4.諦念と囁き。
「光が見えない世界って、どんなのかしら。」
「ねぇ。腕がない世界って、どう感じるのかしら。」
「ねぇ。足がない世界って、どう動くのかしら。」
「ねぇねぇ。自分の腕を食べるって、どう思うかしら。」
「ねぇねぇねぇ。内蔵を抉り出された世界って、どう働くのかしら。」
「ねぇ。ねぇねぇ。ねぇねぇねぇねぇねぇねぇねぇねぇねぇねぇねぇねぇねぇねぇねぇねぇねぇねぇねぇねぇねぇねぇねぇねぇねぇねぇねぇーー」
生きるのが痛い。
体が異様に軽い。口に気持ち悪いぶにぶにした何かが入っている。飲み込めない。噛みきれない。手を使って引き千切りたい。手の感覚が無い。口で呼吸をしたい。叫び過ぎた。腕に変な感覚がある。今まで感じた事無かったけど、まるで腕の内部に風を吹き込まれたような熱がある。でもその少し先はとても冷えていて、ポチャポチャと雨の音聞こえる。やや濁ったような音は、酷く心地良い。ああ。お腹がスッキリしている。嫌な感触しかないけど、不思議と吐き気がしない。……いや、吐き気はあるけど、まるで胃そのものが役割を放棄したかのように吐瀉できないのだ。
「アハハハハハハハハハハハハ……」
誰かが嗤った。下品な嗤い方だ。でも、耳にこびり付く。脳裏に焼き付く。その哄笑のような嘲笑のような失笑のような爆笑のような冷笑のような艶笑のような苦笑のような……
ああ、感覚が溶けたように崩れていく。
遠近も左右も上下も無い歪な空間を脳が情報処理し続けて、その他の全てを拒絶する。
拒絶し、隔絶し、断絶し続けたその最果てに、誰かの嗤い声は途切れた。
「あら。もう目が覚めたの。相変わらず凄いわね。死んだはずなのに。」
俺は抉られているのかと錯覚したいくらいの激痛が酷い目を凝らした。
ボケやる。焦点が合わない。輪郭が線を描かない。
ゴポッ…という泡が弾けるような音と一緒に血玉が吐き出される。力が入らず、俺はそのまま口に残った血をタラタラと垂れ流し続けた。
頭が、割れるように痛い。喉が骨を折られたかのように痛い。舌が、千切りにされたように痛い。
感覚は、あるのに。
全ての感覚が、痛いと叫んでる。
「もうここに閉じ込めて一ヶ月よ? それなのに飲まず食わず輸血無しでよく生きていられるわね。感心しちゃうわ。」
一ヶ月? 何の事だ…?
聞きたかったが、喉が無茶苦茶枯れていて、マトモな音に変化しなかった。
胃に、空虚を感じる。
何かを欲しているように、されど、全てを諦めたように。
「……そうだ。今日は折角だから話し合わない? 一ヶ月記念っていう事で。……ほら、私達、まだお互いの事何も知らないじゃない? その……ほら、ね?」
「ァ…………」
息をするだけで、まるで喉をヤスリで削られているような乾いた痛みが走る。
「ああ。水ね? 水が欲しいのね? 分かったわ。ほら。私の飲みかけだけど、良い?」
どこかの難聴系主人公のように、あまり聞き取れない。
けど、こんな事を考えれるくらいには回復した。だから、俺は変な方向に曲がっている首を強引に頷かせる。ゴキャッと歪な音がするが、既に許容出来る痛みは超えていて、アドレナリンのお陰だろうか、痛みを感じない。
誰かが、俺の口に水を注いでくれた。
水ーー
胃が驚愕し、怯えた。
「あら。流石に一ヶ月、マトモに食べていなければこうなっても仕方ないわね。ゆっくり飲んでいきましょう。ゆっくりと……」
この親切な女性は、一体誰だろうか。
でも、助けてはくれないみたい。ちょっと残念だけど、仕方無い。だって、俺はずっとここに居たから。脱出方法も何も考えていないけど、多分難しいのだろう。
……俺が上手に動けないのと、全く同じだ。
頭が揺れる中で、時間がただただ過ぎ去っていった。女性は部屋を出て、苛立った様子でどこかに行ってしまった。
胃がキュウキュウ鳴く。
まるで今の俺の孤独を表しているようだ。
俺は少しずつ回復する思考を目一杯使って、意識を自分に傾ける。外には、傾けてはいけない。
そうしてしまうと、泣き崩れてしまいそうだから。
「戻ったわ。遅れてごめんね? ……じゃあ、何から話そっか。」
「……?」
「そうね。じゃあまず、あなたの名前を教えて頂戴? 私だけ名乗ったままだったわ。」
「名前……」
名前、名前とは何か。
ええええええええええええええええええと、名前は……えーーーーーーーーーーっと。
名前って、何だったっけ?
