桃源郷の景色
第二回小説祭り参加作品
テーマ:桃
※参加作品一覧は後書きにあります
「ん……?」
由利は目を覚ますと、自分の体が仰向けで寝っ転がっていたことに気づいた。
手をついて体を起こしてみると、周りの光景が見たことも無い景色に包まれている。
まず始めに、自分が倒れていた地面に着目した。足元にはふわふわの綿菓子で作られたような、桃色の雲が広がっている。由利は緊張感のかけらも無く、その光景を見てとても美味しそうだと感じた。
「ここはどこだろう」
由利はしっかりと立ち上がると、辺りを見回すように眺めてみる。しかし、周りを眺めてみても広がっているのは桃色の雲の地面が果てしなく見えるだけだった。空は黄色く霞んでいて、どこまで続いているのかわからない。
地平線のようなその光景に、しばし見とれていた。
由利は小学一年生の女の子である。肩口まで伸びた黒髪が印象的で、つぶらな黒の瞳は彼女の純粋な心を映し出すように澄み切っている。
彼女は今、なぜ自分がここにいるのかわからなかった。
「夢を見てるのかなぁ」
あまりに現実離れした光景に、由利はこの場所が自分の見ている夢なのではないかと思案する。
「やあ、こんにちは」
ふいに、由利は声を掛けられた。声のした方へと振り返ると、そこには一人の青年が立ち尽くしている。中華風の白い拳法着に、桃色の髪をした線の細い青年だ。身長は由利よりもずっと高く、優しい笑顔が特徴だ。
先ほど見かけた時は誰も居なかったはずなのに、不思議だなと由利は思った。
「あなたは誰?」
「僕かい? 僕はここ、桃源郷の者だよ」
「桃源郷」
由利は青年に言われて、はっとした。
由利はつい先日、桃源郷という言葉を本で知ったのだ。中国の話の中に出てくる理想郷のような場所、それが桃源郷だ。
そのような場所になぜ、自分がいるのかは知るよしも無い。
「僕がこの世界を案内してあげよう。ついてきてごらん」
「知らない人にはついて行っちゃいけないんだよ?」
「ははっ、手厳しいなぁ。まぁ、気にせずついておいでよ」
告げると青年はくるりときびすを返す。
すたすたと歩き出す青年の後ろ姿に、由利は仕方なくついていった。
「この先は、どこまで広がってるの?」
歩いても歩いても地平線の先が見えない光景を前に、由利が呟いた。
「さあ、どこまでだろう。おそらく、君が考え続ける限り……この先は続いていくだろうね。つまり、君が先を願わなくなったら道は終わりだ。そういうところなんだよ、ここは」
「ふーん」
聞いてみても青年の難しい話は、由利にはよくわからなかった。
「ここはね、特別な世界なんだよ」
ふいに青年が語りかけるように話し始めた。
「痛みも苦しみも無いんだ。ケガをすることは無いから、肉体的な痛みが無い。そして病気にかかることも無いから、健康なままで暮らしていける。自分を傷つけるようなことを言う人も居ない。食物はみんな湧き出てくるから、空腹に身をゆだねることも無い。ずーっと幸せが続く世界だよ」
「すごいね。ずっと幸せなの?」
「うん。君が望む限りね」
青年は優しい微笑みを由利に向けた。
「ほら、この桃を食べてごらん」
青年はいつのまにか掌の上に野球ボール程度の大きさをした桃を取り出していた。その薄く鮮やかな桃を言われるがままに口へと運び、かじってみる。するとその口の中には体験したことのないような甘みが広がり、由利はとても幸せな気分になった。
「すごく美味しいね」
「そういってもらえると出したかいがあるよ」
むしゃむしゃと桃を頬張る由利。
こんなに美味しい桃を何も無いところから出すとは、なんてすごい人なのだろうと由利は思った。
「じゃあ次はすごいものを見せてあげよう」
青年は手を大きく空に掲げる。すると、その手に呼応するかのように目前の光景に変化が現れた。すーっと右から左へ、幕が動いたみたいに何も無かった景色が切り替わっていく。
気づくと足元には若草が広がり、周りは崖の上のような切り立てられた場所になった。すごく高い場所であるようなのに風の勢いは穏やかだ。さんさんと照らす陽光が空に現れ、眩しく降り注ぐ。
「さあ、こっちへ」
青年に連れられるまま、由利は崖の先端へと赴いた。
「わぁ……」
崖の先から、下界とも呼べそうなくらい下にある地表の景色を覗き込む。
由利の目の前には桜の木が広がっていた。
無数に生えた桜の木が地面を覆い隠すほどに生えそろっている。緑ではなく、桃一色に染まる大地。その景色に由利はとても感動した。
「こんなに綺麗な光景も見られるんだよ。どうだい、気に入っただろう」
「うん、すごいところだね」
由利はいたくその光景を気に入ったようで、目の中はきらきらと輝いている。
「私、とっても気に入ったよ。桃源郷!」
「ふふふ」
