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当作品はサイトからの転載です。

――2005年、夏。カラミティ・ホース・タウン

 

 蒸し暑い七月のその夜、ドアノブに手を掛けた時からアレックスの心臓の鼓動は爆発しそうなほどに高鳴っていた。このバーに来たのは今日で五度目。今夜こそ話を切り出さなくてはならない。もう期限はすぐそこまで迫ってきているのだ。


 金曜日の夜だからだろう、このこじんまりしたバーにもそこそこの人数の客が入っている。コルトレーンのサックスが響く店内でアレックスはカウンターの空いた席に腰を下ろす。短く切った髪は赤というよりオレンジ色。子供の頃のあだ名は「にんじん」だった。アレックスは細いフレームの眼鏡を掛け直し、目当ての男を探した。

 その男は長い薄茶色の髪をベルベットのリボンで束ね、目の前の若い女のために鮮やかな手付きでカクテルを注ぎ、穏やかに微笑んでいる。女の客は魔法にかかったみたいにうっとりとバーテンダーを見つめている。


――馬鹿な女だ。あの男の正体も知らないくせに。


 男の名はレイ・ブラッドウッド。30万ドルもの懸賞金がかかった凶暴なヴァンパイアだ。初めてこの店に来た時から、アレックスは男の正体に気づいていた。髪を染めてはいるが鋭いペールブルーの瞳は隠しようもない。万が一、人違いだったら困ると思い、ネット・カフェのパソコンで顔を確認した。二度目に来た時は、自分がハンターであることを打ち明けたがレイは眉ひとつ動かさなかった。だが、間違いない。しなやかな身のこなし、男というには余りにも美しい顔立ち、何よりもその身体全体から放たれる妖しいまでの魅力はヴァンパイアならではのものだ。

 

 アレックスはレイに声をかけ、軽く手を挙げた。

「いらっしゃいませ。今日もいつものでよろしいですか?」

「ああ、頼むよ、レイ」

 レイは微笑んで軽く会釈した。アレックスは迷彩柄のシャツの下のペンダントをそっと握り締めた。


――親父、この俺に勇気をくれ。


 目の前に置かれたバーボンを一気に喉に流し込む。強いアルコールの刺激に思わず噎せ返った。レイはちょっと心配そうな顔でアレックスを見ている。

「何か心配事がおありですか?」

「ああ、大丈夫。レイ、君に折り入って頼みたいことがあるんだ。聞いてくれるかな?」

 レイはちょっと戸惑ったようだった。

「ええ。私に出来ることでしたら」

「よかった。あ……それで、今日は誰か迎えに来るのか?」

「いいえ。何か関係があるんですか?」

「いや。何でもない。用があったら悪いと思って聞いてみただけさ」

 以前アレックスが一度話を切り出そうとした時、黒い髪の男がレイを迎えに来た。茶色の瞳でトム・クルーズ似のその男は恐らくレイの相棒だろう、彼のことを思い切り不審そうな顔で眺めていた。

「……俺の親父が危篤でね。今夜、帰らなくちゃいけなくなった。それで……君に一緒に来てほしいんだ」

「私が? それはまたどうして?」

 いつも冷静なこの男もさすがに驚いたようだ。

「君には言ったと思うが俺の親父もハンターなんだ。俺がハンターとして一人前になるのを心待ちにしてる。でも俺は残念ながらまだ一度もヴァンパイアを狩ったことがないんだ。レイ、君は髪の色は違うがハンター・キラーと呼ばれているヴァンパイアにそっくりなんだよ。だから、俺と一緒に親父の病室に行って俺が捕まえたヴァンパイアのふりをしてほしいんだ。きっと親父は喜んでくれるだろう。親父と対面したら君は一人で帰っていい。もちろん、礼はする。ほら、これが前金だ」

 そう言いながら金の入った封筒をレイに渡そうとしたが、彼は黙ったまま受け取ろうとはしない。それどころか瞳が怪しげな青い光を帯び始めた。アレックスの身体が強張り、冷や汗が首筋を流れ落ちる。思わずお守りのペンダントをシャツの中から引っ張り出して強く握り締めた。