俺は言葉に詰まる。そういえば、最近、記憶力が低いと思う。
それはいけない。だって俺はまだーー何年だったっけ? ああ、違う。何歳だったっけ……あれ? 確か歳っていうのは、自分が何年生きたかで……じゃあ、何年であってるの? あれ? あれ?
「分からないので、なら、仕方無いわ。そうね。じゃあ、私が名前を付けてあげる。」
女性は口元に手を当て、笑った。
「ノール。あなたはノールよ。」
ノール。
無理解に苛まれていた俺の耳に、心に、頭に、その単語が染み渡る。
水面に広がる輪のように。
地面に広がる血のように。
天空に広がる風のように。
「あなたは凄いわ。今までに見たこともない能力を秘めてる。素晴らしくもあり、恐ろしくもあるわ。」
それらを見たとき、人は何を感じ何を思うだろう。
多分、感動するんじゃないだろうか。
人間という枠は、極めて小さい。世界になど、敵うはずがない。けど、人間という小さな枠は積み重なり融合し産み落とし繋がることで、大きな枠となった。
歴史が、それを物語っている。
「けど、そんなあなたを虐めたい。嬲りたい。それが、何かの啓示にすら思えるの。」
けど。
人間という小さな枠は、人間という更に小さな枠には収まらない。融合しようとしたら片方が壊れ、産み落とそうとしたら崩れる。繋がろうとすれば、いずれ絶たれる。そして、細かい破片となった。
歴史は、それも物語っている。
「だから、私はあなたを、飽きない限りずぅっと痛め付ける。」
だから。
人間は脆く、弱く、醜く、悪い存在だ。物事に優劣を付けたがるし、それを綺麗事で正当化させている。綺麗事という絶対的な正義が、脆弱で醜悪な絶対的な無意識を覆い隠している。綺麗事は美しく、麗しく、時に儚く時に輝く。けど、無意識は汚く、劣等で、時に嘆き時に喚く。
「いつか、あなたにも分かるわ。私の言葉が。私の行動が。」
いつか。
個という誰かが崩れ、無意識に身を任せても、集団という綺麗事がそれを抱擁し断罪する。明確な罰を披露することで、明確な正義が生まれる。不明確な罰を伝聞することで、不明確な意識が出来上がる。
明確化は、規律を生む。
不明確は、綻びを生む。
「だけど、それでもあなたが私を理解出来ないのであればーー」
だけど。
明確化を顕現すれば、規律は法律となり、不明確の綻びは罪となり、明確な正義が生み出した罰が綻びを断ずる。
不明確を顕現すれば、綻びは破綻となり、明確化の守りは害となり、不明確が生み出した意識が正当判断を断ずる。
だからーー
この世に正しいは存在しないし、この世に悪いも存在しない。
けど、それを断言する資格があるものは、叫ぶ。
論理も、理論も、順序も証拠も根拠も無く。
正しいと思えば、正しいと。
悪いと思えば、悪いと。
けど、俺にその資格はない。
何故ならーー
「ーーあなたはずっと、ここに居れば良いの。外なんて見ないで。私だけを見て……それで、十分だから。」
俺はこの世を、知らないから。