にとってはその一瞬が、十分過ぎる機会だった。
四足のまま駆け出し、父ちゃんの首元にガッ、と噛み付いた。俺の狼男化して鋭くなった俺の牙は父ちゃんの首に深く食い込み、血を噴き出させた。
「グァァアアアアア!!」
父ちゃんは痛がっているのか、雄叫びを上げながら俺を振り払おうとバシ、バシ、と叩き出した。でも、俺は離れない。
「グルルル……!!」
俺は顎にさらに力を込めた。父ちゃんの首からは血がドクドクと流れ出ている。このまま噛み付いていたら父ちゃんは失血死するだろう。俺はこの後一生、罪悪感と後悔に溺れながら生きていくんだろう、と思った。でも、今ここで父ちゃんを殺さなければ、俺が殺されてしまう。母ちゃんが命を賭けて守ってくれた命を、母ちゃんの命を、無駄にする訳にはいかない。
「グルルルルァァア!!」
父ちゃんの力がいっそう強くなった。恐らく、火事場の馬鹿力、というやつだろう。命の危機に晒され、父ちゃんの秘めたる力が覚醒したんだ。でも、それは父ちゃんだけじゃない。俺だってさっきからずっと、火事場の馬鹿力を発揮してる。
「グ……ラァァァアアア!!」
父ちゃんの叩く威力はえげつなく、俺の体中が悲鳴を上げているのが分かる。でも、俺はそんな悲鳴をかき消すかのように叫び、万力を上顎と下顎に込めた。
その瞬間、ブチンッという音と共に、俺の上顎と下顎がガチンッと噛み合った。
俺の視界がグラリと揺れたかと思うと、地響きのような音と振動が俺を襲った。横を見ると、いつの間にか人間の姿に戻った父ちゃんが仰向けで倒れていた。俺はうつ伏せだった。
「父ちゃ……」
そこまで言って、俺は口の中の違和感に気が付いた。舌の上には、ヌルリとした生温い塊が存在していた。その塊の正体を一瞬にして悟った俺は、すぐに塊を吐き出した。
「オエッ……ゲ、ェッ……」
俺の目の前に転がるように出現した赤黒い塊。それは間違いなく、父ちゃんの肉片だった。父ちゃんの首元を見てみると、何か鋭いもので抉られたような跡があった。
あぁそうか、と俺は荒い呼吸をしながら思った。俺が、父ちゃんを殺したんだ。
「う、うぅ……」
その時、近くで俺以外の声が聞こえた。雨音でかき消されそうなほど小さな声だったが、たしかに聞こえた。
俺と父ちゃん以外に近くに人はいない。つまり声を発したのは、
「……父ちゃん?」
「は、は……つ、強く、なった、なぁ……テツ……」
父ちゃんは俺の方へ顔を向け、苦しそうな笑顔を浮かべていた。俺は目を疑った。首からはドクドクと大量の血が流れている。俺はたしかに首を噛み切ったのだ。それなのに、父ちゃんは生きていた。
俺は慌てて父ちゃんの近くに行こうとした。しかし、狼男化したままなのに力が入らない。仕方なく、匍匐前進で父ちゃんに近寄った。
「と、父ちゃん……生き、てたんだ……よ、良かった……元に、戻って……」
俺は呆然としていた。あり得ない状況のはずなのに、何故か冷静でいられた。呼吸はまだ荒かった。
俺が息を混ぜながら言うと、父ちゃんは力なくハハハと笑った。
「いや、父ちゃんは、もう、すぐに死ぬ……。狼男、だから、かなぁ……そんなのも、なんでか……分かっ、ちまうん、だ……」
父ちゃんは息も絶え絶えに言うと、俺の頭にポスっと手を置いた。
「いいか……? 父ちゃんが、死ぬ、のは……テツ、お前の、せいじゃ……ないからな……。お前は、正しいことを、した……。よく、俺を止めてくれた。いつの間にか、俺より、強く……なっち、まって……」
「父ちゃん……! 父、ちゃん……!!」
父ちゃんの声は段々と弱く、小さくなっていく。俺は父ちゃんの手をガシッと握り、必死に呼びかけた。
弱っていく父ちゃんを見ていると、涙が溢れてきた。俺の目から出てくる熱い水滴はポロポロと地面にこぼれ落ち、雨に混ざって消えていく。
