71 心の仮面2
少し前の私なら何もわからなかったかもしれない。何も感じないフリをして積み上げていた、一歩バカな私だったら。
あの子が繋いでくれた手が、あの子の咎める眼光が、あの人が諭してくれた言の葉が、一歩だけ前進させてくれた。
私の仮面を知れたから道化を演じる君を見付けられた。
「あたしの、仮面」
「クーベルが笑ってるから泣いてるんだよ。私だってこんなに涙出るの久しぶりで、すっごいびっくりしてるよ」
止まらない涙を袖口で拭う。涙で濃紺に変わる制服。
痛い。今までの傷より一番痛い。
クーベルは何を思ったのか、私の涙をペロッと舐めとる。
「温かくてしょっぱい……けど優しい味」
ついでとばかりに瞼へキスを落とされた。
ありがとう、と囁かれる。
困った微笑みを零し額を合わせた。触れたところから熱さが伝わる。
「あなたが哀しむ必要ないのに、変なの」
「変じゃないよ……もっと知りたい。もっと教えてほしい。もっと聞きたい」
「哀しんでほしくない」
「人形だから大丈夫」
「いみ、わからない」
呟く声が震える。苦しそうに吐息が揺れて、何かが外れてしまったかのように勢い良く肩を掴まれた。
「……っばかだよ! 哀しんでほしくないって言ったじゃん! 暗いのイヤで黙ってたのに、なんで知ろうとするの? ばか。こんなカッコ悪いのイヤじゃん。誰にも言わないでいようって思ってたのにかき乱さないでよっ、ばか、ばかばかばか!」
グリグリとおでこが攻撃される。
「知りたがる人形なんているわけないじゃん! あたしの代わりに泣いちゃう人形なんて……!」
振り乱す赤橙の髪。苦しげな柳眉。
「あたしだって苦しい……。お父さんに笑ってほしいよ、お母さんを治したいよ、トルテごめんって泣きたいよ!」
若草の瞳が憎しみを込めて私を射る。
「あんなヤツら倒したい! このやろうって! ズタズタにしたい!」
鋭い痛みが走る。掴まれた二の腕からズキッと伝わる信号。でも彼女の痛みはこんなものじゃないだろう。
受け止める。知りたいと思うのは変わらないんだ。
「本当は魔物が怖い……。犯罪者って嫌われるのが怖い……ッ! お父さんみたいな職人になりたいって言い、たい……。人を好きになっちゃいけないなんて……やだ、やだよ……っ!」
彼女はきっと我慢し続けていて、生きる為に仮面を貼り付けたまま溶け込んで、それが当たり前になっていたんだろう。
——また問題ばかり抱えて一人で苦しむつもりですか!?
——嫌いだけど、傷付いてほしいなんて一言も言ってないじゃない。
——誰かの為に自分を犠牲にして、残された人が幸せだと思える?
いつだか聴いた声が頭から離れない。
ああ、たぶん、この人は私と似てるんだ。全然違うと思ってたけど、いっぱい抱えて自分を殺してしまうところはそっくり。
少し前はみんなが何を言ってるのかわからなかったけど……こんな感じになっちゃうからイヤなんだ。だから泣いてくれたり怒ってくれたりしたんだ。私より私の痛みを感じてくれたんだ。
渇いた笑みが降り注ぐ雨に溶ける。
気持ちの奔流に嗚咽が止まらない。
映し鏡のように溢れて流れる。自分でも不思議に思う。こんな涙腺緩いほうだっけ。
局地的な雨はしばらく止まなかった。
*
額から伝わる温度にゆっくり瞼を開く。
クーベルは不思議そうに呟いた。
「あたしの涙もしょっぱい」
「当たり前じゃん」
というか舐めたんだ。んー味の評価を聞されても……。
「なーんか、今まで自分に強い感情があるって知らなかったから変に思うのかも。泣いたのなんていつぶりか覚えてないし」
そっか、人の観察を良くするなーと思ってたけど感情を知るためだったんだろう。彼女自身が豪胆で淡白なだけで不思議でもなんでもない気がするけど——考えは人それぞれだ。
落ち着いたのだろう、離れて……なぜか吹き出すクーベル氏。
「ひっどい顔ー」
泣いてぐしゃぐしゃだもんね。
て、笑うんじゃない。
「そういうクーベルのほうが酷いよ。瞼腫れちゃうんじゃないの?」
「いーやサクロのほうがヤバいって、シノに心配されるんじゃない?」
「サクラだってば」
顔を見合わせて、吹き出す。
あー何してるんだろ。
少し真顔に戻ったクーベル。完全に落ち着いたようだ。改めて向き直る。
「ごちゃごちゃになっちゃったけど、とにかく色々あって大変だったーってだけ。聞いてくれて、それに泣いてくれて……ありがと」
すっきりした顔されても困るんだけどな。
「ホントにそれだけだと思ってる?」
「いやそれだけでしょ」
「忘れた? 私はちょっと大きくて、ちょっとお喋りで、ちょっと動いちゃう人形だよ? ちょっと何かしちゃうくらい当たり前だよね」
その為に無理だってしちゃえる。
「クーベルを手伝わせてくれないかな?」
私が無理をすることで哀しむ人がいると知っても、止まらないだろう。私はすっごくワガママな人間なんだから。
「変なの。お人好しで人たらしって良く言われない?」
