30年前からのリスタート
金子透が四十年という人生に幕を閉じたのは、あまりにも唐突な夜だった。
結婚十年目を目前に控えた金曜日の晩、妻の優子が好きなベイクドチーズケーキを抱えて帰る途中の十字路。信号を無視して突っ込んできた大型トラックのヘッドライトが、透の視界を真っ白に染め上げた。
「あぁ、優子。ごめん、ケーキ、潰れちゃったな……」
それが、彼の最後の記憶になるはずだった。
次に透が目を覚ましたとき、視界に飛び込んできたのは、見覚えのある実家の子供部屋の天井だった。恐る恐る自分の手を眺めると、シミもシワもない、若々しい十歳の少年の手がそこにあった。
枕元のカレンダーは「一九九六年」。透は、三十年前の過去にタイムリープしていた。
「三十年……戻ったっていうのか。じゃあ、優子は?」
脳裏をよぎったのは、九歳年上の最愛の妻の姿だった。前世で出会ったとき、優子はすでに二度の離婚を経験した「バツ2」の三十九歳。透が三十歳のときだった。酸いも甘いも噛み分け、少し寂しげな微笑みを浮かべる彼女に、透は一目で恋に落ちた。決して裕福な暮らしではなかったが、小さなアパートで二人、寄り添うように暮らした十年近くの日々は、透の人生のすべてだった。
「待っていてくれ、優子。今度は俺が、お前を最初から幸せにしてみせる」
十歳の少年となった透は、誓った。前世の知識という、神から与えられた最大の武器を使って。
高校、大学へと進学する中で、透の頭脳は常に未来の経済動向を追いかけていた。二十歳になり、自分名義の口座を作ると同時に、前世の記憶を頼りに投資の世界へと足を踏み入れた。
二〇〇〇年代初頭のITバブル、その後の世界的な株価大暴落、そして特定のベンチャー企業の急成長。透にとって、未来の株価チャートはすでに結末を知っている映画のスクリプトのようなものだった。
周囲が就職活動に奔走する中、透はパソコンの画面に向かい、冷徹にレバレッジをかけ続けた。数百万の元手は数年で数千万になり、リーマンショックの裏をかくことで、それは数億、数十億という巨万の富へと膨れ上がっていった。
二十代後半を迎える頃には、透は都心の高級タワーマンションを複数所有し、何もしなくても莫大な資産が転がり込んでくる「勝ち組」の頂点に君臨していた。
「これで準備は整った」
高級仕立てのスーツに身を包み、高級外車のシートに深く腰掛けながら、透は手帳を開いた。
現在、二〇一五年。透は二十九歳。そして、優子は三十八歳になっているはずだ。
前世の歴史では、優子はこの翌年、二度目の夫の浮気と借金が原因で離婚し、心身ともにボロボロの状態で透の前に現れる。
「だったら、その地獄を味わう前に、俺が救い出せばいい」
透は興信所を使い、現在の優子――まだ「平井優子」だった頃の彼女の居場所を突き止めた。彼女は都内のアパレル関係の会社で、中間管理職として忙しく働いていた。
週末の午後、透は優子がよく立ち寄るというお洒落なカフェで待ち伏せをした。
ドアのベルが鳴り、彼女が入ってきた瞬間、透の心臓は激しく波打った。懐かしい、大好きな優子だ。前世の三十九歳の彼女よりも、少し若く、肌に張りがある。だが、その目元にはすでに、仕事と私生活の疲弊からくる特有の陰りが見えていた。
透は迷わず席を立ち、彼女の前に進み出た。
「あの、平井優子さん……ですよね?」
優子は驚いたように目を見開いた。見知らぬ、仕立ての良いスーツを着た若い男から急に名前を呼ばれたのだから当然だ。
「ええと、どちら様ですか?」
「初めまして、金子透と言います。驚かせてしまってすみません。でも、どうしてもあなたに会いたくて、ずっと探していたんです」
透は精一杯の誠実さを込めて微笑んだ。しかし、その時の透には見えていなかった。優子の瞳の奥に走った、明確な「警戒」の色が。
