宙棲進化【5/8】進出 (2016s)
宇宙に進出する時、煩わしくなるのが移動時間でしょうね。
月まで、3~4日? なんやかんやで5日は掛かるのでしょうか。まあ、月に行くのですから我慢しましょう。
でも、火星までは2年2ヵ月の会合周期に合わせ、8カ月の時間を掛けて行くことになるのでしょう。これは、長い!
ロケットをバリバリ噴射してスピードを上げれば短くなるでしょうが、その分、燃料が必要になりますし、火星到着時の減速も激しいものになります。
慣性飛行に頼っていてはいけません。
やはり、時空と跳ばないと距離と時間の問題は解決しないでしょう……
そうした革新技術は、どうやって開発されるのか? 私ごときが知恵を絞ったところで、何の意味もないのですが……
●登場人物
■井川昌吾(32)ISA職員(運営管理部)
□野上幸治(64)物理学者
プロローグ
広い部屋の雛檀席は人で溢れていた。スーツ姿の年配の男性が多い。皆、正面の巨大なマルチディスプレイに注目している。
そこには天井の高い工場のような建物の中が、幾つものカメラによって写し出されていた。どれもワイヤーロープで吊るされた円筒形の容器を捉えている。映像からは、その専用容器の大きさがわからないが、高さが三メートルほどある重厚な造りだ。天井部のクレーンでゆっくりと建物の中心部に運ばれていく。各所で赤いパトランプが回っているが、どの映像にも作業員の姿は映っていない。遠隔操作による作業だった。
高さ七メートルほどの細長い板状の装置が何枚も円形に並ぶ。その一箇所が開いており、円筒形の専用容器が擦り抜けるように板状装置の中心に運ばれた。周囲を丸く取り囲む。どのカメラの映像にも、板状装置の背面しか映っていない。
装置が始動した。
しかし、雛檀の部屋ではその気配を感じることはできなかった。距離がある。
唐突に全ての映像が激しく揺れた。建物や板状装置も振動し、周辺の埃が舞い上がる様子が映った。もし、雛壇施設の外にいたら、空気を切り裂く爆音が聞けたはずだ。施設の中では遠くの騒音のように聞こえる。
やがて、囲っていた板状装置が開き、カメラがその中を写す。しかし、入っているはずの大きな専用容器はなかった。空っぽだ。天井のクレーンから垂れ下がったワイヤーロープは、途中で断ち切られており、ゆらゆらと揺れていた。それを見た雛壇の人から歓声があがり、拍手が鳴り響く。
手品ではない。
円形装置の内側が空間ごと飛ばされたのだ。
放射性廃棄物が詰まった専用容器は、時空を越え、一瞬のうちに太陽近傍まで転移していた。後に、円筒形容器に取り付けられた電波発信器がそれを証明する。そして宇宙に飛ばされた容器は強力な重力に引っ張られ、灼熱の炎に焼かれて消滅することになる。
一
そこは日本の現状を象徴するような南海の孤島だった。
かつては、この島にも住人がいた。しかし、少子高齢による人口減少によって無人の島となってしまった。打ち捨てられ廃墟となった集落が、二二世紀の今も残っている。
その島全体を日本政府が買い取り国有化した。革新的科学技術の研究試験場にするためだ。
漁港だった入り江は整備され、中型の船も利用できるようになる。そこから幾らか離れた場所に大型の貨物船が着岸できる埠頭が造られた。海岸道路も広げられ、一方には場違いなほど大きな火力発電所が建ち、もう一方には研究試験のための建物が並ぶ。島の内陸部に、ここで働く人たちの小さな街ができ、反対側には小型旅客機が離発着できる滑走路が完成した。
こうして、放射性廃棄物太陽投棄最終処分装置の研究開発が本格始動する。
前世紀、電力の供給を原子力に頼った日本は、放射性廃棄物の最終処分に苦慮することになった。
地下深くに埋め、十万年という長期の保管をする最終処分場の計画は、候補地周辺住民の激しい反対により難航する。そこで地震が多く国土の狭い国内ではなく海外にその地を求めたが、核のゴミを拡散する行為に世界の国々は強く反発した。結局、日本各地の一時保管所に放射性廃棄物が溢れることになる。
厄介な核のゴミをどう処分するか……
地球がダメなら宇宙、ロケットで太陽に放り、焼却処分すればいい。ただ、その安直な意見には問題も多い。もし、ロケットの打ち上げに失敗したら、放射性廃棄物を撒き散らすことになる。それにコストもバカにならない。しかし、太陽に投棄するアイデアは捨て難かった。
ならば、時空を飛び越して直接太陽に投棄すればいい!
