77 ふわふわ
目が覚めたら、最初に何を見るだろうか。
目が覚めたら、最初に何を聞くだろうか。
目が覚めたら、最初に何と言うだろうか。
いつも通りの陽光と静かな朝。言葉を交わすこともなく、誰かに邪魔されるでもなく、自分だけの城に籠る日々。私にはそれが当たり前だった。
だからこそ異世界での経験は自分には新鮮すぎた。
自然の香りが鼻を抜ける。
土と草の香り。
次に甘い香りが鼻腔をくすぐる。
瞼を開いて見たのは、お人形さんだった。
黄金の瞳がビー玉のように光るビスクドール。端正な顔はほのかに紅く色付き、流れる銀糸は甘い香りを漂わせていた。ふわっと沸き上がる気持ちに言葉を探す。ああ、たぶん、これは。
「きれい」
適切な言葉なのかわからない。
とにかく生き物なんて思えないくらい美麗。
ぷっくりした唇を指でなぞり、顎のラインに滑らせた。柔らかくて温かい。そのまま首を経由して鎖骨辺りに触れる。
「んっ……」
肌がすべすべしている。骨格もしっかりしている。声も出る。おまけに温かい。まるで人間みたい。
そう考えて、ふわふわは一気に覚めた。
え、いま、ここ、なに、え?
サーっと夢心地は消え去り、現在していることに人生終了のお知らせを受信した。
四つん這いで覗き込む彼女と寝っ転がる私。フィレナを人形だと思ってペタペタ触っていた。
これ、死刑確定ではありませんか。姫にタコ殴りにされた挙句に女王様にシメられ公開処刑のストーリーが展開されてパニックになる。アーッ私のバカーッ!
「フィレナ様? あのーこれはですね、ただ寝ぼけていただけでして、決してわざとではなくてですね!」
寝起きの状態でどこまで説明ができるのか。上手く話がまとめられないのでアウトだと自分でもわかる。おわった。王女に手を出した不届き者として人生が終わるんだ……。
「そう」
「すみませんでしたー! 私がやりましたー! 煮るなり焼くなり好きにして下さいッ!」
言い訳は通じない。諦めて罪を認める。瞼を閉じて運命を受け入れた。
「…………」
無言は怖いな。うっすら目を開ける。
彼女の瞳は潤んで眉は苦しげに歪んでいた。口は真一文字に結ばれ喉が動く。雰囲気は——。
「別に、気にして……ないわ」
え? 掠れた声で落とす内容に疑問を抱く。怒るところじゃないのかな。嫌な感じはしないから大丈夫だろうけど、なんだろう。
「それより貴女、することがあるでしょう?」
その言葉にフラッシュバックする就寝前の光景。
そうだ、羊収穫祭大作戦の途中だった!
