キリアン
~Cillian~
目の前の大画面に黒煙が立ち昇っている。アナウンサーの声は緊張で引き攣っていた。
中東の小国の首都、近未来的なホテルのロビーで中継されていた粛々としたセレモニーの光景は、テロリストの自爆攻撃の状況を伝えるニュースに切り替わった。
キリアン。統也は愕然として大画面を、数分前まで彼が存在していた場所を見た。隣で中継を見ていた公爵の顔は蒼白である。サファイアのリングをはめた指が小刻みに震えていた。
ふと、斜め後ろにいた公爵夫人が視界に入った。騒然としたロビーで、彼女の表情だけはさざ波ひとつたたないかのように静かだった。夫人は赤毛の秘書に一言二言耳打ちした。そして毅然として背筋を伸ばしこちらに歩み寄り、夫の手を取ると優しい声で部屋に戻るように促した。
突然、統也の背筋に冷たいものが走った。夫人のその白い横顔は、かつて統也が何度か目にしたものだった。初めて出会った路上で、廃ビルの暗い部屋で。彼は今でもその顔をはっきりと覚えていた。それは彼女の、確固たる意志で持って一線を越えた後の顔であった。
彼は腹の底に冷えた黒い塊が沈殿するのを感じた。理性で否定する間もなくそれは明確な黒い確信に変わって行った。
統也は、明日スタジアムで行われる予定だったイベントに備えてチェックインしていた部屋に戻った。しかし彼の思考は麻痺したままで、暫く動けなかった。ロビーで見た光景が脳裏にこびりついて離れない。キリアン、公爵、そして史緒音。のろのろと腰を上げるとバスタブに湯を入れた。体はまるで砂が詰め込まれたかのように重い。キリアンと最後に交わしたありきたりの会話を思い出した。口の中に砂の味が広がっていた。
そのまま湯に体を沈めぼんやりとしていると部屋のドアが開き、公爵がまるでここが自室でもあるかのように入ってきた。
「ああ、そのままでいいよ。僕も君達も暫くはここで足止めだろうしね」
ルイ・セドゥは独り言のように呟き統也の脇に腰掛けた。
「このホテルのオーナーは僕の友人なんだ。無理をさせた」
統也は内心で、今後二度とここの系列のホテルは使わねえ等と毒づいてみたが、ルイ・セドゥが何時になく悄然としているのに気付いた。
公爵は振り向き、キリアンの事を話せるのは君しかいそうにないから、と言った。君とキリアンは親しかったんだろう?統也は頷いた。
「僕もキリアンとは親しかった。君とは多少違った意味だったけどね」
数秒、統也は公爵の言葉を反芻した。そして驚きを通り越して間の抜けた顔で彼を見上げた。公爵は少しばかりこの場の状況を楽しんでいる風でもあった。
「言っておくけど、妻はその事については承知の上だよ。それに僕も彼女のプライバシーを出来る限り尊重しているし。話を続けていいかい、統也?」
「その前に、風呂から上がらせてくれ。どうにも落ち着かん」
「どうぞ」
統也はズボンを穿くと公爵を改めて見た。ふと、史緒音の事を思った。それは、もう十年以上も昔、春の夜の雨にうたれながら震えていた少年のような少女の記憶だ。
公爵は相変わらず、酒場の馴染みでもあるかのような気安い出で立ちでTVの前のソファに陣取っていたが、心此処にあらずといった風だった。
「それにしても王族方が出席していない日で何よりだった。弟王子は妻と親しくして頂いていてね、一族の中では一番の強硬派だが、今回の事で発言権を増すことになるだろうね」
統也の口の中に再び砂の味が広がった。
「彼女は怪物だよ、僕が想像していた以上にね」
公爵は静かに呟いた。