その突拍子も無い発想は当初一笑に付されたが、その後に発表された時空跳躍理論には目を見張るものがあった。本当に、こんなことが可能なのか……
放射性廃棄物太陽投棄最終処分所の所長であり物理学者の野上幸治は、自身の娘より若いと思われる女性記者を応接室に招き入れた。権威ある科学雑誌の取材だ。
「すみません。お忙しいところ、お時間をいただいて」
「いえ、一頃に比べると余裕ができましたからね。今は、この施設の働きを皆さんに伝えることが大切と考えています。どうぞ、お掛け下さい」とソファーを勧める。
「装置の稼働は、ご覧になりましたか」
女性記者が座るのを待って、野上が尋ねた。
「ええ、先程……」
「どうでしたか?」
女性記者が困り顔を見せる。
「正直申しまして、実感が薄いですね。本当にあの核のゴミが太陽の近くまで飛んでいったのか。疑問と言うより、素直に納得できないですね」
その答えに野上は笑った。それは当然のことだろう。
「箱に入れた物が呪文を唱えると消えて無くなる……。よく耳にする話です。もっと実感できる観察方法があればいいのですが、難しいですね。どうやっても手品の真似事みたいになってしまいます」
「それだけ凄い現象なのでしょう。頭ではわかっていますが、実際に見てもピンとこない。もどかしいですね」
野上は、もう一度笑う。笑うしかなかった。
女性記者も微笑んでいたが、身じろぎをした後で表情を引き締めた。
「時空跳躍の発想は、何から得たのでしょうか」
「発想の根源ですか、難しい質問ですね……」と野上は思案顔になる。
「私は、宇宙の成り立ちについて長年研究をしてきました。宇宙は広大です。それは私たちが知覚できる世界だけの話ではなく、次元の広がりも加わります。宇宙の真の姿を理解するには、もっと高い次元から世界を眺める必要があります。そうした考えを続けるうちに、時空を跳び越える発想は自然と湧いてきました」
女性記者が険しい表情で頷く。その話に納得できないのかもしれない。
「もっとも面倒なのは、それを理論体系にまとめることです。難解な話があちこちに出てきますから……」
「ええ、私も読ませていただきましたが、到底理解できるものではないですね。正直、何を言っているのか、ちんぷんかんぷんです」
彼女の表情に野上は笑った。その話題が、これ以上続かないことを願う。
「太陽投棄装置の発想は、どこからですか」
その問い掛けに、野上はホッと息を吐いてから答えた。
「その質問は、幾らか簡単ですね」と笑顔を見せる。
「日本は、原子力発電から出る核のゴミ、放射性廃棄物が溢れています。地下に十万年埋設する最終処分場の計画も、近隣住民の反対によって実現しません。そもそも無理のある計画なんです。そこで何とか別の処分法を捻り出そうとした。太陽投棄法は、苦し紛れのアイデアなんでしょう。しかし、リスクもコストも高く現実的ではない。それを耳にして、ある会合で時空跳躍の話を口にしたんです。ロケットを使うより安全で経済的、実現の可能性は高いとね。半分は勢いで話したのですが、その話が一人歩きを始めてしまったんです。気付いた時には引くに引けない状況でした」
何度も頷いていた女性記者が口を開く。
「それで研究開発が始まったのですね」
「ええ。でも最初は、研究室レベルの小規模なものです。簡素な実験でしたが、物体の時空転移が可能なことを証明できたんです。そこからは目まぐるしく事が動きましたね。その結果が、この施設になります」
「今、どのくらいのペースで太陽投棄が行われているのですか」
「1日に、四本から五本のペースで最終処分をしています。まだ始まったばかりですが、一年三六五日、休みなしで取り組む計画です」
「一年で、一五〇〇本ほどですか……」
「ええ、日本は長年に渡って核のゴミを出し続けてきましたからね。完全に処分するには、この先何十年もかかります。面倒なのは、放射性廃棄物を密閉容器に入れ、ここまで運んでくることです。太陽に投げ込むのは大したことではありません」
「凄いですね……。それに核のゴミの太陽投棄を望む国は、日本だけではありませんよね」
「この施設の見学に、各国の政府関係者や電力企業の人たちが引っ切り無しに来ています。日本は、放射性廃棄物の最終処分を請け負う考えですから、今後そうした話がまとまるでしょう」
女性記者が大きく頷く。ひょっとすると、これは日本の独占産業になるかもしれない。この島の施設の建設費、運用費などは、瞬く間に回収できるだろう。
「今後の展望を聞かせていただきたいのですが……」女性記者は話題をかえた。
「展望?」
「ええ、時空跳躍理論の今後についてです。ISAが接触をしているという話ですが……」
どこで、その話を聞き付けたのだろう?
確かに、ISA(国際宇宙局)が時空跳躍理論の新たな応用について話を持ち掛けてきている。だがそれはまだ、公にはなっていない。
野上は上手く誤魔化すための言葉を探していた。
「すみません、質問をかえます。時空跳躍理論を応用し、宇宙船を建造することは可能でしょうか。たとえば、火星の近くまで跳ぶような……」
野上は顔を顰めたが、答えないわけにはいかない。
「理論上、可能ですが、太陽投棄装置には無い幾つかの問題を解決しないといけないでしょう」
「その問題とは、どういったものでしょうか」
野上は鼻から息を吐く。
「太陽投棄は時空跳躍理論の応用としては粗削りな手法です。取り扱うのが廃棄物ですから少々手荒に放り投げても問題はありません。しかし、人が乗る船を時空に跳ばす場合、慎重・丁寧に扱い、細かな点にも配慮しなくてはなりません」
「細かな点とは、どういうことですか」
矢継ぎ早の質問に、野上はもう一度顔を顰めた。彼女の取材目的はコレだったのだろう。
「廃棄物の目的地は太陽です。大きく、重力も強い。たとえば、跳躍の到達点が一〇〇〇キロ、二〇〇〇キロズレても問題にはなりません。太陽の強い重力に引き寄せられ、やがては炎に焼かれるでしょう」