すると、父ちゃんは俺の頭をゆっくりと、ゆっくりと撫で始めた。
「い、いいか、テツ……これから、父ちゃんが言う、ことを……よーく、覚えとけ……」
父ちゃんは閉じかけた瞼をカッと見開き、俺に真剣な顔を向けた。
「まず、1つ目。お前はこれ、からも……この世界で、生きて……いくんだ。その時……お前を、助けてくれる奴が、必要だ。お前は俺に似て……おっちょこちょいなところが、ある、からな……。誰かに、目ぇかけてもらわねぇと、生きて、いけねぇ……。だから、人との出会いを、大切に、しろ……」
「父ちゃん……!」
父ちゃんは俺を寝かしつける時のように、優しい声で話し続ける。
「そんで……2つ目。これは、俺の……自己満足だ……」
父ちゃんは上を向いてゆっくりと瞬きをした後、再び俺の方を向き直った。その父ちゃんの顔は、今にも泣き出しそうに目を細めていた。
「ごめんなぁ……俺は……最低の、父ちゃんだ……。妻を手にかけた挙句、息子まで殺そうとした……最低の、父親だ……! ごめんなぁ、テツ……!! もっと俺が、しっかり……して、たら……!! 俺が、もっと、強……かっ、たら……」
父ちゃんの声はさらに小さくなってきていた。息の音の方が大きくなって、父ちゃんの声が霞んでしまっていた。
「父ちゃん! 父ちゃん!!」
「テツ……最後に……3つ目、だ……」
父ちゃんは今にも消えてしまいそうな声で話を続ける。そして、ずっと俺の頭を撫でていた手をピタリと止め、
「い……いか、テツ。俺が、母ちゃんを、殺し……て、お前……を、襲った、理由は……“洗脳”、されてた、からだ……」
「せ、せんのー……?」
「お前にゃあ、まだ、難しい内容かも、せれ、ねぇ……が、さっきまで……父ちゃんは、父ちゃんじゃあなかったんだ。お前たち、を……襲ったのは、と、父ちゃんの……意思じゃあ……ねぇんだ」
「どういうこと……?」
「テツ……こ、ここを、見ろ……」
父ちゃんは手を細かく震わせながら、俺に噛まれたのとは逆側の首を指さした。俺は父ちゃんの指先が示している部分を凝視する。
「何だよ、コレ……」
そこには、塞がりかけてて分かりにくかったが、小さい穴が空いていた。
「わ、分かったか……? これは、注射の跡だ……。父ちゃんは、仕事の途中、全身真っ黒な奴らに……注射、された……それからだ。父ちゃんが、父ちゃんの、意思で……動けなく、なったのは……。だけど……」
父ちゃんは俺の頭に置いていた手に再び力を込め、左右に動かし始めた。
「お前が……父ちゃんを、救ってくれた……。お前を苦しめた、俺を……お前は、最期に……助けて、くれた……!!」
「と、父、ちゃん……!!」
父ちゃんが瞬きすると、左目からポロリ、と涙がこぼれた。その涙はすぐに雨に流され、地面に吸い込まれてしまった。
「テツ……最期に……最低な、父ちゃんからの……遺言だ……」
「父ちゃん!! 駄目だ!!」
「本当にお前が困った時……」
「嫌だ!! 聞きたくない!! 死なないで!! 父ちゃん!!」
俺は目の前の囁くような声で話す父の言葉を遮り、耳を両手で押さえて目をギュッと瞑った。何も受け入れたくなかった。全部夢だと思いたかった。しかし、体に突き刺さるように振り続ける雨が、俺を現実に引き戻そうとしてくる。
「嫌だ……!! 何も……!! 何も、見たくない……!! 何も、聞きたく、ない……!!」
「聞け!! テツ!!」
俺はハッとして、目の前の父ちゃんを見た。父ちゃんはいつも通り、ギラリと目を見開いていた。俺が耳から手を離すと、父ちゃんは満足そうに頷いた後、ニカッと笑った。
「本当に困った時は、誰かに頼れ! そんで、誰かが困ってる時は、お前が助けろ! そうじゃないと、不器用な俺たちは生きていけねぇ! 相手を操るなんてことはできないからな! だから、なんでも自分から動け! そうすればきっと、誰か1人はお前の味方になってくれる! 生きていれば、必ず神様はお前のことを助けてくれる! だから……」
