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テセウスとアリアドネ後日談 ~運命の赤い糸のゆくすえ~

ミノタウロス退治を終えたテセウスは、故郷アテナイへ帰途に就いた。その傍らには、クレタ王女アリアドネの姿。二人のたどったい運命は。

 テセウスとアリアドネの物語をご存じだろうか。クレタ島のクノッソスの宮殿の地下深く、迷宮ラビリントスの深奥に棲まう牛頭人身の怪物ミノタウロスを退治した物語を。

 その頃、アテナイは敗戦の代償に、9年に一度、7人の若者をミノタウロスの生け贄として差し出すことになっていた。これを憂い、みずからミノタウロスに立ち向かうことを決意したのが、王子テセウスである。テセウスは生け贄の一人として、クレタにむけて帆をあげる船に乗り込んだ。そして、ミノス王に、おのれを第一の生け贄として迷宮ラビリントスに送り込むことを要求し、ミノタウロスをみごと退治した暁には、アテナイから二度と生け贄を出さぬことを宣言した。

 この異国の王子の雄姿に心奪われたのが、王女アリアドネである。彼女はラビリントスの入り口で秘かにテセウスを待ちうけ、剣を持たせたうえ、糸玉の端を彼の躰に結び付けた。その糸玉には魔法がかけられており、どれほど糸を繰り出しても、糸が尽きることがない。

 ミノス王が名工ダイダロスに命じて作らせた迷宮ラビリントス。足を踏み入れたが最後二度と出ることはかなわぬ深き迷宮。これまでに送り込まれた生け贄の骨が散らばる柱廊を、テセウスは奥へ奥へと進み、その深奥にて死闘の果てにミノタウロスの首を落とした。そして、糸を手繰ってラビリントスから生還を果たすことに成功した。

 彼は追捕を恐れ――なぜなら、牛頭人身とはいえ、ミノタウロスはミノス王の妃パシパエの胎になる息子であった――、船上からミノス王にミノタウロスを討ち取ったこと、ゆえに金輪際アテナイから生け贄の船は出さないことを宣告し、船を出した。

 そしてテセウスの傍らには、王女アリアドネの姿があったのである。


1.クレタ沖

 西日をうけて、海は白葡萄酒の黄金色に輝いている。次第に遠くなっていく島影に、胸を絞めつけられながらも、アリアドネは旅立ちの喜びというものが、躰の隅々で湧きあがるのを認めないわけにはいかなかった。多島海の最南、点在する小さな島々を受け止めるように、東西に長くかいなを伸ばしたように浮かぶクレタ島。ここからずっと北上して、島々のあいだを抜け、アテナイへ向かう。

 思えば初めてクレタ島を、クノッソスの宮殿を、父ミノス王のもとを離れるのである。ましてや、自らがその殺害に手を貸したミノタウロスは、母のおぞましい獣姦のにより生まれたとはいえ、血を分けた兄であった。

 不謹慎、冷血と誹られても仕方ない。

 アリアドネには、さばさばとした、清々しいほどの割り切りがあった。王女として人々にかしづかれ、何不自由なく満ち足りた毎日は、反面、閉塞された日々とも言えた。若い、花の咲き匂うばかりの生命力に満ち溢れた少女にとっては、少々の不安は、未来をさらに輝かせるための、香辛料のようなものだ。船出は、この海と同じように、希望に輝いていた。

不意に背を冷やしていた海風が遮られ、上着(ヒマティオン)がふわりとさしかけられた。吐息がかかるほどの間近な距離に、若々しい英雄の熱い血を感じて、アリアドネはどぎまぎと身を竦めた。

「王女、甲板にいては躰が冷えるでしょう。船室に食事を用意させました。船旅とて、お国の宮殿のようにはまいりませんが」

 肩に置かれた逞しい手、耳元に寄せた唇から漏れる吐息にアリアドネはぶるりと震える。それは決して、寒さのためではない。

含羞と高揚感に身を浸しながら、アリアドネはうつむきがちに振り返った。

 この人について行くことに決めたのだ。憧れと見知らぬ国への期待、若い少女の躰は喜びにあふれていた。


 テセウスの言う通り、船室に準備された食事は、クノッソスの宮殿で供されていたものに比べれば、ずいぶんと質素なものだった。小麦を練って焼いたもの、塩漬けのオリーブ、山羊のチーズ、はちみつ。魚だけは新鮮なものが捌かれてオリーブ油と塩で味付けられている。