野上はそこで間を空け、その首を横に振って見せた。
「しかし、火星を目指す場合、一〇〇〇キロ、二〇〇〇キロのズレが大きな問題になるかもしれません。それにもう一つ、ただ跳躍するのではなく、到達時にそのエネルギーを上手く利用して船を火星に向け適当なスピードで押し出すような工夫が必要です。闇雲に跳躍し、火星とは反対の方向に飛び出すようなことになったら、船の進行方向を変え火星に向かうために大量の燃料が必要になるでしょう。それは現実的ではありませんし、そうした燃料を船に積むようでは意味がありません」
「跳躍精度や、その制御に更なる配慮が必要になる。つまり、難度が上がるということですか」
「ええ、そうなります」と野上は頷いた。
「そうした問題は解決できますか」
「研究を続けないといけませんね。実用化には時間がかかるでしょう」
「そうですね。人が乗ることになると、高い安全性や信頼性が不可欠ですからね」
野上は無言のまま、もう一度頷いた。
「でも、時空跳躍船の実現に向けて研究を続けるのは有意義なことです。おそらくISAも、そう考えているでしょうね」
そう言い、女性記者は微笑んだ。
二
フェリーのオープンデッキに立ち、井川昌吾は前方の島影を見詰めた。ようやくの到着だ。
放射性廃棄物太陽投棄最終処分所がある島への定期便は、週一往復のフェリーだけだった。物資輸送が主な目的だ。島には小型航空機が離発着できる滑走路があるが、そこを利用するには飛行機をチャーターしなくてはならない。井川は、そんな身分ではなかった。
手狭な港にフェリーが入り、専用埠頭に横付けする。車両ハッチが開口し、荷物を降ろす作業が始まった。井川はキャリーバッグを引き小人数の乗客とともに下船した。島を巡回する小型のバスに乗る。
「御苦労さまです。お疲れになったでしょう」
小ぢんまりとした応接室で待っていると、六十を過ぎた男性が入ってきた。所長で物理学者の野上幸治博士だ。
井川はソファーを立ち、挨拶する。
「船旅なんて初めてです。外洋は波が高く、船酔いしてしまいました。陸地に降りることができて、ホッとしています」
「大変でしたね」と野上は笑う。
「でもそれは、一つの洗礼と言えますね。ここで働く者は皆、それを経験しますから」
野上が対面のソファーに座り、井川も再び腰を下ろした。
「航空機の定期便があると助かりますね」
「以前は、あったのですよ。でも、それほど人の行き来がないものですから、廃止されました。飛行機を利用するのはお金がある、お偉いさんですね」
「私のような下っ端は、時間をかけ船酔いして、ここに来るしかない、ということですか」
「頑張って出世してください」と野上が微笑む。
「そう言えば、先日、科学雑誌の取材を受けたのですが、ISAの動きを知っていましたよ」
「そうでしたか。どこからか漏れたようですね。もう少し話がまとまってから発表する予定でしたが……」
ISAとしては跳躍宇宙船の研究開発より、より強大な組織として再編する一大事業の方が重要だろう。政治的な問題が絡むこともある。しかし、ISA運営管理部の職員である井川には、あまり関係のないことなのかもしれない。
井川とは、先日、野上がISAを訪ねたときに会っていた。同じ日本人として話が弾む。それを見ていた誰かが、井川に先遣の任を与えたのだろう。この後に訪ねてくる本隊の露払いをするためだ。まだ若い職員で、今回のような単独での仕事は初めてだと興奮し、やる気を漲らせ連絡をしてきた。
彼は次のフェリーが出るまで滞在し、島のあちこちを見て回り不備のないよう準備を進めることになる。
「これからどうしますか」と野上が尋ねた。
「施設の方は、明日、案内していただくことになっていますので、今日は街に行って、まず、ねぐらを確認します」
「そうですか。日本仕様の狭い部屋ですし、窓からの眺めもよくありません。期待しないでください」と笑う。
「でも、フェリーの寝台よりマシでしょ」と井川も笑みを返した。
「ともかく、ゆっくりと見ていってください」
「ええ、島の隅々まで見させてもらいます……」
そこで井川は表情を引き締めた。
「あの……、一つ質問をしてもよろしいですか」
「もちろん。何です?」
「その……、彼らはこの島に居るのですか」
その問い掛けに、野上は眉を顰めた。
「彼ら……?」野上は惚けつつも、井川の顔を睨むように見た。
井川はその視線を受け止め、しばらく耐えていた。
「……いえ、その件は、また別の機会にお話ししましょう。どうも、お時間を取っていただき、ありがとうございました」
井川は立ち上がり、頭を下げた。壁際に歩き、キャリーバッグを掴むと応接室を出て行く。
一人残った野上は、まだ眉を吊り上げていた。
ISAも、それに気付いている。
当然だ。時空跳躍理論は難解過ぎる。生身の人間の頭脳では、その真髄を理解できない。
ISAの目的は跳躍船の研究開発より、彼らが持つ膨大な知識と優れた知能ではないのか……
野上はそう思い、低く唸った。
三
早朝のハブ空港を発った小型旅客機は大洋を越え、南海の孤島にある滑走路に着陸した。案内役の井川昌吾を含め、乗客は十名だけだった。
タラップの先で、数人が出迎えてくれる。
先頭に立つのは、放射性廃棄物太陽投棄最終処分所の所長、野上幸治博士だ。幹部職員や日本政府関係者の顔もある。タラップを降りたISA関係者の一人ひとりと挨拶を交わした。
出迎えの人を含め全員が小型バスに乗り込み、最終処分所へ向かった。
井川が太陽投棄装置の稼働を見学するのは二度目だったが、初めての九名にも目新しさはなかった。事前に目にした記録映像と同じものが、雛壇の先のマルチディスプレイに表示されているだけだ。
ディスプレイの一つに、今し方消失した廃棄物の転移先が太陽を中心にした図表に示された。観測した時空の揺れを、人が認知できる三次元座標に換算したものだ。