由利の無邪気な笑顔を見て、青年もまた大きく微笑む。
「じゃあ、ここに一生居ると良いよ。ここでなら、ずーっと幸せで居られるから」
青年は右手を前へと伸ばした。由利の方向だ。
差し出された手は、由利の掌を待っていた。彼女の手を握ろうとする手だ。
その手をぼぅっと見つめる由利。次第に由利の目線は上へと昇っていき、青年の瞳の中を覗き込みながら、彼女は答えた。
「それは嫌」
由利はつまらなさそうに告げた。
彼女の答えに、青年は目を丸くする。
「何故だい? ここでなら幸せに暮らせるというのに。気に入らなかったのかな?」
「気に入ったよ。ここはとってもすごいところだと思うし、幸せなところだと思うよ」
「じゃあ、何故」
青年は由利を問い詰めるように言葉を吐き出した。由利の真意が汲み取れない様子だ。
「だってここは、お父さんとお母さんが居ないから」
青年ははっと目を見開いた。
「お父さんとお母さんが居ないんなら、私は幸せじゃないもん」
それは由利の本心であった。ずっと幸せが続くという桃源郷、その中に居て確かに由利は幸せを感じていた。
しかし、由利の心はいつまでも満たされることがなかった。それは、彼女にとって幸せの大部分を共有する両親が存在していないからだった。彼女は、自分一人が幸せになるということが、幸せに結びつかない心を持っていたのである。
「この景色を、お父さんやお母さんにも見せてあげたいな。そしたら私は幸せになると思うよ」
「……そうか」
由利の返答を聞いて酷く沈んだ顔で答える青年。青年は顔を俯かせ、前髪によって目が隠れてしまう。
「お父さんとお母さんに桃源郷を見せてあげたいのなら……この場所のことは、忘れなくちゃいけない」
「それは……なんで?」
「それこそが――――君が桃源郷という景色を、お父さんやお母さんに見せてあげられる方法なんだ」
青年の言うことがよくわからず、頭を捻る由利。
対する青年は何かを諦めたように微笑んでいた。
「じゃあ私、忘れる! 頑張って忘れる!」
そういって由利は目を閉じた。両手を強く握って胸元に引き寄せ、うんうんと唸る。
その光景に青年は苦笑していた。
「さようなら。お父さんとお母さんが幸せな気持ちになるといいね」
青年は優しく手を振る。由利も負けじと、精一杯腕を振ってお別れの挨拶をした。腕を振り続ける由利の姿は次第に、桃源郷から溶けるように消えていった。
――――――――――――――――――――――――――――――――――
「由利ちゃん!」
大きな声が耳元に飛んでくる。その声で由利は目を覚ました。由利が普段からよく聞いている、お母さんの声だった。酷く慌てている声だ。
「うーん……?」
由利は自分の姿がお母さんに抱き抱えられ、横になっていることに気づいた。目の前には必死の形相をしたお母さん――そしてお父さんがいた。
「由利、大丈夫か!?」
「……お父さん? どうしたの?」
眼鏡に短髪の姿をした、由利のお父さんが問い詰めるように声を掛けている。一体どうしたのかと由利は目を向けて返答した。
「良かった、起きたのね! 痛くない? ここがどこだかわかる?」
強く抱きしめてくるお母さん。お母さんの質問に由利は一つずつ難無く答えていった。由利の返答が何一つおかしくないことをみると、お母さんはぱっと明るい表情に切り替わる。
「由利ちゃん、頭を打って白目をむいてたのよ! 良かった、無事で……」
お母さんは明るい表情のまま目に涙を浮かべていた。
お父さんとお母さんが言うには、由利は少しの間気絶していたのだという。
三人で出かけたハイキング。由利は途中で転けてしまい、地面に頭を打ってしまった。そのまま由利は白目になったまま動かなくなってしまっていたのだ。
何度も声を掛けてみても彼女は反応せず、両親の顔は真っ青になっていたところだった。
「とりあえず、病院で見て貰おう。さあ由利、お父さんがおぶってあげるから乗りなさい」
「うん」
由利はお父さんの背に乗る。温かくて大きな背中だった。その隣を離れずについていくお母さん。
安堵に包まれた両親。二人の光景は明るかった。先ほどまで絶望の淵に立たされていた二人の心中であったが、由利が目覚めたことによってその絶望はどこかへと過ぎ去ってしまった。二人が今見ている世界は、今日のハイキングの中で見たどの景色よりも鮮明に映ったはずである。
それはまさに、桃源郷の景色。見慣れている木や道路、空などの全てが色鮮やかな輝きに満ちて見えたに違いない。言うなれば、頭幻郷。頭の中に映る幻の郷だ。桃源郷はいつでも近くにあるのかも知れない。ただ普段はそれに気づかないだけなのだ。
あなたのそばにも、桃源郷は見えている。
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