「島に寄港すれば、煮炊きもできるのですが」

 さすがの王子テセウスも、恥ずかし気だった。のちにアテナイの繁栄を築き賢王と讃えられるとはいえ、このときはまだ片田舎の王子に過ぎない。またこの船はミノタウロスの生け贄となるべき若者たちを載せて船出したもので、そもそも帰路の物資を積んでいない。とはいえ多島海最強のクレタの王女を前にしては、引け目を感じざるを得ない。

「いいえ、目新しいことばかりで、とても楽しく感じています」

 アリアドネは上品に微笑みを返した。

 もろ手を挙げての賛同ではないにせよ、それはアリアドネの正直な感想であった。同乗するアテナイの若者たちは、祖国への忠誠と自己犠牲の誇りを胸にアテナイを離れたが、九死に一生を得て無上の喜びにわきかえっている。陽気に語り、歌い、自然と踊りの輪をつくった。クレタの洗練には程遠いものの、生命力に満ちたにぎわいは、年若いアリアドネには居心地良く、これから始まる未来への期待に胸が高鳴った。

 やがて、碇をおろして船を停める作業を終えた水夫たちも加わり、生還を祝う夕餉は、夜遅くまでいとなまれたのである。


 暁の女神(エーオース)は夜明けを告げる。そのクロッカスの裳裾が海も空を染めあげると、太陽神ヘリオスはおもむろに光り輝く馬を厩舎からひきだし、ゆっくりと馬車の轅につなぐ。その馬車が天の軌道の幾分高いところまで駆け上った頃、ようやくアリアドネは目を覚ました。甲板に出ると、水夫はすでに忙しく立ち回り、何事か大声で呼び合っては、帆の向きを変えたりしている。

 右を眺めても左を眺めても、どこまでも青い、ラピスラズリを溶かしこんだような海が延々と続いている。見果てることのない、髪黒きポセイドンの治めますところ。

 ポセイドンの館は、アンフィトリテと愛を語らう浅瀬はいずこだろうと眺め渡すうち、小さな島影が見えるようになってきた。その島影を遠巻きに眺めながら、船は北上していく。

「このあたりはまだ、貴女の御父上の勢力下にあるのです」

 いつの間にか、テセウスが傍らに立っていた。だから、立ち寄れない、とテセウスは言い添え、優し気に微笑む。この王子は、ミノタウロスを屠るため蛮勇を発揮してクレタに来たけれども、本来はもの優しい穏やかな気質なのかもしれない。

「朝食にしましょう。そのあとは、私の竪琴でアテナイの昔語りをお聞かせしますよ」

 テセウスはアリアドネの腰を抱くようにいざない、彼女はその肉感にうっとりと身をゆだねつつも、まだ質素な食事が続くのね、と肩を竦めた。


 船旅は単調である。特に、何もすることのないアリアドネにとっては。

 海がいかに美しく青く煌めくといっても、ただひたすらに青い、変化のない水平線が続く。ときおり魚影が見えたり、遠くにいるかが跳ねたりするのがせめてもの心の慰みだ。水夫たちは忙しそうに操船に動き回っているが、じっと観察するのは礼を失しているし、飽きはくる。それでも、閉ざされた船室にいるよりは甲板にいるほうが遙かにましで、アリアドネは上着を羽織り、甲板のすみで、水夫の邪魔にならないように、日がな一日、海を眺めているしかないのだった。テセウスはアリアドネを気遣って、竪琴を奏で、アテナイに伝わる神語りや、詩や歌を聞かせてくれるけれども、それが終われば、また変りばえのしない海が眼前に広がる。

 こんなときは、あれがあれば、気が紛れるのに。

 アリアドネは誰にも見咎められぬよう、そっとため息をついた。

 