「あれは本当でしょうか。確認する術がありませんからね……」と誰かが小声で言う。
「今回は電波発信器を付けていませんからね。でも、抜き打ち検査のように発信器を付けて、跳躍先の確認をしています」
「それに、初期試験で通信機材を詰めた容器を太陽系の各所に送っている。そのうちの幾つかは、今も電波望遠鏡を向ければ信号を捉えることができる。実証は、されている」
「しかし、試験運用の段階で幾つかの機材が所在不明になっているようです。どこに飛んでいったのかわからない」
「初期運用に不備があったのか、このシステムが持つ不確定要素なのか、判断は難しいですね。いずれにしても不可解な装置です」
一行は雛壇の部屋を出て会議室に向かった。食事が用意されている。処分所関係者の日本人と様々な国籍のISA関係者が向かい合って座り、昼食を始めた。
「正直に申しまして、あの装置がどういう理屈で動いているのか理解に苦しみます。何か、モヤがかかったような感じですね……」
と一人のISA関係者が食事の手を止めて言った。他の来客が頷く。その中には物理学に精通した科学者もいる。
「どのようにすれば、理解できるのでしょう?」
その問い掛けを向けられた野上は、声を出すことなく笑った。
「おそらく、世界の中で時空跳躍理論を理解しているのは、野上博士、あなた一人だと思います」
褒め言葉に聞こえるが、その口調にはトゲがあった。
「理解不能、難解な理論を用いる研究に着手するのは、躊躇があります」
その言葉に頷く人がいる。食事を止めた野上の顔は強ばっていた。
「この一件で気になるのは、ある噂話です。残念ながら我々は、それを一蹴することができません。野上先生も、お察しですよね……」
会議室の中は、重苦しい空気で満たされた。全員が食事をやめている。
身じろぎをし、凝り固まった体を解した野上が口を開く。
「それは、太陽投棄の関係者の中でも限られた一部の人間しか知らないことです。それを承知し、他言無用を約束していただきたい」
リーダー格の年配の男性が頷く。
「ここにいる人間は、そうした機密情報の扱いを身に付けた者です。機密保持を確約します」
野上はその言葉を信じ、頷いた。もう、話さないわけにはいかない。
「皆さんの推測通り、時空跳躍理論を発想し構築したのは、私ではありません。肉体を捨て、精神だけの存在となった思考体と呼ばれる科学者集団が創りあげたものです」
会議室がざわめく。
「彼らは本当に存在する。機能を停止したわけでも、消失したわけでもない……」
野上が頷く。
「はい。思考体に加わったのは、大半が二一世紀の科学者です。従って今世紀の科学界には、それに纏わる噂が数多く残っていますが、彼らはその存在を隠し巧妙に振る舞ったため、真偽を確かめることはできません。噂が噂を呼び、誤った話も少なくないようです」
「巧妙に姿を隠してきた彼らが、太陽投棄に手を下したのはなぜでしょう?」
野上は首を横に振る。
「わかりません。彼らがそうした心情を語ることはありません。尋ねても答えてくれません。ただ、私は、彼らの生誕が関係していると、個人的に思っています」
「生誕……? それは、どういうことですか」
「思考体が生まれたのは、二一世紀の日本です。この国から始まりました。ご存じのように、私たちの国は数々の問題を抱え衰退しました。きっと、生まれ故郷の国に支援の手を差し伸べたいと思ったのでしょう。もちろん、彼らが機会を窺っていたのは間違いないと思います。いつまでも身を隠しているわけにもいきません。密かに準備を進め、チャンスを待っていた。放射性廃棄物の太陽投棄がそれだったと思っています」
「身を隠していた彼らが、太陽投棄の一件を機に表立った活動を再開させた……」
「ええ、そう思います。しかし、人目を引くような真似は避けています。二一世紀に彼らが身を隠すことになったのは世間の注目を集めたからです。人々は、豊富な知識と優れた知能を持つ彼らを妬み、恐れ、嫌った。思考体は同じ過ちを繰り返さないために、極力、隠密行動を心掛けているようです」
何人かが頷く。その心情は理解できたのだろう。
「そのような思考体が、跳躍船の研究開発に協力してくれるのでしょうか」
一人の男が心中に広がるその疑念を野上にぶつける。
「太陽投棄が一つの切っ掛けであることは間違いないでしょう。そこから次のステップに進む場合、時空跳躍理論を応用する宇宙船の研究開発は、最も相応しいテーマだと思います。いずれはその方向に進むでしょう。ただ、気を付けないといけないのは立場の違いだと思います」
「立場の違い……」
「ええ。時空跳躍理論を理解しているのは彼らの方です。生身の人間の頭脳には難しい。主導権を握るのは向こうです。それに少しでも協力する立場にあるのは私たちの方です。太陽投棄はそうした関係で進められ、成果が出て、恩恵を得ることができました」
リーダー格の男が低く唸った。顔を顰める。
「その関係性を嫌って無視すると、彼らは別な手段を講じて跳躍船の研究に着手する。そうなると我々は蚊帳の外だ。それは避けないといけない……」
「そうなる可能性はありますね」と野上が不安を煽った。
リーダー格の男が再び唸る。
「ともかく、食事を済ませましょう。その後で、太陽投棄の実情の一端をお見せします」
野上に促されたISAの面々は、顔を見合わせてから食事を再開させた。
野上は二階建の堅牢な建物に入っていった。ISAの客人が後に続く。
列の最後を歩く井川も、初めて入る場所だ。他の処分所の関係者は、いつのまにか姿を消していた。
エントランスを抜けると、真っすぐな通路の両側に部屋が並ぶ。ガラス窓があり中を覗ける場所がある。その部屋の中には、数多くの機材・装置が雑然と並び、数人が作業をしていた。何かの製作室……あるいは研究室か、と井川は思う。