父ちゃんは俺の頭に乗せている手とは逆の手で、トンッと自分の胸を叩いた。
「自分を信じろ!! それが、父ちゃんから最期にお前に遺せる言葉だ!! 天国……はねぇか! 地獄からでも、お前のこと、ずっと、見守ってる!! お前は名前の通り……賢くなれよ!! 父ちゃんみたいに馬鹿になるな!!」
「と……父ちゃん……!!」
父ちゃんはいつもみたいに、ワシャワシャと俺の頭を撫でた後、その手を離し、2本の指を揃えて、ピッ、と俺の方へ向けた。
「じゃあ、元気でな! テツ!!」
俺にとびっきりの笑顔を見せた次の瞬間、父ちゃんの手は力なくパシャリ、と音を立てて水が溜まっている地面に下ろされた。
「……父ちゃん?」
俺は父ちゃんの体を一度揺さぶる。父ちゃんからの反応はない。
もう一度揺さぶってみた。それでも、反応はなかった。
「……はは。あははは」
俺は笑いが込み上げてきた。なんでかは分からない。でも、笑わずにはいられなかった。
「あはは、ははは! はははは!!」
赤い炎と黒煙を上げる乗用車。その手前には雨のせいか、もう既に全身が冷たくなっている父ちゃんの遺体。
笑うことしか出来なかった。笑うことで全てを否定したかった。
「あはははは!! あははははは!!」
俺は天を見上げながら、狂ったように笑い続けた。俺の目には神様なんかじゃなくて、真っ黒な雲と、俺を体の芯まで冷やしてくる大量の雨粒だけが映っていた。
◇◆◇◆◇
父ちゃんと母ちゃんが死んでから1ヶ月。俺は、どこかの街の路地裏をトボトボと力なく歩いていた。
どこかの街のTVで観たが、俺のことはニュースになっていて、警察が俺の行方を追っているらしい。だけど、写真と今の黒くくすんだ姿で行動している俺が当然見つかるはずがない。肌は薄汚れて髪はボサボサ。着ている服はボロボロ。写真とは容姿がまるで違うからだ。
俺はこの1ヶ月、飲食店の店裏にあるゴミ箱を漁ったりして飢えを凌いできた。だけど、そんな生活ももう限界だ。風呂に入っていないせいで、全身から異様な臭いがする。24時間ずっとドブの臭いを嗅がされているようなものだった。
臭いのせいで、全然眠れてない。それに、たまに人間に見つかって、野良犬と間違われて追いかけ回されることもある。
しばらく歩いていると、どこかから良い匂いがしてきた。これは中華の匂いだ。その時、タイミングよく俺の腹がグ〜ッと鳴った。まる1日、何も食べていなかったからだ。俺は重い体を引きずるように走り出した。一刻も早く飯にありつきたい。その一心で。
この角を左に曲がれば中華にありつける。そう思って、路地を左に曲がった時だった。
ガッ、と何かに足をとられた。俺はそのままバランスを崩し、勢いよく転倒してしまう。
「いってぇ……」
「お前か? 最近この辺りで噂になってるっていうゴミ箱漁り犯は」
その時、俺の背後から声がした。その声は子供だろうと予想できたが、口調と声のトーンは落ち着きがあり、子ども離れしていた。
俺はゆっくりと後ろを振り返る。そこには、俺を見下ろしながら仁王立ちしている黒髪の少年がいた。少年の足元を見てみると、泥が付いていた。恐らく、俺を転倒させたのはコイツだろう、と予測がついた。コイツが俺に足を引っ掛けたんだ。
俺は飯の邪魔をした少年を激しく睨み付けた。
「お前……誰だよ。俺に何の用だ」
「先に質問してるのは僕なんだけど……まぁいいや」
少年は頭をポリポリと掻くと、ズボンのポケットに手を突っ込んだ。
「僕は黒神涼真。人の願いを叶える者」
薄らと笑顔を浮かべながら、少年は名乗った。
これが、俺と黒神涼真の出会いだった。
お読みいただき、ありがとうございます。




