統也
~Touya~
階下から兄が大声で呼ぶ声が聞こえた。榛統也は生返事をしながら端末を開いた。
この頃、兄は故郷で早々に身を固めるとばかり思っていた弟がその気配を見せないどころか外国と日本を行き来し一向に定住しようとしない事に業を煮やしているらしい。最近懇意の筋からしきりに見合い話を持ってくる兄の事を考え統也は苦笑する。
浮いた話がない訳ではない。学生時代に付き合っていた女性とよりを戻していた時期もあったが暫くして彼女の方から別れを切り出された。少し前まで付き合っていた女性レーサーとは結構長い関係だったがお互いの生活習慣などの違いのせいか何となく空中分解してしまった感がある。周りからそろそろお前手堅くヨメさんでも貰えよ、などと諭されると、考えとくわ、と流したりしていた。実際多忙極まりない彼にとってその手の話は二の次だった。
彼は二十七歳。凄腕のメカニックとしてその世界では名を知られており、既に欧州のレーシングチームに抜擢されていた。
草影史緒音とはあの時一度会ったきり。
「もしお前とさ、又出会ってお前がその気なら、その時はヨメさんに貰ってやるよ」
「そんな事は絶対ない、私は一瞬でお前のことを忘れてやる」
そして振り返りもせず去って行った史緒音の背を見送った事はとうに封印していた。
統也は再び端末の画面を眺めた。自分がチーフメカニックとして所属するレーシングチームが欧州の企業と契約締結したというニュースだった。彼にとっては既知の情報であり今更特に興味を引いた訳でもなかったがそのまま検索を続けていく。
ふと、ある画像が視界に入った。背後から撃たれたような衝撃を感じ、それが何故かも分からないまま画面を凝視する。
画像の群集の片隅にかすかに写る人物。女。すらりと伸びた隙のない背。細い顎を覆う肩より少し上で切り揃えた亜麻色の髪。
それは、かつて自分が知っていた人物とはまるで違っていた。しかし決して見間違える訳がなかった。
彼は身動き出来なくなった。遠い筈の記憶と感情が一気に押し寄せてきた。
~Sione~
かつて榛統也は自分の街の手に負えない不良少年達のリーダーだった。
190cmを超える大柄な体躯と時としてしなやかで獰猛な肉食の獣を連想させるような動作は上級生達からも恐れられていたし少女達は大体が遠巻きにして見ているだけだったが、その彼がひどく心を奪われていた少年が一人いた。
いや、正確にはそれは少年のふりをした少女だったのだが。
キリエと名乗るその少年はまるで性など持たないような無機質な美貌と怜悧な頭脳を併せ持つ存在だった。細くて長い手足と亜麻色の髪は異国の少年を思わせ、肌は日の光など無関係であるかのように白く透き通っていた。いつも小さな銀色の十字架を無造作に首にかけており、少年の神秘的な雰囲気を一層際立たせていた。しかし少年は、その稀有な容姿とは裏腹に冷酷で抜け目がなく、統也を筆頭とする不良少年達の内部を掻き混ぜ翻弄して行った。美しい少年が実はある恐ろしい秘密を抱えており、その隠蔽の為に統也達を利用するつもりなのだと気付く者は誰一人としていなかった。少年達の中にはキリエに骨抜きにされ天国のような心持で日々を過ごし、ふいに捨て犬同然の憂き目を見るものさえいた。
天使のごとき少年が突然現れてからの日々は十代最後の嵐のようだったが、やがてキリエは街で起こった連続殺人事件の犯人として収監され、統也達の前から姿を消した。
少年の姿を借りた少女――草影史緒音の生い立ちについて統也が知ったのは後の事だった。
父親が著名なピアニストであること、義理の兄に憎まれていたこと、その義兄が彼女に対して仕組んだ復讐計画が事件の発端だったこと、そして、義兄を含む三人の男達を殺したこと。
全ては怒涛のように統也達を巻き込んでやがて消えていった。少年だと思っていたキリエは少女に戻り去って行き、狂乱のごとく世間を騒がせた事件はやがて表面上は皆から忘れ去られた。
唯一人、榛統也をのぞいて。
+ + +
史緒音が下界に戻って一度だけ統也は彼女に会った。最後に別れた頃と何ら変わらない、時として能天気にすら見える笑顔で挨拶をした統也を見て史緒音は、明日自分は父親の国へ旅立つこと、二度と戻る意思はないことを告げた。
統也は暫く黙っていたが、やがて、少し付き合ってくれないかと言った。
彼は史緒音を後ろに乗せバイクを走らせた。数時間のツーリングの後波止場に着くと、海を見ながら何を話すこともなくぶらぶらと歩いた。二人が昔、気が向くとそうしていたのと同じように。
陽がとっぷりとくれて波の音しかしなくなった頃彼はとうとう言った。
「一度、俺と寝てみないか?」
史緒音は承諾したが事はそう簡単には行かなかった。彼女は昔から人に対象物として見られることを死ぬほど嫌悪していた。それは相手が男でも女でも関係なく、心が氷の如く冷えるのを感じるのだ。そしていざ触れられるとなると恐慌状態になった。史緒音は少し、いやかなりの抵抗を試みたが統也は力を緩めなかった。そして事態は危うく深刻な状況に陥るところだったが、史緒音の叫び声に驚いて覚めた統也が手を離した。史緒音は彼の鳩尾に蹴りを喰らわすと素早く離れ、まるで路上の嘔吐物のように一瞥すると外の闇へ消えた。
後に残された統也は最初の憤怒が去ると、今迄に一度も味わったことのない惨めな気分に陥った。