野上は、そうした部屋を見ることなく奥へと進む。正面の壁には、他とは違う重厚な造りの扉があった。壁際で野上が個人認証を行うと、ガチャリと金属音が響きその扉が開いた。室内の照明が点く。
吹き抜けの窓一つない殺風景な部屋。その中央部に大きな箱型の構造物がある。幅、奥行きが五メートルほど、高さ四メートルほどのどっしりとした造り。外装板にはスイッチやランプなど何一つ無いが、その回りに集まった人は、ただならぬ気配を感じ、呆然と眺めていた。
「これは何ですか」と一人が尋ねる。
「これが放射性廃棄物を太陽へ跳ばしています」と野上が答える。
「太陽投棄装置のコントローラーですか」
「まあ、概念としてはそうなりますが、実際に何をどうやっているのか、私は知りません」と野上は天を仰ぐ。
「その……、午前中に見た、板状の円形フィールドが時空転移装置の本体ですよね?」
「いえ、あれは一種の目印です」とあっさり否定する。
「目印……?」
「ええ、円形に囲み、その中の空間を跳ばすための目印になります。あの板状の装備に特別な仕掛けはありません。ここから高い次元を介して目印になる円形フィールドに作用を及ぼし、空間ごと跳ばしています」
井川も驚いた。てっきりあの板状装置に重要な機能があると思っていた。それなのに、単なる目印とは……
「重要なのは、この箱型の装置ですか」
「はい、そうなります。ただ、ご覧の通り、中を開く扉や外装板を取り付けた金具のようなものは見当たりません。つまり、箱の中を覗いたり、手を突っ込んだりすることはできない、ということです」
「この中を見たことがないわけですか」
「ええ、中に何があって、どうなっているのか、全く知りません」
「完全なブラックボックスですか」
「そうです。これには電源供給と通信用の端子があるだけです。そこに規定の電源を繋ぎ、取り決められた通信手順で跳躍の目標点などの情報をやり取りします。後は、跳躍実行のコマンドを送り、条件が整っていれば転移フィールドにある物がポンと跳んでいきます。操作は至って簡単ですよ」
「電源は、供給する電気エネルギーはどれくらいでしょうか。時空を跳ばすわけですから相当大きなものになると思いますが……」
「ええ、島にある大型の火力発電所をフル稼働させます。それであの円形フィールド内の空間を跳ばすことができます。ただ、ここに供給されているのは、この装置の動力となる比較的小さな電力です。跳躍に使う電力は、発電所に直結した放電設備から直接吸い上げています。これもまた、高い次元で操っているのでしょう」
「現在、太陽投棄は連日行っています。ここに来るまでの両側にあった部屋では、時空跳躍の現象を観測する研究に取り組んでいます。しかし、思うような結果が得られない状況です。私たちの科学技術のレベルは、その程度だと言えますね」
ISAの客人は一様に眉を顰め、ある者は腕組みをし、低く唸り、のっぺりとした大きな箱型装置を眺めていた。
「この先、皆さんが時空跳躍船の研究開発に着手するのなら、その核心はここと同じように生身の人間の手から離れたものになるでしょう。それは覚悟をしておいたほうがいいと思います」
と野上が寂しそうな表情で言った。
四
タラップを降り、井川昌吾は三カ月ぶりに南海の孤島に足を着けた。
日差しが眩しい。もう、すっかり夏だ。
仕事ではなく、できればバカンスで来たかった。ここは無人島の時期があったため、周辺は海洋生物の楽園になっているという。処分所の常駐スタッフの中には、休日になると海に潜る人もいるようだ。
羨ましい……
井川は、もう何年も前からダイビングのライセンスを取ろうと考えていたが、未だに実現できていなかった。
「井川さん、御苦労さまです」
列の最後にいた井川に、野上幸治が手を差し出した。額に汗が滲んでいる。
「野上先生、お手数をお掛けしますがよろしくお願いします」と皺の深い手を握る。
「今回は、人数が多いね」
「ええ、前回の倍、二十名です」
「それは、つまり、覚悟を決めた、ということですか」と野上が探りを入れた。
「そうですね。ただ、基本方針は随分前に決まっていました。でも、細かいことをあれこれ言う人がいますから調整に時間が掛かります。厄介ですね」
野上は、ハハハと笑い、バスに乗る列に加わった。
「ようやく、話ができることになって興奮していますよ」
「でも、全ての質問に答えるわけじゃないからね。肝要なことに限って答えないことが多い。がっかりするかもしれませんね」
「そうですか、困りましたね。今回のメンバーの中に、へそを曲げそうな人が何人かいます。面倒なことにならなければいいのですが」
バスに乗り、空いた席に並んで座った。
「彼らと付き合うのなら、そういうことが続くでしょうね。彼らは実直だが、その分頑固です。君の悩みが増えるでしょう」
そう言われ、井川は顔を顰めた。
「弱ったな、困りますね……」
全ての人が乗り、バスは走りだす。飛行場を後にして、放射性廃棄物太陽投棄最終処分所の中心施設へ向かった。
広い会議室にISA関係者が入ると、まず最初に所長の野上が挨拶をする。
「皆さん、御苦労さまです……」マイクを使って話し、頭を下げた。
「本日、皆さんのお相手をするのは私ではなく、思考体になります。ご存じのように、彼らは肉体を持ちません。従って音声のみの会話となります。前以て私のほうから、皆さんが抱かれるであろう疑問の一つにお答えします……」そこで野上は会議室の面々をぐるりと見回した。
「残念ながら、彼らはこの島にはいません」そう言ってから笑みを浮かべる。
「実は私も、彼らがどこにいるのか知りません。ネットワークを介し、会話をすることになります。それならばISAの会議室でできたじゃないか、などど怒らないでください。この先、良好な関係性が築けたらISAから会話をすることになると思います。いずれにせよ、どこにいるのかといった質問に彼らは答えません。その点をご承知おきください……」もう一度、会議室の中を見回す。