「それは……そのペンダントを見せてもらえませんか?」

 アレックスはペンダントを外すとレイに手渡した。赤い小さなルビーが中心に入った雫型の銀のヘッドのそれは、たぶん高価なものではない。

 レイはそのペンダントにそっと鼻を近づけた。唇が微かだが震えている。

「これを何処で?」

「親父にもらったんだ。昔狩ったヴァンパイアの誰かが身に着けていたものらしい」

 レイはしばらくペンダントを指先で撫でていたが、やがてアレックスの掌の上にまるで高価な宝石でも扱うようにそっと乗せた。そして……。

「いいでしょう。行きますよ」

 先ほどとはうって変わったように優しげな笑顔でアレックスの申し出を受け入れ、レイは金を受け取った。

「その代わり、私の同居人には事情を説明しておきます。行き先は?」

「南。車で三時間ほど走ったところにある病院だ。もうすぐにでも出発したいから、家に帰らないですぐに来てほしいんだが」

「いいですよ。少し待っていてください。マスター、すみませんが急用が出来たので帰らせていただきます」

 レイの言葉に中年のマスターはちょっと戸惑ったようにアレックスのほうを見た。

「どうした。何かトラブルか? もし客に絡まれているならそう言え。俺が追い出してやる」

「大丈夫です。単なる私用ですよ、マスター」

 レイがそう言って柔らかな笑顔を見せるとこの店のマスターはたちまち頬を赤らめた。

「判った。帰っていいよ。それから、明日、もし休むようなら連絡してくれ」

「判りました。それじゃ」


 レイはカウンターを離れて廊下に出て行く。その間にアレックスは携帯で連絡を取り、勘定を済ませて先に店を出ると裏口でレイを待った。時刻は午前一時を過ぎていた。やがてレイは店から出てきた。濃いラベンダー色のTシャツにジーンズ。アレックスと身長は同じくらいだが、蒸し暑い夜にもかかわらず、汗ひとつかいていない。

「さあ、それじゃ行きましょうか」

 アレックスは路地を抜けて川沿いの道に駐車していたジープのところまでレイを案内した。レイは歩いている間、一言も喋ろうとはしなかった。

 アレックスのジープの周囲には誰もいない。車のドアを開け、ボストンバッグの中から手錠を取り出すと、彼は一度、大きく深呼吸をした。

「レイ。悪いけれどこの手錠を嵌めてくれないか。いや、リモコンは俺が持ってるから用が済んだらすぐに外すよ」

 それはよく警察の連中が使う手錠ではなく、対ヴァンパイア用の実に強固な手錠だ。厚みのある鉄板に穴が二つ開いた形で両手を同時に拘束する。これを壊すのはまず不可能だ。それから、この手錠には高圧電流が流れる仕掛けが付いている。相手が暴れた場合でもリモコンを使えばいつでも電流を流し、おとなしくさせることが出来る。

「いいですよ。ただし、後手に掛けるのだけは止めてください」

 レイはそう言うと躊躇うこともなく両手をアレックスの目の前に差し出した。白く長い指は何となくマジシャンを連想させる。アレックスが手錠を掛けると、レイが少し顔を顰めた。

「かなりきついんですね、これ」

「ああ、申し訳ないけれど我慢してほしい。それなりの礼はするよ」

「これ、高圧電流の流れるやつですよね? 間違っても流さないでくださいよ、アレックス」

「大丈夫だ。安心してくれ」

 アレックスは後部座席のドアを開け、レイを乗り込ませエンジンをかけた。ハンドルを握る手が微かに震えている。

「大丈夫ですか?」

「いや……気が動転していてね。覚悟はしていたんだが」

「判りますよ」

 レイはそう言ったきり窓の外に目をやり、黙り込んでしまった。ジープが闇に包まれた夜の道を走り出す。

「何処へ行くんですか? こっちは南じゃない」

 レイは極めて落ち着いた声でそう呟く。がくん、と車が揺れた。

「あ、ああ。南じゃなかった。親父は別の町の病院にいるんだよ。この先の森を抜けたブラックバットの病院だ」

「それは遠いですね。少なくとも八時間はかかる。それにこの先の森では最近、惨殺死体が見つかっている。夜中に走るのは危険ですよ」

「知っているよ。手も足も内臓も食い千切られていたってやつだろう? 熊かなんかじゃないのか?」

「どうでしょうね?」

 レイは横に置かれている荷物に目を向けた。ボストンバッグの横には真新しいライフル銃。

「いい銃ですね。一度も使われてはいないみたいですが」

「……怖くてね」

「怖い? でもあなたはハンターでしょう?」

 アレックスはレイのほうに振り向くと、少し照れくさそうに笑った。

「そのとおり。でもまだ見習いだよ。先輩達とヴァンパイア狩りに行ったことはあるけれど、あの歯を剥き出した奴らを目の前にすると金縛りにあったみたいに身体が動かなくなってしまうんだ。だからそれ以来、俺は先輩達にチキン野郎って言われてる。情けないよ」

「それは、仕方がないことです。人には向き不向きがありますから、あなたにはハンターという職業自体が向いていないんですよ。ヴァンパイアに殺される前に辞めた方が身の為です」

 アレックスは恐る恐るバックミラーでレイの顔を確認した。だが、少し目を伏せたその顔から感情を読み取ることは出来ない。


――こいつ、気が付いているんだろうか?


