第1話 未来のはじまり
「大学院といっても、大したこと無いな。」 今年に入って初めて「自然言語処理 応用論」の授業を受けた僕はそう思った。授業はあまりにつまらないものだから、僕は終始上の空だったが、それでも僕は最高に興奮していた。それは、僕は今最高にワクワクするソフトウェアを作っていたからだ。授業中も、15インチのMacbookにかじりついて僕はコードを書き続けていた。
今年の京都は例年より暖かい。まだ4月になったばかりというのに、桜は散り始めていた。大学の古びた灰色の校舎に止めた自転車の鍵を外し、自転車にまたがった。すっきりとした春の京都の空気は、人に何か新しいことを始めたい気持ちにさせる。
家に帰った僕の横には、巨大な黒いデスクトップパソコンに向かっている大男がいた。デスクの上には飲みかけのペットボトル入りの炭酸水とスープだけが残ったカップラーメンの容器が置いてある。
「よく真面目に大学なんかに行けるよな」
その男は呆れたように僕に吐き捨てた。
「大学じゃない、大学院だよ。それに僕はそんなに真面目じゃない」
「俺からしたら大真面目だよ」
如月竜介という名前のその男は僕の同居人で、大学2年の時からこのマンションの部屋に一緒に住んでいる。奴は僕と同い年だが大学に行っておらず、海外のオンラインポーカーのサイトで金を稼いで生活している。子供ころはチェスの全国大会なんかにも出ていて、とにかく勝負ごとが強い。詳しく聞いたことはないがポーカーでの収入は多い時で月200万円を超えるらしい。元はというと、竜介とは中学時代にオンラインゲーム「ラストエクリプス オンライン」で知り合って、高校生になって僕が日本に帰ってきたときに初めて実際に顔を合わせたのだ。当時父親の仕事の都合でサンフランシスコに小学2年から8年間いた僕は日本語で話せる環境に飢えていて、中学生になってオンラインゲームを始めたのだった。彼と僕はまるで遠い異国人のように全く異なる性格を持っているので周りにいる人にはなんで一緒に住んでいるのかとよく聞かれるが、僕にとってはたった1人の親友だ。
リビングルームのソファに腰を掛けた僕は、竜介に意気揚々と話しかけた。
「そんなことより、今作ってるプログラムがそろそろ動きそうだよ」
「ああ、この前言ってたやつ?喋れる人工知能だっけ?」
「まあ人工知能という表現は好きじゃないけど、要はそういう感じだね。ただ返答にこたえるだけでなく、"知識"を持って言語を"理解"する仕組みだよ。最近返答に答えるプログラムはよくあるけど、あれは本当の知能じゃない。ただ返答のパターンを学習してそれっぽいことを答えているだけさ」
竜介は大学は出ておらず、頭が良いとは言えないが高卒後多岐にわたる会社でアルバイト経験があるので僕よりも社会を経験している。ものごとを理解するスピードはそこらの大学生よりもずっと早いだろう。
「へえ、お前の好きそうなことって感じだな。仕組みとしてはまだ無い新しいものってことでしょ?見せてよ。」
「いや、まだ動かない。」
「なんだよ。」
ならなんで言ったんだ、と言わんばかりの顔でデスクトップパソコンに向かい直した。でもそれは落胆ではなく、何かを期待したような表情だった。
「今週の土曜に理沙が来たときには見せられると思う」
そう言って、僕はカレンダーを見直した。今週の土曜には、同じ大学院の横山理沙がうちにきて3人で鍋でもしようという約束をしている。彼女は高校からの知り合いで、同じ高校からこの大学に入ったのも彼女だけだ。そして、僕と同じく大学院進学を決めている。彼女は経済学専攻で、僕とは違うがこの家にたまに遊びに来る関係だ。竜介とは大学2年のときに初めて家に来たときに会って以来、共通の友人だ。彼女に数ヶ月ぶりに会えることにも心が踊っていたが、今の自分は、自分が作るものの可能性に旨を膨らませていた。
部屋に戻ると、僕は早速プログラムの最終調整を始めた。実はプログラムはほとんど完成していて、入力したテキストに対してプログラムが返答をすることができる状態になっていた。しかし、まだ全く会話をさせていなかったので、知識を持っていなかったのだ。いわば人工知能の赤ん坊、といったところだ。その日は夜2時までプログラムとの対話と、微調整を繰り返した。土曜日が来るまで、毎日そんな生活が続いた。大学院の授業やガイダンスも、僕にとっては全くどうでも良いことだった。この1週間は、僕にとっては人生最高の時間だった。