 数日が過ぎたその夕刻、船はまた大きな島に近づき、今度はそこから離れることなく沿岸を航行した。

「ナクソス島ですよ。ポセイドン神とアンフィトリテ女神が出会ったという伝説のある」

 テセウスが甲板に上がってきた。

「まあ」

 アリアドネは目を輝かせた。ポセイドン神はナクソス島でアンフィトリテ女神を見初めたが、はじめは拒絶され、いるかを贈ってようやくその意を得たという。詩人が歌う神々の物語には、いつも胸が躍る。

「今日は、あの島に寄港します。久しぶりに、陸でおやすみいただけますよ」

 思わぬ告知に、アリアドネはテセウスの顔をみあげた。彼自身も陸に立てるのが嬉しいのだろう、まぶしいように目を細めながら、言訳ことわけした。

「ナクソスはデメテル女神の恵み豊かな土地柄です。水と食糧、そして葡萄酒を積みこむ予定なのです。まあ、非公式な寄港ですから、野営にはなるのですが」

 アリアドネは、両手を組み合わせ、さらに目を輝かせた。後半は、耳に入っていなかった。陸にあがれる、それ以上の嬉しい報せが、そこに含まれていたのである。


2.ナクソス

 美しい白砂の入り江の沖に、船は帆を畳み、碇をおろして停泊している。女神ヘラの乳房から溢れたと伝えられる乳白色の河が、蒼い天穹を縦に割り、海にそそいでいる。

 浜ではかがり火が明々と焚かれ、肉が回し焼かれ、盛大な宴が催されていた。

「うぇーい!!もういっぱーい!!」

 高らかに杯を掲げ、喉をそらせ、紅い葡萄酒を一気に飲み干す姿があった。アリアドネである。アテナイに持ち帰るため仕入れたナクソスの葡萄酒のうち、一樽が、彼女の傍らにある。アリアドネは一気に杯を干すと、自ら栓を抜いて、再びなみなみと杯を満たした。

「テセウス様にカンパーイ!」

 次の瞬間には、紅い液体はアリアドネの喉に吸い込まれていた。

 最初は、面白がっていたアテナイの若者たちも、さすがに顔色をなくしている。

 そう、アリアドネがこの数日、物足りなく感じていたもの、それはまさに葡萄酒だった。クノッソスの宮殿では豊富に供され、水のように飲んでいたもの。食事の時に葡萄酒が無いのは、アリアドネにとっては祭りに詩も歌も踊りも劇も何一つないようなものだ。

 最初は、嬉しさを押し殺し、慎み深く味わうつもりだった。しかし、杯を重ねるうちに、ついつい気分が昂揚し、あとはとどめようもなかった。

「アリアドネ!歌いま―――――スッ」

 今度はやにわに立ち上がり、裾をひらめかせながら、歌い踊り始めた。遠巻きにそれを眺め、お愛想に手拍子をしながらも、若者たちはどう止めに入るか、お互いに顔を見合わせ、牽制しあっている。

 テセウスもまた、度肝を抜かれていた。

 船上でわびしい思いをさせていたことは、気付いていた。それで、気分転換にと、船に積み込む他にも、肉や酒を調達させたのだが、そのなかでアリアドネが最も興味を示したのが、ナクソスの葡萄酒だった。そのときに気付くべきだったのだ。

「テセウス様、テセウス様!」

 少し離れた茂みから、低く呼ぶ声があった。振り返ると、メートスが暗がりから手招きしている。幼いころ共に育った間柄で、今回の生け贄行にも志願し、将来はテセウスの側近として期待されている。

 テセウスはおのれから注意が外れていることを確認し、すばやくメートスのいる暗がりまで急いだ。

「どうした、メートス」

「テセウス様、あの方を、アリアドネ様をアテナイに連れてはゆけません。この島においていきましょう」

 メートスは険しい表情で決然と言い放った。

 テセウスは驚いて反駁する。

「何を言う、メートス、そんなことできるわけがないだろう」

アリアドネは大国クレタの王女だ。たとえ父王を裏切り、兄ミノタウロス殺害に手を貸したとしても、世間知らずの娘にすぎない。見知らぬ島に一人置き去りなど、見殺しにするようなものだ。