「では、ご紹介します。人類の英知の集結、思考体です」
少しの間があった。
「仰仰しいですね……」と男性の声がスピーカーから流れる。
「失礼しました。皆さん、こんにちわ」
その挨拶にISAの面々は戸惑った。対応に苦慮する。
「ご質問があるかと思います、どうぞ問い掛けてください……」と野上が促す。
幾らかざわついたが一人の男が手を挙げ、目が合った野上が頷いた。
「あの……、何とお呼びすればよいのでしょうか」
「すみません、名前は特にありません」と男性の声が答える。
「これは話し相手が混乱しないようにと造った音声です。特定の誰かの声ではありません。私たちは集合思考体です。意識の総和として皆さんと会話をします」
「元々は、個人の人格をエミュレーションするプロジェクトが始まりだと聞いていますが……」と質問が飛ぶ。
「はい。最初は一人の脳科学者から読み取った脳情報を利用し、その人格を再生する研究でした。当初は、その人格エミュレーターが主体でしたが、加わる人数が増えるにつれ、個々の人格再生よりも、集まった様々な分野の専門知識と数多くの異なる知能を融合し、より深い思索を行う場となるよう目的が変わっていきました」
「今、その思考体に加わっているのは、どれぐらいの人数になるのでしょうか」
「三〇〇人を越えています」
「その中で科学者は何人いますか」
「全員が科学者です」
「三〇〇人を越える科学者が、眠ることも疲れることもなく思索を続けているのですか」
「はい」
その一言に会議室がどよめいた。大勢の科学者が塊となって休むことなく研究に取り組む様を想い描く。そうなると、一個の生身の人間では太刀打ちできない。
「脳情報を読み取るときに、対象者が死に至るようですが……」
「はい。詳細な脳情報を得る際に、脳に致命的なダメージを与えてしまいます。結果、命を落とすことになります」
「そうした行為は、命を奪う犯罪的な取り組みだと禁止されていますが……」
「確かに多くの国で禁止されました。しかし一部には、そうした科学的アプローチに寛容な国があります。私たちは、そうした国で希望する科学者に思考世界へ加わる処置を続け、仲間を増やしてきました。もちろん、それを非難する声があることは承知しています。私たちが表立った活動を控えるようになったのは、そうした後ろめたさがあったからです」
会議室が騒がしくなる。ここにも何人かの優秀な科学者がいる。純粋な思考世界への憧れを持っていた。
「肉体を失い精神だけの存在となったあなたたちは、不老不死と言えますね。そして、休むことなく永遠に思索を続ける……」
気の遠くなる話だ。
「はい。その成果の一つがここにある太陽投棄装置です」
「その太陽投棄装置の先に、瞬間的に遠くの星まで跳ぶことができる時空跳躍船の実現があるわけですね」
「はい。ただし、その実現には幾つかの問題を解決しなければならないのも事実です。人が乗ることになる跳躍船の開発には幾つもの困難があるでしょう」
リーダー格の男が唸る。
「しかし、手を拱いていては実現は叶わない」
「はい、その通りです。まずは無人船を製造し、基礎的な試験を繰り返すことになります」
「プランがあるわけですね」
「ええ、もちろんです。詳細なプランがあります」
「私たちは、その詳細なプランに従って協力するということですか」
「はい。助力をお願いします」
「具体的にどんなことを手伝うことになるのですか」
「計画の初期段階において、月面に拠点を置くことになります。そこでの活動はロボットなどの無人機を使いますので、人が活動するために不可欠な設備などは不要です。ずっとシンプルな施設になるでしょう。そうした設備を地球で造ることになりますが、月まで運ぶ輸送手段がありません。ISAには、その点を補っていただきたいと考えます」
「物資輸送ですか……」
周囲の人と囁く声があちこちで聞こえる。その中から一人が声を張った。
「それだったら、試験船を地球で造り軌道上に打ち上げて組み上げた方が効率的ではありませんか」
「いいえ、時空跳躍船は非常に大きなものになります。様々なモジュールの製造、組み立て、後々のメンテナンスまでを考慮すると月面に拠点を構えるのが最善と考えます」
「そのお話は、月面に製造工場を建造するように聞こえますが……」
「はい。まず最初に製造・メンテナンス工場を月面に造ることになります」
「先程の話だと、その工場で働く人員は不要のようですが……」
「はい。全て機械装置にて稼働します」
「その月面工場についても、現実的なプランがある、ということですか」
「はい。現在足りないのは輸送手段です」思考体はその点を念押しする。
「しかし、大きな船を造る工場になると、そのための物資も大量に必要になります。地球から運ぶのは大変だ。コストもかかる」
「いいえ、地球から運ぶのは最初の段階となる小規模な製造工場の設備一式です。その後は、月面の資源を使い施設の拡充を図ります。小規模工場が稼働すれば、地球から運ぶ物資は限定された少量となるでしょう。大規模工場が完成してから跳躍無人船の製造に取り掛かります」
「小さな設備を運び、それを使って徐々に大きくしていくわけですか。壮大な計画ですね」
「はい。月面で使用する初期の機材や設備は、私たちが用意します。不足しているのは、それを月まで運ぶ手段です。なにとぞ、協力をお願いします」
会議室のざわめきが大きくなる。あちこちで周囲の人と顔を突き合わせ、小声で意見を交わす姿が見られた。
五
井川昌吾は、太陽投棄最終処分所の所長室のドアをノックした。
「井川です、よろしいですか」
中から野上幸治の声が答えた。
「どうぞ、入ってください」
扉を開けると、想っていた以上に乱雑な部屋だった。本や書類が多い。施設の所長というより、科学者の一面が色濃く出た部屋だ。
「帰ったかね?」
そう尋ね、書類が山積みされた机から正面のソファーを指さす。
「ええ、先程」
