史緒音1
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その瞬間の感覚を、統也は後になってもはっきりと思い出すことが出来た。
彼はルイ・セドゥ・ヴァイヤンの妻を凝視した。
イングリッド・ヴァイヤン公爵夫人。少女期の名は草影史緒音。
かつての、少年とみまごうがごとく、まるで性が存在しないがごとく無機質だった細く長い手足は、透明さを増して白く滑らかだった。光沢を帯びた薄い色彩のイヴニングドレスを長身に纏い、透ける亜麻色のまとめ髪が繊細な顔の線を際立たせていた。
十代の自分の傍らにいた少年は永久に去っていった、統也は喪失感と共にそれを理解した。最早、かつての少女は名残のみを遺して消え去り、別の女性としてそこに存在していた。しかしその瞳は、昔、十三歳の少女だった彼女を害そうとした者達を躊躇なく殺したあの時と同じく、透徹した酷薄さで統也を見ていた。そこには何の感情も読み取ることは出来なかった。
統也は全身が麻痺したかのようにその場を動けなかった。言葉ひとつ発する事が出来ず、夫人を見つめた。
「少年は少女に出会う、だね」
愉快そうなルイ・セドゥの声に統也はぎょっとして公爵を振り返った。では、この男は全てを承知の上で敢えて自分を招いたのか。
「紹介しましょう、彼女はラーゲルレーヴの現会長です、君の所属しているチームのスポンサーの親会社、北欧の一族が運営している一大企業ですよ。彼女は数年前にその後継者となりました。そして今は僕の妻でもあるけどね、ねえイングリッド?」
その時、客達を掻き分けて見慣れた男が近づいてきた。統也の所属するチームの花形レーサー、キリアンだった。既にアルコールをたっぷり含んで足取りもおぼつかない有様である。傲岸不遜で怪しげで鼻持ちならない性格だがそれでも皆に愛されているのはこの男の個性のひとつだろう。彼は機嫌よく統也そして公爵夫妻達に挨拶した。ルイ・セドゥはキリアンの個人的な出資者でもあった。
「今夜は本当に盛会だこと」
聞き覚えのある低い声音に統也は我に返った。公爵夫人は怜悧な瞳で統也とキリアンに軽く目線を送ると、夫と支店長をいざなって他の客達の待つ隣室へと去っていった。軽やかな風のような所作だった。
「正しく、月の女神だな」
キリアンは立ち去る夫人の後姿を暫く眺め、彼らしくもなく控えめに呟いた。
「夫人は北欧の人間だと聞いていたが、東洋人の血が入っているな。世界中巡っても滅多にお目にかかれない類の女だよ、あれは。まあ、俺はああいうのは御免だけどな。どうだ、統也?」
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統也は部屋に入りジャンパーを脱ぐと、ここ数日寝不足で鈍い頭を抱えつつ、止めていた筈の煙草に火をつけた。キッチンで冷蔵庫を物色している女を見やり、我ながら勝手なものだと自嘲する。しかし昔の恋人にでも会っておかないと何を仕出かすか分からない、そんな気分ではあった。全身が虚無感に苛まれ、公爵邸を後にした時の記憶が繰り返し押し寄せては去っていった。
心の中では史緒音がとうに新しい人生を歩んでいる可能性を想定していた筈だった。数年前、彼女の背を見送った時から己の気持ちには区切りをつけていたつもりでいたし、もし、万が一もう一度会える機会があるなら、お互いがどのように変貌していたとしても自分はそれだけで満足するだろう、そう思っていた。
しかし違った。彼女は彼の生の中心に有り、彼の人生の目的そのものだった。彼はその残酷な事実を痛みと共に思い知った。
後ろを振り向いた元恋人は統也を見つめて眉をひそめた。
この男と初めて出会ったのは夜中のカオスと化したクラブの一角で、彼はカーレースの世界では徐々に知られつつある顔となっていた。女が話しかけると既に陽気に酔っ払っていた男は機嫌よくニヤリとしてみせ、その夜の内にベッドに雪崩れ込んでいた。付き合い始めると彼は並の男以上に我儘ではあるものの基本的に優しく大らかで、意外にも律儀な性格だった。何よりこの男が側にいると不思議に安らぎを覚え、女は内心この関係がずっと続けばいいのにと思ったものだ。
しかし、男はいつも何処かに心を囚われている様子であり、その聖域に決して女を踏み込ませることはしなかった。
女はため息をついた。いきなり呼びつけたかと思えば、全く酷い有様だ。本当に自分勝手な男だ。
「外に食べに行かない?」
女はつとめて優しく問いかけたが、男は首を振り静かに言った。
「ご免な」
一人残された統也はベッドの脇に座り、夕暮れの窓の外を見た。最早戻ることも進むことも出来なかった。
無理だ、あいつのいない人生なんてとても無理だ。
しかしそれは決して叶うことのない望みでもあった。