 こぼれ落ちるような星空を奇声が裂いた。アリアドネだ。浴びるように飲んでいる。

 メートスは渋面を崩さない。

「葡萄酒に惑わされてあのように狂態を晒す方を、貴方様の・・・、否、わがアテナイの王妃として迎えるわけにはまいりません」

 アテナイの人々は質実剛健だ。知性、理性を重んじる。その代表のようなメートスにそう言われてしまっては、テセウスも強く反論はできない。王といえども民の意に反することはできない。王は民あってのもの。民意に背き、支持を失えば、王はたちまち王でなくなる。

「しかし、・・・・・」

 そう簡単に、肯うわけにはいかない。

 寄る辺ない少女を、見知らぬ島に一人、見棄てよというのだ。

 少々羽目の外しようが過ぎるというだけで、そんな人倫に悖る行為をみとめるわけにはいかない。まして彼女は、単身ラビリントスに乗り込む彼に剣を授け、糸玉で導いた、命の恩人なのである。

 どうしたって、受け入れることはできない。ミノス王がアテナイの若者を生贄として差し出させる非道を難じ、ミノタウロスを退治して英雄として帰還しようという矢先、そのような非人道的な行いは、考えるのも汚らわしい。

「テセウス様」

 メートスは、ずい、と身を乗り出した。

「お継母ぎみ、メディア様のことをお忘れですか。」

 テセウスはぎくりと身をこわばらせた。

 それは、昔語りというにはあまりに近い、まだ人々の記憶にあたらしい出来事だ。

「お父君アイゲウス王の後添いとして迎えられたメディア様は、もとをたどれば東方コルキスの王女であられた。そこに現れたアルゴナウタイの首魁であるイアソンに心を奪われ、金羊毛を得させるため、父王を裏切って数々の試練に打ち勝つ魔術をイアソンに施した。そしてイアソンのアルゴナウタイとともに国を出奔し、あまつさえ、弟を切り刻んで追手をふりきった。イオルコスにでは王位を譲ろうとせぬぺリアス王を魔術で惑わせて煮殺し、さらにコリントスでは恋敵となったグラウケ王女を炎で焼き殺し、アテナイに到っては貴方に毒を盛ろうとした。いまではもとのコルキスに逃れ国を建てているとも聞きます。異邦の王女、まして魔法に長けた魔女は、我々にとってよい印象はございません」

男が故郷を遠く離れた試練の地で、その地の王女とめぐり逢い、その助けを得、目的を達する。王女は国を棄て、男に従って出奔する。

 状況はよく似ている。アリアドネは、自身が魔法に長けているというわけではないが、無限に糸を繰り出す糸玉を持っていた。

「しかし・・・・、」

 テセウスはかぶりを左右に振った。アリアドネは、悪名高い継母メディアと同列に考えるには、あまりに可憐で、純粋にみえた。少々、酒癖が悪いといっても・・・・、

「ひゃっはー!まだまだいけるよーっ」

 陽気な嬌声が、星空までたちのぼった。

「テセウス様!」

 メートスは優柔不断な主を追い詰めるように迫る。テセウスは視線をそらし、弱々しく頭をふる。

「・・・・しかし、我々は英雄としてアテナイに還るのだ。恩人である王女を見知らぬ島に一人置き去りにし、見殺しにするような真似は人心が離れよう」

 確かに酒におぼれての狂態は、目に余るものがある。しかし、だからといってそれが、無垢な少女を見殺しにする理由になりうるか。否、それはない。アテナイを守護する女神は、必ずその非道をご覧になり、それにふさわしい罰を下されよう。

 クレタ脱出のおり、テセウスがアリアドネを伴ったのは、兄殺しの片棒を担ぎ、裏切り者の誹りを免れなくなった王女への気遣いであり、ラビュリントスから生還させてくれた女性への感謝であり、クレタの王女であるがゆえに何らかの恩恵があるかもしれないという打算だった。エロースの黄金の矢はアリアドネの胸を射抜いたようだが、テセウスは残念ながら冷静だった。

 メートスは一瞬言葉に詰まった。このクレタ行きで、テセウスの名声はいやがうえにも高まり、国内の反対派を抑え込むことができる。しかし、王女を一人ナクソス島に置き去りにすることは、後々の禍根になりうる。