なんで忘れていたのかこんな大切なこと。
周りを確認する。数匹の木の実ヒツジが私たちを囲んでいた。上を見ればテルちゃんズが網いっぱいに羊を生け捕りにしている。もっこもこと網にかかっていた。周りの子たちは入りきらなかったんだ。
腕時計を確認すれば針は思ったより進んでなくて安心。数十分くらい寝てたんだね。
「起こしてくれれば良かったのに」
「お、起こそうとしたわよ……」
「そうなの?」
そういえば顔を覗き込んでたし、生存確認してたのかな。生きてる上に彼女が怒ってないだけ良かった。人生終了かと思ったよ。
「じゃあ羊毛刈りしようかな」
私に大人しく引っ付く木の実ヒツジは、ハサミを取り出しても大人しかった。
*
ドラジェさんから貰った麻袋いっぱいに、羊毛を詰め込みバッグに収納。羊毛刈り用のハサミも仕舞う。
一人で刈るとなれば時間がかかる。
今回は体が小さいことや動かないこと、魔物だからなのか毛刈りしやすいなど、好条件なお陰で早めに終了。それでも慣れない作業なので、数時間は費やすことになった。
というか、よく逃げなかったものである。
ヒツジにお礼をして、次は川に向かう。
幻影綿花は川沿いに咲くらしい。
綿花は、私たちの知っている木綿やコットンと呼ばれるものと同じ。ただ普通の綿花とは違い、魔律の影響を受けた特殊な植物だそう。その為、防衛手段も特殊である。名の通り幻覚を見せるのだから。
「思ったのだけれど」
「ん?」
「これ簡単で安全って嘘じゃないかしら」
「……大蜘蛛の糸に比べればって話だから、ね?」
それは考えちゃいけないのである。
小川に辿り着いた私たち。
緑の中、少し進むとピンク色の花が一面に広がっていた。これが幻影綿花。まだワタを付けていない状態の綿花だ。見た目はごく普通の花。
「触ると刺激で花粉が飛ぶのよね。すぐに受粉してワタが弾ける。この花粉が幻を見せるから、誰も好んで摘もうと思わないわ」
だからこそ価値がある。もちろん普通の綿花もあるのだが、幻影綿花で編まれた品物は良質。需要はそこそこあるのだ。
「マスクしても粒子が細かくて入って来ちゃうんだっけ」
「そ。幻覚効果は薄いけど、途中で魔物に襲われたりしたら最悪よ。気付け薬は用意してあるのよね?」
「あるよ。フィレナは石に戻って」
「イヤ」
プイッと顔を背けられた。桜さん悲しいです。幻覚を見せられて踊り始めても知らないぞ。
仕方ない、始めよう。
布切れを取り出し、小瓶に入った気付け薬を染み込ませる。匂いがすっごい。もう既にむせそう。鼻から口にかけて薬で湿らせた布で覆う。目が冴え過ぎてギンギンだ。
「薬、貸しなさい。私が預かっているわ」
「ん。フィレナも使う?」
「必要ないわ。……ファイアオーラ」
魔法?
どこにも変化はないように見える。彼女の得意な炎は現れていない。フィレナのことだから、花粉なんて燃やし尽くしてしまえば良い——くらいは言うのかと。
「私は炎を纏っているから、気付け薬とか必要ないのよ」
降り掛かる花粉を燃やし尽くす、という点では間違ってなかったようだ。
大丈夫ならやりますか。早く顔を洗いたいし。
手前に咲く花を、指でそっと押す。
途端に、ボフッと花粉が弾けて噴出した。
一輪の花を始点に、衝撃が波紋を広げる。次々と花粉が飛び交いポンポンポンと純白のワタが弾け開く。
成功みたいだ。
一面のピンクな花畑は、一面の雪景色となった。
さっきみたいな失敗しなくて良かったー。
実を結んだ景色に満足しながら、隣のフィレナへ挑発的に笑みを晒した。まあ顔半分は見えてないだろうけど。
しかし——。
「フィレナ?」
いない。
そればかりか霧がかった世界が広がっていた。
さっきまでの森にない光景。目の前に咲いていたワタ畑も霞んで見えない。
幻覚。
あたりを付けるのは簡単だったけど、もっと症状は軽いはずだ。立ちくらみとか、一瞬だけの幻だって……。
耳を澄ましても自分の心臓の音が聴こえるくらい静かで、匂いを嗅いでも緑の香りではなく——苦手な匂い。
この匂いはなんだろう。どこか懐かしい。
て、どうしよう。幻だってわかるのに、感じるものは現実にしか思えない。しかも足は根付いたかのように動かず、自分のものではないみたいだ。
フィレナ、どこ?
必死に首を巡らせ手を伸ばす。指先は空を掴むだけ。名を呼んだはずなのに、喉が凍り上手く声が出ない。
改めて目を凝らしても、今度は森ですらなかった。
「おかあ……さん……」
掠れた声に反応することはないけど、間違いない。
母の運転する姿。後部座席から見える彼女の後頭部と左肩。陽光に明るく流れる栗色の髪。
生前の、私の母だ。