井川は指さされたソファーに座る。そこのテーブルは、奇跡的に物が置かれていなかった。
ISA視察団の一行は、チャーター機に乗り島を発っていた。最寄りのハブ空港まで飛び、そこで乗り換えることになる。井川はそれを見送り、再び施設に戻ってきた。
「感触は、どうなのかな?」と椅子を立った野上が尋ねる。
「細部について詰めなくてはなりませんが、大筋合意でしょう」
野上がホッと息を吐く。
「それは良かった。一安心だよ」と笑みを浮かべる。
「できれば、お酒で乾杯したいところだが、残念ながらここには無いのでね。インスタントのコーヒーで良ければ御馳走するよ」
野上はソファーのところではなく、湯沸かしポットのある壁際へ歩いた。
「ええ、頂きます」と笑みを見せる。井川も肩の荷が下りた。一段落だ。
「砂糖とミルク入りになるよ。悪いが、このパック詰めのものしかないんだ」
「構いませんよ」
飲み物に手間を掛けるような人ではないようだ。味や香りにこだわり、手間と時間を掛けて出されたコーヒーを気を遣って飲むよりいい。気が楽だ。
両手に紙コップを持ち、野上が来た。テーブルに置き、対面に座る。
「どうぞ」
「ありがとうございます」
井川は紙コップを手に取り、一口啜った。
「先生は、跳躍船の研究開発には加わらないそうですね」
「ああ、何の役にも立たないからね。私の役目は終わったよ」と笑ってから紙コップを口に運ぶ。
「それに、もう年だ。悪足掻きせず素直に引退しますよ」と言ってからコーヒーを啜る。
井川は返す言葉を探しながらコーヒーを飲んだ。
「もしかすると、思考体の精神世界に行かれるのですか」
と言葉にしてから、しまったと思う。出過ぎた問い掛けだったかもしれない……
「いや、お誘いがないからね。それにこれ以上、彼らと関わるのは御免だ。余生を家族とともに、のんびり過ごしたい」
「そうですか……」井川は言葉を詰まらせ、それをコーヒーを飲むことで誤魔化した。
「跳躍船への道筋が見えて気が楽になったよ。これできっぱりと縁が切れる。彼らは宇宙に出ることを望んでいたからね。これからは地球外での活動に重点を置くだろう」
「彼らはなぜ、宇宙への進出を望んでいるのでしょうか。地球では片身が狭いからですか」
「それもあるかもしれないな。しかし、それとは別に宇宙に強い関心があるからだと思う。答えは全て広い宇宙にある。小さな一つの星の中にいては、真理には近付けない」
「真理の探求ですか……」
「ああ、それが彼らの活動の原点なのだろう。常に考え続け、真実を探し求める……」
「何だか大変ですね。気が遠くなってしまう」
二人はそこで示し合わせたようにコーヒーを飲んだ。
「ISAの方は、この計画に加わって支障はないのかな? 大量ではないにしても、それなりに物資を月まで運ばないといけない」と野上が気になっていたことを尋ねる。
「そうですね。でも、ISAにも事情がありますから」
「事情?」
「ええ。近い将来、より大きな組織に改編する計画なんです。加盟国を増やし、事業資金を潤沢にし、滞っている宇宙事業を進める。そういう算段です。月面基地の拡充だけでなく、火星にも恒久基地を設置して人員を安定的に常駐させたい。そのためには革新技術による新しい交通手段が是非とも欲しい。思考体の跳躍船の仕様では、火星の位置に関係なく一週間から十日程度で火星に行くことができます。これは将来の火星事業にとって大きな推進力となります」
「未来への投資ということですか。思考体が跳躍船を完成させたら、それを使って火星へ行く」
「火星だけではありません。木星、土星、さらにその先へと人類の宇宙進出は広がるでしょう。その点においては、彼らの目的と合致します」
井川は、野上の顔を見て静かに頷いた。
「木星に土星か……。そうした星に行ける日が、来るのだろうね」
「やがて、そうした時代になるのでしょう。楽しみですね」
井川は微笑むが、対面の野上の顔に笑みはなく、眉を顰め険しい顔付きをしていた。
「何か気になることがあるのですか……」
野上は我に返ったように目を瞬かせ、首を横に振る。
「いや、そうじゃないよ。ただ、実感がなくてね。人類が木星や土星に行くイメージが浮かばなかったんだ。きっと私は、その前に命を終えているのだろう……」
寂しそうな野上の表情を目にして、井川は言葉を失った。
六
ISA本部の中でも小さな会議室に、井川昌吾は一人で入りテーブルに着いた。ネットワークを介して思考体と繋ぐ。
「こんにちは、井川さん」
聞き慣れた声が挨拶をする。
井川は思考体との接続が可能になってから、週に一度は連絡をするようにしていた。
「メッセージを見ましたよ。私たちとの窓口担当部署が新設されるそうですね」
「遅過ぎ、ですよね」と井川が答える。
「あなたが新設部署の責任者になるそうですね。そうなると、これまでと変わりない、ということですか」
「力不足かもしれませんが、頑張りますのでよろしくお願いします。実は、正式な発足は三カ月後になります。部署の名称も、まだ決まっていません。そちらの要望通り、公にはしないようにするため名称や業務内容をどう扱うか、知恵を絞っているところです」
「すみません、面倒を掛けます」
「いえ、そんな謝ることはないですよ……。その、この際ですから伺いたいのですが、存在や活動内容を内密にするというのは、なぜですか」
間が空いた。しかし思考体は、返答をじっくりと考えているわけではない。会話の流れの中で効果を狙っているのだ。その後で話す内容が重要な場合や、そうした話題を避けたい場合など、意識的に間を空ける。
井川が発した問い掛けは、然して重要な話ではない。やはり、自身にかかわる話題は避けたいのだろう。それでも答えようとするのは、始まったばかりの両者の関係を良好にして協力事業をスムーズに進めたいからだ。
井川はこの時期に、聞けることは聞いておこうと考えていた。
「それは生い立ちに関係しますね」