 沈黙が闇を支配した。遠くでは何やら手拍子と歌が始まっている。明々と天を焦がす炎。

「わかりました、では私が残りましょう」

 テセウスは目を瞠る。

「王女の生活に不自由が無いように・・・・、そして頃合いを見計らって、クレタ島へ送り届けます」

「メートス・・・!」

 メートスの才覚ならば、テセウスは信頼して任せることができた。テセウスは、迷宮ラビリントスの前で糸玉と剣を差し出したアリアドネに縋ったように、メートスの申し出に縋った。

「夜闇に紛れて出航してください。王女に気取られぬように。水夫頭に帆を張らせ、いつなりと碇を引き上げられるよう準備させます」

「さすがに目立つのではないか?」

 いかに泥酔していたところで、目の前の沖に停泊している船が帆を張れば、いやでも目に付く。メートスは顎を撫でた。

「……漆黒の帆があります、アイゲウス王より託された。あれならば夜目に紛れることができるでしょう」

 アテナイを発つときの話だ。テセウスの父アイゲウス王は、一行に漆黒の帆を与えた。もし事が不首尾に終わり、テセウスが還らぬ人となったときには、喪を表す漆黒の帆を張って帰航するようにと。

 闇夜に黒い帆であれば、気付かれることはない。

「ひとまずナクソスを離れるあいだ、目くらましとなってくれればよいのです。アテナイに近づいたら、帆を張りなおされますよう」

 力強いメートスの言葉に、テセウスは、戸惑いを残しながらも頷いた。

 メートスはテセウスを安心させるよう、テセウスの両肩を両掌ではさみ、笑んでうなずいた。

「勇をもって知略を廻らす者には、アテナ女神の加護があります。テセウス様はまずは輪に戻り、頃合いを見て王女を臥所へ。私は水夫頭に指示を出してきます。他の者にも、すぐに動けるよう根回しをしておきますので、お気遣いなきよう」

 テセウスが頷いて、焚火に向かうのを見届けてから、メートスは暗がりに消えた。細い月と満点の星がたくらみの証人となったが、アリアドネの耳に告げる者はなかった。


 

3.曙

 

 揺れない陸で眠るのはやはり心地よい。ましてや、美味しい葡萄酒を飲んで、愛しい人の胸で眠れるからには。

 そう、愛しい人の、、、


 空虚な感触に、アリアドネはがばっと起き上がった。

 臥所は、もぬけの殻だった。天幕のなかには人の気配がまるでなく、アリアドネは慌てて外にまろび出た。美しい白い砂浜には穏やかな波がうちよせ、遙か沖まで青く澄んだ海が続いている。水平線はゆるやかな弧をえがいている。

 船が無い!

 アリアドネは驚きのあまり息をのみ、慌てて他の天幕もみてまわった。すべて、人の気配はなかった。

「あ、あ、あ・・・・・・・・」

 呼吸が荒くなり、アリアドネはひきつけを起こしかけた。

 恐慌が頭をぐるぐるとかきまぜて、冷静な考えなどいっさい浮かばなかった。

 置いて行かれた、置いて行かれた、置いて行かれた・・・・・?

 自分でも思ってもみなかったような絶叫が、全身からほとばしった。そうしなければ、意識を保てない、本能が自衛のために吐き出した魂の叫びだった。

 気が付けば、アリアドネは砂浜にひざをつき、砂を握りしめていた。ぽとぽとと、砂に水滴が落ち、水滴は染みになって、ただちに吸い込まれた。

 大粒の涙。私、泣いている。私、泣いている。なぜ、泣いている。置いて行かれたから?

 置いて行かれる、というのが、よくわからなかった。取り残される、というのも。いままで誰からもそんな扱いをうけてことはなかった。誰かがそばにいて、姿が見えなければつねに探され、気遣われていた。一人残されて立ち去られるということ、それは、本当のところまだよくわからないが、息をするのも困難なほど辛く悲しい。

 アリアドネはふらふらと立ち上がり、砂をざくりざくりと踏みながら、入り江を囲い込む岩場へと歩いていった。少しでも高いところにのぼれば、遠くに、そう、これは何かの間違いで戻ってきてくれる船が見えるのではないか、そう思って。