周りがどう思おうと、彼は何所か生真面目で、自分の大切に思うものは後生大事にしまって置くような繊細な部分があった。その、一番大事なものを自分で台無しにしたばかりか相手は生ゴミでも見るような目つきで去っていった。彼女は二度と自分を許さないだろう。
彼は惨めな気分のまま長い時間座り込んでいたが、ふと、外に飛び出して行った史緒音は帰りの電車賃を持っていたのだろうかと思い、自力で帰ろうにも終電の時間はとっくに過ぎている事に気付いた。
統也は少し迷っていたが立ち上がった…史緒音が許そうと許すまいと、このまま永久に別れる等、あんまりではないか。
外に出た統也は、界隈の空気の不穏な事に直ぐ気付いた。十代の少年の頃から、何百mも先の喧嘩やらその他諸々の騒動を嗅ぎ分ける習性がついていた。
案の定大通りのコンビニの駐車場で、町の一番たちの良くない種類の少年達が少女に絡んでいた。少女は終始無表情だったが瞳には不穏なものを宿しているのが遠目からでも分かった。出所したばかりの彼女にとっては好ましくない事態には違いない。
統也はため息をつくと彼らの背後に立って呼びかけた。少年達は後ろにいる男が自分達より頭数個分は大柄であることには気付いたが不運にもそれがどう不利に働くかを考える前に行動に出る連中だった。少年の一人が罵声を浴びせて殴りかかったが、瞬時で音を立ててコンクリートの地面に沈んだ。次いで二人目が腹を蹴られて崩れ落ちるのを見て彼らはあとずさった。男はニヤリと笑って少年達の車のキーと端末を揃って差し出させるとその場にいた少女をバイクの後ろに乗せ走り去った。途中で奪った物を全て放り投げると夜の道を疾走し数分後には町を出ていた。後に残された少年達は突然黒い豪雨に襲われたかのように呆然としていた。
統也はアパートの裏にバイクを停めた。史緒音はそこが昔、連続殺人事件の犯人として追い詰められた自分をかばい統也が一時的に匿っていた場所だと気付いたらしい。少年達に絡まれた時に出来ていた傷を彼女は無言で手当てさせた。瞳の底は相変わらず、冷たく不穏ではあったが統也は一先ずほっとした。そして激しく後悔した。危うく、取り返しのつかない事態になる所だったのだ。しかも、全ては己自身が招いた事ではないか。
統也は少女を見つめた。確か十九歳になっているんだったか…かつて少年と見間違える程だった線の細い顔は、相変わらず無機質だった。しかしすらりとした背は数年で更に伸び統也の目線と近くなっていたし、絶世と言ってもいい美貌の気配を宿している事に気付いた。こんな人間には会った事がない、これからも決して会えないだろう。ならば、自分の義務は彼女をそのままの姿で送り出すことではないか。そんな考えが頭に浮かんだ。
ふと、史緒音が口を開いた。長く規則正しい生活のおかげで闘争本能が鈍っていた、と憮然として呟いているではないか。
統也は思わず笑った。
二人が出会った頃、統也はハイティーンで荒れ狂った猛獣の片鱗を残していた。決闘と称して取り巻きの少年達をどちらかが病院送りになるまでラウンド制で闘わせて悦に入るような、あまり褒められない類の趣味を持っていた。そんな訳で史緒音――キリエと名乗る少年が新参者としてやって来た時早速その洗礼を受ける事になり、西洋人形のような容姿の少年があっけなく倒されるのを誰もが期待した。しかし、一瞬の旋風のごとくキリエの足が一回り大きい相手の少年の急所を的確に打ち、再起不能に至らしめると皆沈黙した。統也は密かにニヤリと笑ったものだ…新顔の美しい少年が武術を会得しており、おそらくかなりの有段者でしかもそれを躊躇なく実戦で使う狡猾さを備えていたからだ。この時から統也は好んでキリエを側に置くようになった。取り巻き達の中には新顔の少年にちょっかいを出そうとする者もいたがキリエは決して相手に隙を見せず速やかに返り討ちにした。何よりリーダーの統也がキリエに執心と言っていい程の好意を見せているとあっては憤懣やるかたない少年達も大人しくする他なかったのだ。
外は雨の気配がしていた。統也は改めて昔少年として傍らにおり今は少女として目の前にいる史緒音を見る。彼はかみしめるように優しく、雨が止んだら家に送り届けるが、この部屋にいるのが嫌ならタクシーを呼ぶ、休みたかったらここを使えばいい、自分は外に出ているからと言った。
統也が立ち上がった時、史緒音は再び口を開いた。
「ここで、寝ればいいじゃない」
統也は心の中で反芻した。…今、何て言ったんだ?
「ここで、寝ればいい。あんたのしたいようにしていい」
史緒音はそっけない程の無表情だったが、尚も立ち尽くしている統也に向かって更に言った。
「この機会を逃したら二度とないよ?」
+ + +
史緒音にとって性はやっかいなお荷物以外の何物でもなかった。端的に言うなら、彼女は本来備わっているだろう恋愛感情や性的な要素が著しく欠如した存在だった。彼女はこの頃自分が、一部の男や更に女にすら偶像でも崇めるように見られている事、時としてそれに性的なものが含まれている事に気付き嫌悪を覚えていた。学生の頃から他の少女達のように恋愛話に興味を持った事は一度もなく、むしろ異界の出来事のように感じていた。性的な問題に心を煩わされたり、あまつさえそれが不利に働く可能性があるなど論外だった。ならばさっさとこの問題を片付けてしまえばいい。幸い、目の前にいる男はまたとない人材だ。
史緒音は、統也の大きく骨ばった手が自分の頬に触れるのを感じた。心は相変わらず冷めており身体は強張ってはいたが、何故かこの男の事はそれ程嫌いではないな、と考えた。