表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
KYRIE   作者: リンドウノミチヤ
第一章
4/28

天音

     ~Amane~


 桐永天音は自分に会いに来た男を見つめた。

 マネージャーの勧めたコーヒーを断り、榛統也は天音の向かい側のソファに幾分窮屈そうに大柄な体を落ち着けると、アポイントメントもなく声をかけた非礼を詫びた。

 天音は改めて彼を見た。既に立派な男になっている…この国ではついぞ見かけなくなっている種類の男だ。



     + + +



 あの日も天音は日本にいた。

 リサイタルの為訪れた久しぶりの母国は新緑のむせ返るような息吹に溢れていた。

 リハーサルの合間にいつもの習慣で会場の外に出た彼は、ライラックの花影に美しい少年をみとめた。

 少年の肩に降る春の雨は白く光り、まるで天使の羽のようにも見えた。


 シオネ…?

 天音が気付いた時、その手は深く切りつけられ鮮血にまみれていた。


「 残念だ、父さん」


 娘はナイフを手にしたまま、蒼白な顔で父親を凝視し消え入りそうな声で呟いた。何故こんな所に自分の娘がいるのだろう、天音はぼんやりと考えていた。娘はそんな父を冷ややかに見つめ更に一歩距離を縮めた。

 その刹那、黒い風が二人の間に割って入り、娘の手の中のナイフは音を立てて地面に落ちた。

 大柄な、見知らぬ少年だった。



 その後天音を待っていたのは彼にとっては不本意極まりない騒動の坩堝だった。

 異変に気付いたマネージャーはじめ会場の人間達が駆けつけ、天音はもみくちゃにされながら病院に搬送された。

 更に事情聴取の為連れて行かれた警察署で聞かされたのは、娘の史緒音がどうやら父親への殺人未遂どころか複数の殺人事件に関わっているという事だった。しかも被害者の一人は天音の弟子であり養子でもあった青年だ。ピアノの才能と、師匠への尋常ならざる愛情で天音を虜にした青年。僅かな期間の蜜月の後は持って生まれたかのような素行の悪さしか目に付かなくなっていた義理の息子。

 彼が天音への真っ当とは言い難い愛憎のあまりその実の娘の史緒音への復讐を計画し、その結果彼女に殺されていたという事実は、天音にとってはまさしく青天の霹靂だった。



 しかしそんな騒動の最中ですら、天音の関心事は傷つけられた自分の左手の筋であり、来月欧州で開かれるリサイタルの予定だった。他界した元妻の姉夫婦に預けていた娘は、天音にとっては遠い、別世界の存在でしかなかった。担当の刑事は、少女の父親がまるで他人事のように事件の顛末を聞き流していることに内心呆れかえった。

 天才ピアニスト、桐永天音の魂はミューズの為にのみ存在していた。



 真夜中の警察署で待たされ、長椅子に所在無く座っている天音にふいに声がかかった。

 少し離れた壁際にもたれ、あの時自分と娘の間に割って入った少年が天音を見つめている。 大きな少年だな、と天音は思った。父方の血を継いだせいかひょろりと高い天音よりも上背があり肩幅も広い。ややくせのある髪と、この国の少年にしては大人びた鼻筋の通った顔は精悍で、何となく大型の肉食獣を思わせた。

 彼は良く通る低い声で、あなたは自分の娘の事はどうでもいいのか、と聞いてきた。その瞳は静かだが強い光で天音を見ていた。

 そういえば、この少年が史緒音を止めたお陰で自分は命は失わずにすんだのだった。

 天音は少年に視線を向けつつ考えた。どうやら娘の知り合いらしいのだが、さてなんと言う名前だったか…。



     + + +



 そうだ。

 あの日、天音のピアニストとしての命が史緒音の手で絶たれた夜、彼は天音にこう言ったのだ。


「じゃあ、あいつを俺にくれよ」

「いいよ」


 天音は思い出した。

 自分は確かにあの時の少年に、笑みさえ浮かべてそう言ったのだった。



 天音は何故か湧き上がった感慨と共に、十年前自分と娘に起きた出来事に少なからず関与し、今も尚、躊躇なくその渦中に飛び込もうとする男を眺める。再び笑みが浮かんで来た。



     + + +



 その時、榛統也には確たる勝算があった訳ではない。

 音楽プロデューサーとして来日中の桐永天音の滞在しているホテルを探し当て、史緒音の行方を聞き出そうと決心した。俺は何て馬鹿げた事をしでかそうとしているんだろうという自覚はあったが、この時彼はひとつの強烈な感情に突き動かされていた。


 あの時一度会ったきりで今後も会える保証はなかった、もし会えたとしてもお互いが昔と同じ形をしている筈もなかった。

 しかし、画像に写った彼女の姿を見た瞬間、その姿と声を確認しない事には一秒たりとも平穏でいられない己に気付いていた。



評価をするにはログインしてください。
この作品をシェア
Twitter LINEで送る
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
このランキングタグは表示できません。
ランキングタグに使用できない文字列が含まれるため、非表示にしています。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