 ラジオのスイッチを入れると陽気なDJの声が車内に響き渡った。少しボリュームを絞りながら、アレックスはレイに話しかけた。

「レイ、きみのお父さんってどんな人なの?」

「父は……素晴らしい人ですよ。穏やかで誰からも尊敬される人です。でも今は行方がわからないんです。会いたいとは思っているんですけどね」

「そうか。見つかるといいね」

  

 車はやがて川沿いの道を離れて森の中に入っていった。出発してそろそろ二時間になろうとしていたが、対向車はほとんどやってこない。やがてフロントガラスを雨の粒が叩き始めると、アレックスはどうしようもないほど尿意を感じ始めた。仕方がなく道の端にジープを停車させる。エンジンを止めるとしんと静まり返った森に押し潰されそうな気がして、慌ててフロントライトを点けた。

「ちょっと小便してくる。君はどうする? レイ」

「私は大丈夫です。ここで待ってますから」


 アレックスはそっとドアを開け、辺りを見回した。雨の勢いが激しくなってきている。森の中に踏み入り、用を足していると背中のほうから低い唸り声が聞こえた。しまった。レイだろうか? 奴が俺を殺しに来たのか? だがその考えを漂ってくる強烈な獣臭が否定した。モンスターだ。人を殺し、食い千切るモンスター。

 身体が動かない。震える手を無理やり動かしてズボンのファスナーを上げ、アレックスはゆっくりと振り向いた。

 そこに立ちはだかっていたのは身長が二メートル以上もある熊のような獣だった。目は赤く光り、口を大きく開けて歯を剥き出している。口の端からは涎がだらだらと滴り落ちている。だが、その身体は熊ではない。毛むくじゃらではあるが人間の身体だ。逞しい腕から伸びた腕の先端には鋭く尖った長い爪。

 アレックスは悲鳴を上げようとした。だが声が出ない。逃げようとしても腰に力が入らず、へなへなと地面に尻餅をついた。獣は唸り声を上げながらゆっくりと近づいてきて片腕を大きく振り上げた。もう駄目だ。殺される。アレックスは固く目を瞑った。

 だが、次の瞬間、聞こえてきたのは自分の身体が引き裂かれる音ではなく、獣の咆哮と、何か大きなものが倒れる音だった。恐る恐る目を開けてみる。そこに見えたのは長い金色の髪の戦士。いや、あれは……レイだ。激しい雨に打たれたレイの髪はリボンが解け、染髪剤が流れ落ちて金色に輝いて見えた。突然の攻撃に倒れた獣は低く唸りながら起き上がり、レイに飛び掛ろうとしたが、素早く跳躍したレイの足が獣の身体を蹴り倒した。だが、意外な身軽さで起き上がった獣がレイに殴りかかる。レイは何度も獣の身体を蹴り、押し倒したが、獣はあまりダメージを受けているようには見えない。地面に降り立ったレイの身体がいくらかふら付いた瞬間、獣の爪がレイに襲い掛かった。だが両手の自由を奪われたレイはとっさにその攻撃をかわすことが出来ず、肩を爪で引き裂かれ、呻き声を上げて後ずさりした。傷から血が噴き出している。

「アレックス! 手錠を外せ!」

 それまで放心状態で戦いを眺めていたアレックスが慌ててズボンのポケットを探り、リモコンを取り出した。だが手が震えるし、第一、使ったことがなかったからどれが解錠のスイッチなのか判らない。

 次の瞬間、獣がついにレイを押し倒し、首筋に噛み付いた。レイは苦しげに顔を顰めながらアレックスのほうを向いて叫んだ。

「赤いスイッチを押すんだ! 早く!」

 アレックスが慌ててスイッチを押した途端、レイと獣の身体が青い稲妻に覆われた。しまった。これは高圧電流のスイッチだ。もう一度スイッチを押すと青い光は消えたが、二人の身体は重なったまま動かない。辺りには焦げ臭いにおいが漂っている。アレックスは急いで二人に近づくと、必死にレイの名を呼んだ。

 やがて獣の身体がごろりと横に転がり、レイがゆっくりと立ち上がった。服は焦げ、腕の周囲は酷い火傷を負っている。歯を食いしばり、痛みを堪えながらレイはアレックスのほうへ歩いてきた。

「大丈夫か? レイ」

「ああ。どうにかね。高圧電流はちょっときつかったけれどな」

「あ……知ってたのか? 赤いスイッチが電流のスイッチだって」

「無論だよ。敵の武器は常に研究しているからね。さっきは雨で俺と奴の身体はびしょ濡れだった。これを利用しない手はないだろう? それより、急がなくていいのか? アレックス」

「そ、そうだったな。……そいつは死んでるのか?」

「いや。死んじゃいないよ。こいつ……獣人だ。熊男だな」

 気を失った男の身体からは体毛が消え、中肉中背の裸の男に戻っている。

「気の毒な奴だ。獣人も俺達と同じで本能の快感に酔ってしまうと理性が効かなくなって後戻りできなくなる。こいつもいずれ狩られてしまうだろう。どうにかして助けてやりたいが、こうなってしまうとどうにも出来ない」

 レイは悔しそうに唇をかみ締めた。

「とにかく早くここから離れたほうがいい。また気が付くと面倒なことになる」

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