 あしもとはかなり悪く、サンダルが滑らないように気を付けなければならなかったが、アリアドネはおそれもなくその岩場の突端まで行きついた。危険など、顧みる気働きは、アリアドネには残されていなかったのだ。

 一望のもと、紺碧に透き通り果てしなく広がる、ポセイドンの支配するところ。

 圧倒的な海の青に胸を突かれて、アリアドネは再びそこにへたりこんだ。

 何が、何がテセウス様のお気に召さなかったのだろう。アテナイから到着した船に、ひときわ聡明そうな、ひとめみただけで水際立った風貌の青年をみそめた。彼が最初にラビリントスに送られると聞いて矢も楯もたまらなくなった。王女の宝具として与えられている無限に続く糸玉と剣を持って、その入り口で彼を待った。そして、再び会えることを信じて、糸の端を彼に巻き付け、ラビリントスに見送った。

 そうして頼んだのだ。ミノタウロスは母パシパエの胎になる兄。殺してしまったからには、父ミノス王の怒りを免れえない。だから、アテナイに連れて帰ってほしいと。

 テセウスは優しかった。知的で、理性的で、常に穏やかだった。

 両肩に置かれた手のあの温かさも、背に触れるか触れないかで感じられた躰の熱も、もう二度と与えられることはない。

 ぐらり、と世界が回った。

 アリアドネは、意識を手放していた。不安定な狭い岩場の上で、木の葉が舞うように、彼女の躰はぐるりと傾いだ。


「危ない!」

 離れた茂みに身をひそめて、事の成り行きを見守っていたメートスは、思わず身を乗り出して叫んでいた。あんなところでくずおれては、岩で頭を打ち、崖の下におちてしまう、そんな事までは望んでいない!

 しかし、アリアドネの躰は、宙にとどまった、かのように見えた。どこからともなく現れた男が、アリアドネを抱きとめていた。

 男は、相当な距離があるにも関わらず、メートスの存在に気付いているようだった。彼は振り返ると、確実にメートスを視線の先に捉え、去れ、と命じていた。その髪には葡萄の蔦が飾られている。

 メートスはいてもたってもいられず、まろぶようにしてその場を離れた。

 ディオニソスの・・・・ディオニソスの神!!


 良い薫りがした。馥郁と、躰中を満たす幸せな薫りに包まれている。

 そして、じわりと汗ばむ熱。絶望の淵に追いやられ、何をする気力も失っていたアリアドネだったが、その熱が、こちら側へと引き戻した。

「こんなとこで気を失うと危ないよー」

 聞いたことのない男の声に、アリアドネはハッと我に返り、はじかれたように、預けていた身を起こした。若い、陽気な男の顔が近くに合った。

「あ、あのっ!」

 男はにっこりと笑んだ。

「昨夜はいい飲みっぷりだったねー、葡萄酒、好き?」

 昨夜、昨夜は久しぶりだったし、少々度を越して飲んでしまったかもしれないが。その、いい気持で飲んでいた結果どうなったかに思い至り、アリアドネは涙が湧きあがってくるのを止めることができなかった。

 ぼろぼろ、ぼろぼろと泣いて言葉を失うアリアドネに、男は困ったように首を傾げた。

「あー、まあ、お連れさんは行っちゃったねー。でも私は君の飲みっぷりが気に入っちゃったんだなー」

 そうして、手にしていた杯をくい、と傾ける。

 この人は、何者なのだろう。全身から、いい薫りがしている。黒い果実のような、花のような、ミントや、燻製に用いる香木、そういう薫りが交互にたちのぼって、酔いそうになる。その頭に飾られた葡萄の冠・・・・。

「ディ・・・・・ッ!?」

 恐れ多くも神の名を口にしそうになって、アリアドネは息をのみ、喉がヒュッと鳴った。

「うん、そう、ディオニソス。君の飲みっぷりが気にいっちゃったからさ、どう?あんな薄情な男のことは忘れてさ、私のお嫁さんにならない?」

 アリアドネの傷ついた心は、ディオニソス神の笑顔にとろとろと溶かされていった。ディオニソスは杯を掲げ、彼の司るものを口に含むと、祝福として妻となる女に与えた。


 さて、アテナイへの船路にあるテセウスは、後悔と自責の念に苛まれていた。メートスの熱意にほだされて、王女アリアドネをナクソス島に置いてきたが、やはり間違っていたのではないか。