そんなこと言われて……る時もあるな。なんでわかったんだろ。不思議に見つめるけど答えは返ってこなそうだ。
「欲張りな人、嫌いじゃないよ」
ニカッと憑き物が落ちた顔で強気に笑む。
握った拳を突き出された。
グーパンチ? これまた不思議に見つめる私。
「同じように手を出して」
なんか催促された。言われた通りにグーで突き出す。すると同じく彼女のグーでコツンと合わせた。
「協力してくれるなら約束。ムリーやっぱヤメたーとか言っても離さないよ?」
「ん、二言はない。これなに?」
「約束の証みたいなもん。やったな相棒! みたいな上がった時でも使う。お父さんが昔よくやってたから覚えちゃった」
はにかむように微笑む。
ああ、お父さんのこと大好きなんだな。
きっとお父さんにも伝わるはずだ。心は伝わる。私みたいに響く。もう一人じゃないし。
「作戦会議ーって言いたいとこだけど」
「だけど?」
「顔を洗いませんかお爺さんや」
「そうしましょうかお婆さん」
二人で川に移動する。
こんな顔でロシェたちと遭遇したら心配されそうだ。
小川の水を掬う。冷たい。泣き腫らした顔をパシャパシャと洗った。
クーベルから聞いた話を思い出す。布屋の主人が厳しい当たりをした理由もわかったけど、どうしよう。
お父さんは人形職人で、人形術師によって人生を狂わされた。ポロっと零した“人形術師”で反応するのも納得だ。
息子を殺されて妻が熱病、さらには犯罪者のレッテルを貼られて国を追い出されたんだもん。そりゃ心も閉ざすし敏感にもなる。
クーベルが魔物を目にして顔を引きつらせていた理由も、その時の事件がトラウマだったからだろう。
怖いなら私に協力しようなんて思わなくて良かったのに……克服、したかったのかな。
あれ、そういえば。
「“人を好きになっちゃいけない”ってどういうこと?」
そんなことも言ってたような。聞き間違えでなければだけど。一連の話で関係あっただろうか?
濡れた顔を拭う彼女は何でもないことのように、ああと呟いた。
「言ってなかったっけ。あたしって混血なんだ」
混血ってハーフとかクオーターのことか。
でも混血だから好きになっちゃいけない?
なんで、と問う前に私の顔を拭かれる。子どもじゃないんだけど。
「まー普通知らないよね。あたしの場合はお母さんがエルフでお父さんが人間のハーフエルフ」
ハーフエルフ。エルフに見えない。彼女の耳を触ってみる。尖ってないし。エルフの特徴……。まさか年齢もウン百歳とかナン千歳とか?
「失礼なこと考えてるでしょ。お母さんは耳尖ってるよ」
「その、歳は?」
「女の子に年齢聞くのー? 心配しなくても見た目とそんな変わらないよ。十七。エルフ族は膨大な魔力で見た目操作できるけど、みんな変えてるわけじゃないから」
あたしはハーフエルフだし。少しだけ自嘲気味に笑む。やっぱり迫害されるから好きになれない、とか? 顔に出ていたのだろう。彼女は頷いて空を見上げる。
「想像通り混血っていい目では見られないよ。キメラとか言われちゃうもん。それでも理解ある人が多くなってきたし問題はないんだけど……」
「ど?」
「混血だと子どもが産めないから、誰かを好きになった先がないの」
子どもが産めない。それは新しい家族を迎えることが出来ないって意味だ。
「好きになっちゃいけないんだよ」
誰かに恋して、付き合って、結ばれて。
でも新しい命は宿らない。
「意味がないんだから」
どうでもいいように零した言葉は少しだけ鋭利だった。どうしてか私を傷付ける。
「意味なくなんか、ないっ」
喉の奥がきゅっとなる。
なんでそう言ったのか私にもわからない。確たる理由も根拠もないのに。
彼女にとって大切なこと。叶わないからって落ち込むな元気出せ、なんて言えない。生温くて無責任な慰めなんて。
でも、意味ないとか言って欲しくない。
クーベルにしがみ付いた。きょとんとした瞳を射抜く。
「決め付けないでよ! 好きになっていいじゃん! 添い遂げられるだけでも幸せじゃん! それで離れちゃう相手なんてこっちから別れちゃえばいいよ!」
「ちょっ、な、なになになにっ?」
「そもそも子どもつくれないって誰が言ったの? 証拠は? もしホントでも頑張って子どもいっぱいつくればいいじゃん! 何度だって子づくりすればいいじゃん! いつか奇跡が起こるかもしれない。医学が進歩すれば、いや魔法だってある! いけるよ何度でも子どもをつくるんだよ!」
「待て待て待て待てー落ち着いて! 声めっちゃ響いてるから! どーどー!」
「むしろ子どもでいっぱいになっちゃうかも! なんか科学的なやつで体外で子ども産める方法もあるっていうし! ロシェに聞けば魔法的な方法で子宝に恵まれるかも! 私も頑張って子づくり協力するから! 子ども何人ほしいの!?」
「お願いだから子どもって連呼しないで……!」
堰を切ったように漏れ出す感情。
必死の出来うる限りの説得。
なぜか説得し切る前に、お姫様に止められたのだった。