返却期限のない話
返却された本を棚へ戻しながら、美咲はふと手を止めた。
旅行記のコーナーだった。
北海道。
金沢。
瀬戸内。
色鮮やかな表紙が並んでいる。
その中の一冊を、本来の場所へ差し込む。
何度も見ている本だった。
人気があるらしく、返ってきても、すぐに誰かが借りていく。
「楽しかったですよ」
不意に、声が蘇る。
先ほど返却に来た女性だ。
六十代くらいだろうか。
軽やかな色のスカーフを巻いたその人は、本を差し出しながら、少し照れたように笑っていた。
「一人旅なんて初めてだったんですけどね」
そう言って笑う顔が、妙に明るかった。
美咲はその時も、
「それは良かったですね」
と返した。
司書として、ごく普通に。
けれど、その笑顔がなぜだか頭から離れなかった。
旅行か――
最後に行ったのは、いつだっただろう。
思い出そうとして、やめる。
たぶん、十年以上前だ。
もう、正確には覚えていない。
若い頃は、旅行雑誌を眺めるのが好きだった。
行ったこともない土地の写真を見ているだけで、楽しかった。
いつか行ってみたい、と思う場所もあった。
函館。
小樽。
金沢。
冬の灯りが綺麗な街。
古い町並みの残る通り。
海の見える駅。
ページをめくるだけで、そこへ行けるような気がしていた。
けれど、いつの間にか考えなくなった。
仕事が忙しかったから、かもしれない。
お金に余裕がなかったから、かもしれない。
あるいは、そのうち行けると思っていたから、かもしれない。
その「そのうち」は、結局来なかったけれど。
閉館を知らせる音楽が、館内に流れ始める。
美咲は顔を上げた。
新聞コーナーの男性が席を立つ。
閲覧席にいた学生達も、慌てたようにノートを閉じている。
窓の外は、もう薄暗かった。
今日も一日が終わる。
明日も、同じように始まる。
返却された本を受け取り、棚へ戻し、利用者を見送る。
そしてまた、閉館時間になる。
それは、悪いことではなかった。
仕事は嫌いではない。
職場の人間関係にも、恵まれている。
生活にも困っていない。
大きな不満があるわけでもない。
それなのに――
時々、胸の奥に小さな空洞があるような気がした。
返却された本を棚へ戻す。
また、誰かが借りていく。
そして、返ってくる。
本は人から人へ渡りながら、誰かの時間を運んでいく。
資格の本も、料理の本も。
旅行記も。
けれど、自分の時間はどうだろう。
同じ棚へ本を戻しながら、美咲はふと思った。
この先も、ずっとこんなふうなのだろうか。
五年後も、十年後も。
私は同じ場所に、立っているのだろうか。
「三浦さん?」
呼ばれて振り返る。
後輩の佐々木が、不思議そうな顔をしていた。
「どうかしました?」
「あ、ごめんなさい」
美咲は慌てて笑う。
「何でもないわ」
そう答えながら、本を棚へ戻した。
何でもない――
本当にそうだろうか。
閉館作業を終えた頃には、外はすっかり暗くなっていた。
職員通用口を出る。
六月の夜風は少しだけ湿っていて、昼間の暑さをまだ残していた。
駅へ向かう道を歩く。
見慣れた商店街、見慣れた信号。
見慣れた帰り道。
けれど、その日だけは少し違った。
「楽しかったですよ」
昼間に聞いた言葉が、ふと頭をよぎる。
あの女性は、本当に楽しそうに笑っていた。
まるで、長い間迷っていたことをようやく、やってみた人のように。
美咲は小さく息を吐いた。
一人旅。
自分には、縁のない言葉のように思えた。
若い頃なら、違ったかもしれない。
旅行雑誌を眺めては、行ってみたい場所へ付箋を貼っていた。
函館。
小樽。
金沢。
いつか、行こうと思っていた。
その「いつか」が、来ることを疑いもしなかった。
けれど、気付けば四十八歳になっていた。
駅前のスーパーへ寄る。
買うものはいつも同じだ。
野菜を少し、牛乳。
お弁当。
レジへ並びながら、ぼんやり前を見る。
楽しそうだったな。
また、思う。
たった数分のやり取りだったのに、なぜだか忘れられない。
羨ましいのだろうか。
そう考えて、首を傾げる。
旅行が羨ましいのか。
一人旅が羨ましいのか。
それとも、あんなふうに笑えることが羨ましいのか。
自分でも、よくわからなかった。
帰宅すると、部屋は静かだった。
電気をつける。
買ってきたお弁当を温める。
テレビをつける。
旅番組が流れていた。
町の特集らしい。
夕暮れの海が、画面いっぱいに映る。
綺麗だなと思う。
ただ、それだけだ。
行きたい――
そう思う前に、別の言葉が浮かぶ。
今さら――
美咲は苦笑した。
いつから、だろう。
何かを思い付いても、何かをやってみたいと思っても。
まず、最初にその言葉が出てくるようになったのは――
今さら、旅行なんて。