「生い立ちですか……」
「私たちが得意とするのは、思考力です。休むことなく集中して考え続けることができます。当然これは、生身の人間には真似できないことです。私たちがその思考力で成果をあげると、人々は反発し妬むようになります……」
井川はネットワーク端末のカメラに向かって頷いた。そうした妬みは、人間が持つ醜い一面だ。
「その結果、私たちは地表から追いやられ、地下に潜って人々に知られないよう密かに活動を続けることになりました。不本意ですが、無益な争いを避けるための手段と言えます。そうした経験から、公にすることは避けたほうが無難だと考えます」
「残念ですね。太陽投棄装置を造ったのは、あなたたちなのに、世の中の人がそれを知ることはありません」
「それは大した問題ではありません。もし、太陽投棄に私たちが関わっていることを知れば、疑心を持ち、反発的な態度にでる人が出てきます。違いますか?」
そう問い掛けられた井川は顔を顰め、低く唸った。
「契約条項に追加された文面を指しているのですね……」
思考体と協力し跳躍船の研究開発を進めるに当たり、二者の関係を明文化する作業が進められていた。最近になって、思考体は将来にわたり地球の政治には関与しない、という文言が追加されていた。高い知能と革新的な科学技術を持つ彼らの介入を恐れる人物がいる。そこには振り払えない疑念が感じ取れた。
「元々、地球の政治活動に干渉する考えなど、ありません。根本的に目指すものが違います」
科学者の中には浮き世離れした人物が少なくない。思考体に加わった科学者の中には、そういう人が何人もいたのだろう。彼らにはそうした特徴が色濃く出ている。井川は静かに頷いた。この件を深堀するのは、やめよう。それは彼らも同じ考えだった。
「それよりも、月面輸送のスケジュールをもう少し明確にしたいと考えます。それに合わせて、こちらも準備を進めないといけませんから」
「そうですね。しかし、月面基地の運用や拡充工事といったこれまでに勧めてきた計画との兼ね合いもあり、調整に手間取っています。やはり、最初にまとめて物資を送らないといけないわけですよね」と井川が尋ねる。
「もちろんです。初期設備一式がなければ、月面工場は稼働しませんので……」
「わかりました。その件は各部署に、もう一度伝えて検討しておきます」
「お願いします」
これまでも思考体との仲介業務を行ってきたが、計画が本格始動するにつれて厄介事が増え、業務負担が重く伸し掛かるような気がした。井川は、喉元まで出てきた溜め息を慌てて押し戻す。
井川には、まだ尋ねていない疑問があった。
思考体が月面までの輸送手段を自前で用意することなど、難しい話ではないように思う。それでも手間を掛け、生身の人間と協力し事業を進めようとするのは、なぜなのか?
それは、人との係わり合いを断ち切りたくはないから……
もしそうならば、肉体を失い精神のみで生き続けなくてはならない運命と、それを受け入れじっと耐える彼らが抱える物悲しさ、遣る瀬無さを感じる。
それを思うと、彼らに対する気持ちが高ぶる。信用・信頼して全てを任せても大丈夫な相手だ。新事業は、きっと上手くいく。井川には、その確信があった。
エピローグ
眩い炎と激しい噴煙。少し遅れて爆音が耳を劈く。
力強く天へと昇る大型ロケット。
井川昌吾は屋外観覧席からその打ち上げを見詰めていた。それには思考体が製造した機材が積み込まれている。
見る見るうちに、高く小さくなった。ロケットの噴射音も小さくなり、周囲の雑然が耳に届く。打ち上げを見た人たちが興奮し、その感動をそれぞれが口にしていた。
やがてロケットの爆音が聞こえなくなり、小さな光点が見えなくなると、人々は席を立ち出口に向かう。井川がそうした人の流れを何気無く見ていると、観覧席に残っている人の中に空を見上げ天空に残された一筋の煙りを見詰める高齢者がいた。その東洋人の横顔に見覚えがある。
「野上先生、お久しぶりです……」と声を掛けた。
顔を向けた野上幸治は、少しの間、記憶を探ってから笑顔を見せ、口を開いた。
「ああ、井川さん。これはどうも、御無沙汰しています」
野上は席を立ち握手を求めた。井川も笑みを浮かべ、それに応じる。隣の席にいた高齢の女性も立ち上がりこちらを向く。妻と紹介され、挨拶をした。
「お元気そうですね。わざわざ打ち上げを見にいらしたんですか」
「ええ、死ぬまでに一度は間近で見たいと思っていたんです。最終処分所を辞めて時間ができたので、思い切って出掛けることにしたんですよ」
「辞職されたのですか。申し訳ありません、知りませんでした」
「いえいえ、構いませんよ。大した話じゃありませんから。あなたは、どうしたのですか。今日は、お仕事ですか」
「まあ、半分仕事ですね。以前から、彼らの機材の打ち上げを見届けたいと思っていたのですが、バタバタしていて来ることができませんでした。それで知恵を使って、ちょっとした用件を作ったんです」と笑う。
「なるほど……」と野上は微笑み、頷く。
「彼らとは連絡を取り合っていますか」
「いえ、辞職するずっと前から音信不通ですよ。もう、これといった用はありませんからね」と笑う。
「そうでしたか……」
井川は周囲を見回した。観覧席に残っている人は僅かだ。
「どうでしょう、お時間があれば、向こうでお茶でもご一緒しませんか」
「ええ、私たちは時間に余裕がありますが、井川さんは大丈夫なのですか」
「大丈夫ですよ。お茶を飲むぐらいの時間はありますから」
井川は、同郷の高齢夫婦を気遣いながら階下への出口に向かった。
「計画は順調そうですね」
「ええ、幾らか遅れましたが、何とか進めています。来年には最初の月面工場が稼働するでしょう」
「そうですか。それは素晴らしい」
井川は笑みを返し、チラリと空を見る。一筋の煙りは、消えてなくなっていた。広がる青い空が、この後の展望を象徴しているように思えた。