 その思いに絶えずとらわれて、常に胃がきりきりと痛み、ひたすら船室によこたわっていた。

 アテナイが遠くに見えはじめると、乗組員も同行した若者たちも、一様に浮足立ったが、テセウスはつきまとう後悔から離れることができず、入港まで休むと水夫に言い渡して、部屋にこもってしまった。

 そして彼は、父との約束を失念したのである。

 生きて還ったならば白い帆を。

 ミノタウロスの前に斃れてしまったならば、黒い帆をあげて帰港するようにとした約束を。

 息子の固い意志に負けて送りだしたものの、その危難に日々気を揉み、船の帰還をいまかいまかと待ち望んでいたアイゲウス王は、港からもたらされた知らせに仰天し、ただちに港へと奔った。

 最も遠くまで見晴るかすことのできる岬の突端に立ち、とりわけ目の良い者が指し示す方角を凝視し、何度も瞬きをして事の真偽をたしかめようとした。

 最初は豆粒ほどに小さかった船の姿が、次第に大きくなってくる。

 と同時に、最初は見間違いであろう、遠いせいであろうと思いなおしていたものが、厳然と呈示されてくる。

 不首尾に終わり、果敢なくもハデスのみもと、大地の奥深き冥府に降ったならば、黒い帆を張るがよい。

 なぜ、あのような事をしたのか。

 悲嘆にくれたとて、時すでに遅し。アイゲウス王はよろよろと船に近づいた。すなわち、岬の、崖の端へと。

「アイゲウス王!」

 誰かが叫んだ。アイゲウス王の躰は、崖の上から波打ち寄せる海へと落下していった。

 ゆえに、この海をアイゲウス(aegius)王の沈んだ海、すなわち、エーゲ(aegean)海と呼ぶようになったという。




【考察】

 この作り話は、王女メディアとの類似(英雄が連れ帰る異国妻)、なぜテセウスがアリアドネを棄てたのか、ディオニソスの妻となったからには酒乱だったのではないか、などなどの疑問や推測をつなぎ合わせたものである。

 ネットで検索すれば、アリアドネに関する記事はたくさんヒットする。いわく、アリアドネの意味は「最も聖なる娘」であり元は女神であったとか。


① では、なぜそのアリアドネが、クレタ島のミノタウロスと結びつけられたのか?

 アリアドネが元から女神で、ディオニソスの妻たる神格を持っていたのだとしたら、なぜクレタ島のミノタウロスや、テセウスと結びつけられたのだろうか。敵地で窮地に陥った英雄を助ける王女は、よくある物語のパターンではある。


② アリアドネのもつ糸玉は、何を意味しているのか?

 アリアドネの糸。ギリシャ神話に詳しくなくても通じる寓意だが、なぜ彼女はその糸玉を持っているのか?糸紡ぎは女性の重要な仕事で、機織りに関して言うと、女神アテナとアラクネの有名な神話がある。しかし、アリアドネの糸に関しては、ディオニソスと関連して、ぶどうの蔓が無限に伸びる豊穣のイメージなのだろうかと無理やり推測してみる。


③ アリアドネは本当にクレタ島と関連があったのか?

 ①の問いと重なるが、テセウスはこののち、パイドラーという、アリアドネの妹にあたるミノス王の娘を後妻に迎えている。アリアドネがナクソス島に置き去りにされた経緯には、アリアドネがテセウスに捨てられたためにディオニソスが迎えたという話と、アリアドネがディオニソスに見初められ攫われたのでテセウスが去ったという話の2パターンが伝えられているけれども、娘にそんな仕打ちをされたら男親は他の娘を同じ男に与えるだろうか。しかも当時文明の中心はクレタなので、辺境の王子にこだわる理由もない。テセウスの物語はいくつかのエピソードが集められていると思われるので、何代かにわたるアテネの別の王の逸話なのかもしれない。


 なお、ディオニソスは葡萄飾りを頭につけた髭の中年男性として描かれることが多いのだが、今回に関してはカラヴァッジョのバッカス(自画像との説あり)のイメージを用いさせてもらった。



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