6.唯一の救い
目が癒えた時、眼球が映した景色は牢屋だった。
「目覚めましたか。」
声のする方に目を動かすと、そこには見知らぬ女性がいた。
あの、金髪の恐ろしい女性でなない。
「私の名前はアイン。あなたは?」
「……?」
「……分からない、のですか。」
どこか悔しそうな顔のアインを名乗る女性は俺の頬に手を添えた。
その姿が、あの恐ろしい女性に酷似していた。
怖い、怖い、怖い。
払い除けようとするも、手が動かない。
目を逸らそうとするも、目が動かない。
助けを呼ぼうとするも、口が動かない。
「……すみません。怖いですよね。」
アインという女性は自嘲げに微笑むと手を引っ込めた。
ーー何故かそれが、酷く温かく感じた。
俺の、空っぽになってしまった心に、お湯を注ぐような、そんな感じ。
温かく、微睡んで、依存したくなり、抜け出せなくなるような、そんな奇妙な感覚。
……嗚呼。この感覚はーー
「ーーーーん…」
「え?」
「ぉぁ……ん…」
喉が、次第に湿り、音を出し始める。
俺は手を伸ばした。触れたいが為に、甘えたいが為に。
「お母さん……」
目からは留まる事なく涙が溢れ続け、視界が歪み、ぼやける。
俺はそこにお母さんを重ねていた。特に優しくされた覚えはないけれど……否、今までの全てが優しかったお母さんを、俺は重ねていた。
「お母さん……!」
声に力が籠もる。
殺されない事が、どれだけ救いになっているか。
罵られない事が、どれだけ嬉しいことか。
いつも、過干渉せず、関係を保ち、見守ってくれていることが、どれだけ優しい事か、俺は知らなかった。
俺は孤独じゃ無いのだ。
だって、お母さんが、ここに居るから。
それだけで、俺はーー
「……私にも、あなたくらいの子供が居たんですよ…もう、会えないですけど…」
俺は抱き付いた。
甘えて、温かみを感じて、存在を感じて、実感する。
「ノールっていう、小さな子供と、夫と三人で暮らしていたんです。あの日々は……どこか退屈でしたが、それでも完成されていたんです。なのに……なのに……」
お母さんの体には、沢山の傷があった。
僕はそれを見て涙を流し、強く強くお母さんを抱き締めた。
「奪われた……踏み躙られた……壊されたんです……!」
お母さんから流れる涙が、僕の涙に重なる。
それは幾多の傷を通り過ぎて、どこかで果てる。
「僕の……名前……」
「?」
お母さんは優しく微笑んで、悲しげに僕の頬を撫でた。
「ノール……」
誰かに名付けられた。けど、誰かというのはどうでもいい。
ノール。その名前だけが、僕の心に残り続けていた。
お母さんはそれをどう解釈したのかは分からないが、驚いたように目を瞠るとーー
「あなたが……私の子供になってくれるの……?」
お母さんは僕の肩に顔を埋め、静かに問うてきた。
「うん。」
僕は、出来るだけ優しく肯定した。だって、当然の事だから。だって、お母さんが悲しんでいるから。
今までの恩の、ほんの少しは返せたかなぁ。
「ノール……」
「うん。」
「ノール……!」
「うん。」
「ノール……ノール……!」
「うん…うん。」
「うぅ……あぁぁぁ……ぅあぁぁぁ……」
ぐすっ、うっく、ずずっ、
お母さんはずぅーっと泣き続けた。嗚咽し、鼻水を啜り続けた。
僕はそんなお母さんの頭を、ゆっくりと撫でた。
「お母さん……僕は、ここに居るよ……」
「うぁぁああぁあ……ノールゥゥ……」
何か、何かが色々と頭に引っかかるけど、多分どうやっても思い出せないと思う。何を思い出せないのかも、思い出せない。
ただ、今、この状況を例えるなら、素晴らしい親子関係なのではなく……ただの、傷の舐め合いなのではないだろうか。
頭の片隅で、そう理解していたけれど。
微睡む事ができるのなら、それが最高なんじゃないだろうか。
ねぇ。それは、悪い事かな?
いいや、違うはずだよ。そんなことが言えるのは、自分が恵まれているからだ。
恵まれているから、悩める。恵まれているから、上を願うんだ。
けど、僕の願いはもう叶った。
だって、もう何度も言ってるけどーー
「うん。お母さん……」
お母さんが、ここに居るから。
僕達はそのまま、眠りに落ちた。
「あら、珍しいわね。アインがもう寝てるなんて。」
あまり働かない頭が、音を拾う。
「……二人に、何かあったのかしら。添い寝だなんて。」
やや不機嫌な、そんな声。
「アインの息子の名前にすれば、アインが逆上するかと思ったけど、心の傷はもう手遅れな程深かったのね……」
「ま、」と、どこか恐ろしさを感じる声が冷たく響き、締め括るような鋭い言葉が続けられた。
「取り敢えずは様子見ね。」
その言葉は、それ以上の意味を含めていて、今の僕には気付かなかった。