土曜の夜6時きっかりに、理沙は僕らの家に来た。彼女は好奇心旺盛でいろいろなことに首を突っ込みたがるが、真面目で律儀で、時間にはいつも正確だ。
「買い出しも終わらせてきたよー」
褒めてもらいたげにそういう彼女を見て、僕はどこか安心感を覚えた。
「神谷くん、久しぶり」
「2ヶ月ぶりだっけ?」
と言いつつ彼女の顔に目をやると黒い髪は伸びて、以前より大人びて見えた。目と目が会うことを恐れた僕はすぐ目線を下ろした。
竜介にも挨拶をすると、早速彼女は夕食の鍋の支度をはじめた。僕が自分の作ったプログラムを見せたくてうずうずしているのを竜介が察したようで、
「そういえばあれはどうなった?」
と聞いてくれた。
「あれ?」
と理沙が聞いたので、僕は意気揚々と語り始めた。
「実は1年以上前からあるプログラムを作っていてね。人間みたいに話ができる人工知能みたいなものだよ」
「なにそれ、面白そう」
と理沙はいつもの好奇心を示す。僕はさらに嬉しくなって声を大きくした。
「このプログラムはただのおしゃべりロボットじゃない。しゃべったテキストを『概念』として構造化し、知識としてどんどん貯めて、『ナレッジベース』という知識のネットワークをつくることができる。返答はナレッジベースから『思考』というプロセスを経てまた別な『概念』に変換され、それがテキストになって返ってくる。つまり言ってることを理解してるんだよ」
はいはい、この前聞かされたよ、とうなずく竜介を横目に、理沙が混乱の表情を浮かべる。
「んー、わかったようなわからないような。『理解』ってなんなの?」
待ってましたと言わんばかりの表情で、僕は答えた。
「理解ってのは、物事を『抽象化』するってことだよ。言葉のような具体的な形でなくて、それが表す『概念』や『イメージ』に変換するってこと。それができるのが本当の知能ってやつさ」
そんな僕を見て、じゃあ今度こそ見せてくれよ、と竜介は言った。僕は自分のMacbookを取り出して、プログラムを起動した。文字入力を求める黒いコンソールの画面が出てきたのを見て、
「全然イメージと違うな。もっとSF的な画面かと思ったよ」
と茶化されたが、パソコンを理沙に渡し、なにか好きなことを書き込んでみてよ。とお願いした。
「今は3人で鍋パしてます!楽しいです!」と書き込んだ。その書き込みに対してプログラムは
「3人とは誰のことですか?」
と答えた。自然な回答を見て僕は安堵したが、俺にもやらせろ、と割り込む竜介は
「理解ってどういうことですか?」と書き込んだ。するとそのプログラムは
「理解とは、わかるということです。」
と答えた。それを見た竜介は
「へっ、お前の人工知能はずいぶんとパッとしないことを言うな」
と嘲るように笑った。僕はそれに抵抗し、
「これは辞書をインプットしたわけでも意味を直接教えたわけでも無いんだぞ。僕とたった1週間話した中で自然に会得した意味ってことだ。これはすごいことだよ。もっとたくさんの会話をすれば、さらに学習して頭がよくなるってことさ」
と子供のようにいきり立った。そのやりとりを見て理沙は笑った。
「でも本当に会話できててすごいね。これを作ってる神谷くんもすごく楽しそう」
と嬉しそうに言った。彼女は続けて唐突に
「この子の名前はなんて言うの?」
と聞いてきた。そういえば名前は特に決めていなかったので、僕は適当に決めていいよと言うと、理沙がしばらく考えたあとに
「『ミラ』はどう?M・I・R・Aでミラ」
と提案した。僕はそれに対して
「それはどういう意味?なんかの略語かな? Mechanic Intelligent ・・RはなんだろうRobotic・・・ Aはわかんないや」
と聞いたが、あっさりと
「ううん、特に意味はない!」
と一蹴されてしまった。予想通りではあったが、僕はその名前がとても気に入った。最後に彼女はつぶやくように付け足した。
「でも、なんとなく、未来って感じがしたから」