当時の優子は、最初の離婚の傷が癒えぬまま、二度目の夫との冷え切った関係に苦しんでいた時期だった。精神的に追い詰められていた彼女にとって、自分の名前を知り、行動パターンを把握して待ち伏せしてくる見知らぬ若い男は、恐怖以外の何物でもなかった。
「どうして私の名前を……? どこかで、お会いしましたっけ」
「いえ、今のあなたにとっては初対面です。でも、私はあなたのことをよく知っています。あなたが今、どんなに苦しい状況にいるかも。全部、俺に委ねてくれませんか? あなたを絶対に幸せにする。お金なら、いくらでもあるんです」
透は懐から、高級外車のキーと、外資系銀行のブラックカードをテーブルに提示した。前世では、記念日にファミレスに行くのがやっとだった。だからこそ、今度は溢れるほどの富で彼女を包み込み、すべての苦労から解放してやりたかったのだ。
だが、優子はそれを見て、あからさまに引き攣った笑みを浮かべ、一歩後ろに下がった。
「……あの、気味が悪いです。警察を呼びますよ?」
「待ってください優子! 俺はストーカーなんかじゃ――」
「名前を安易に呼ばないで! あなた、私の何を知っているっていうの!?」
優子の悲鳴に近い拒絶の声がカフェに響き渡った。周囲の客の視線が一斉に透に突き刺さる。
「帰ってください。これ以上つきまとったら、本当に通報します」
怯えと嫌悪が入り混じった目で自分を見る優子を前に、透はそれ以上、言葉を紡ぐことができなかった。
その後も、透は諦めきれずに彼女に接触を試みようとした。手紙を送り、彼女の職場の近くで待ち伏せをした。前世の記憶にある「彼女の好きなもの」や「二人の思い出の言葉」を散りばめたメッセージを送れば、いつか分かってくれると信じていた。
しかし、それが決定打だった。
ある日、透の元に届いたのは、優子が弁護士を通じて発行した「接近禁止警告書」だった。
そこには、彼女がいかに透の存在に怯え、精神的に追い詰められているかが冷徹な法律用語で書き連ねられていた。さらに、人伝に聞いた話では、優子はストーカー(透)の恐怖から逃れるために会社を辞め、地方へ引っ越してしまったという。
高級マンションの静まり返ったリビングで、透は一人、警告書を破り捨てて床に崩れ落ちた。
「どうして……どうしてこうなったんだ」
窓の外には、一望できる東京の夜景が広がっている。手元には、何十億という使い切れない資産がある。前世で欲しくてたまらなかった、何でも買える力。
それなのに、胸の奥にあるのは、底知れない虚しさと冷たさだけだった。
透は思い返す。
前世での、優子との生活を。
築四十年の、冬は隙間風が吹くアパート。
給料日前、二人で一つのカップラーメンを分け合って、「今月もギリギリセーフだね」と笑い合ったこと。
優子がパートで貯めたお金で、透の誕生日にプレゼントしてくれた、ノーブランドの安いネクタイ。
「透くんといると、私、バツ2だってこと忘れちゃうくらい安心するよ」
そう言って、布団の中で透の腕に抱きついてきた、あの柔らかい温もり。
あの時の二人は、間違いなく貧乏だった。
お金がなくて、旅行にも行けず、外食だって贅沢だった。
だけど、あの小さな部屋には、確かに言葉にできないほどの「幸せ」が満ちていた。
「俺は、間違えたんだ……」
前世の記憶を頼りに、未来を都合よく書き換えようとした傲慢さ。
優子が求めていたのは、上から目線で差し出される大金や、完璧な救世主などではなかった。ただ、同じ目線で寄り添い、共に傷つき、共に笑い合える泥臭いパートナーだったのだ。
資産家としての名声も、有り余る富も、今の透にとってはただの重荷でしかなかった。
どれだけ金を積んでも、あのボロアパートで二人で食べた、一杯のラーメンの味は買い戻せない。
三十年の時間を巻き戻し、世界の頂点に立った男は、何もない、冷え切った広い部屋の中で、ただ一人、二度と手に入らない本物の幸福を想って、静かに涙を流し続けた。
(終わり)