今さら、新しい趣味なんて。
今さら、友達作りなんて。
誰かに、言われたわけではない。
自分で、勝手に線を引いているだけだ。
それなのに、その線の向こうへ行けなくなっていた。
食事を終え、食器を片付ける。
時計を見る。
午後九時を少し回っていた。
明日も仕事だ。
お風呂に入って、寝ればいい。
いつもなら、そうして一日が終わる。
けれど、その夜はなぜか眠る気になれなかった。
ソファへ腰を下ろす。
スマートフォンを手に取る。
何となく、ニュースを見る。
何となく、画面を眺める。
そして、ふと表示された広告へ目が止まった。
『AIと話してみませんか?』
思わず笑う。
「何を話すのよ」
独り言がこぼれた。
けれど、その指は広告を閉じなかった。
白い入力画面を前にして、しばらく考える。
何を書けば、いいのかわからない。
旅行へ、行きたいわけではない。
人生を、変えたいわけでもない。
ただ、胸の奥に引っ掛かっているものがあった。
あの女性の笑顔。
そして、『今さら』という言葉。
美咲はゆっくりと、文字を打ち込んだ。
『四十八歳から何か始めるのは遅いですか?』
送信ボタンを押したあとで、美咲は少し後悔した。
何を書いているのだろう――
四十八歳から、何か始める。
何を、どうして。
自分でもわからない。
それなのに、質問だけは送ってしまった。
画面を閉じようとした時だった。
返信が表示される。
『何を始めたいと思ったのですか?』
美咲は思わず、眉をひそめた。
「そうじゃなくて」
小さく呟く。
答えが欲しかったのだ。
遅くないですよ、とか。
まだ大丈夫ですよ、とか。
そういうことを、言ってくれるのだと思っていた。
なのに、返ってきたのは質問だった。
少し考えてから、美咲は文字を打つ。
『わかりません』
送信する。
すぐに続けた。
『ただ、このままなのかなと思っただけです』
しばらく、画面を見つめる。
自分で打った言葉なのに、少しだけ胸が痛かった。
このまま、それが何を意味するのか、自分でもよくわかっていない。
けれど、その言葉の中には、漠然とした不安が詰まっている気がした。
やがて、返信が表示される。
『このまま、とは?』
また質問だった。
美咲は思わず笑ってしまう。
「だから、それを聞いてるんだけど」
誰もいない部屋で呟く。
けれど、不思議と嫌ではなかった。
少なくとも、『遅くありません』と、決まり文句を返されるよりは。
少しだけ、考えたくなる。
美咲は、スマートフォンを持ち直した。
『仕事をして』文字を打つ。
『家に帰って』
少し考える。
『また仕事へ行って』
指が止まる。
何を、書こうとしているのだろう。
わからない。
けれど、そのまま続けた。
『気付いたら、十年くらい過ぎていそうで』
送信する。
しばらく、沈黙が続く。
部屋は静かだった。
冷蔵庫の小さな音だけが、聞こえる。
窓の外では、遠くを走る電車の音がした。
その時だった。
新しい返信が、表示される。
『十年後、どんなふうに過ごしていたら、良いと思いますか?』
美咲は画面を見つめた。
十年後――
五十八歳。
その数字を思い浮かべる。
そして、なぜだか昼間の旅行記を思い出した。
北海道。
金沢。
函館。
ページの向こうにあった景色。
昔の自分が、行きたいと思っていた場所。
忘れていたはずの記憶が、静かに浮かび上がってくる。
美咲はしばらく考えた。
そして、ゆっくりと文字を打ち始めた。
『それを、考えたことがありません』
送信したあと、美咲は画面を見つめたまま、動かなかった。
考えたことがない。
その言葉は、思っていた以上に重かった。
十年後。
五十八歳。
そこまで考えたことはあっても、その先を考えたことはなかった。
毎日を過ごすことに、慣れすぎていたのかもしれない。
明日のこと。
来週のこと。
来月のこと。
それくらいなら、考える。
けれど、十年後となると、急に言葉が出てこなくなる。
やがて、返信が表示された。
『では、十年前はどうでしたか?』
美咲は目を瞬く。
十年前――
三十八歳。
今より若かった。
けれど、若いと言い切れるほど若くもない。
仕事にも、慣れ始めていた頃だ。
美咲はソファへ深くもたれた。
十年前の自分。
何をしていただろう。
何を考えていただろう。
しばらくして、ふと思い出す。
図書館の休憩室で、読んでいた旅行雑誌。
付箋を貼っていたページ。
函館の夜景。
小樽の運河。
金沢のひがし茶屋街。
いつか、行きたいと思っていた。
その頃はまだ、本気でそう思っていた気がする。
美咲は少しだけ苦笑した。
『旅行には、行きたかったかもしれません』
送信する。
すると、すぐに返信が来た。
『行かなかった理由は、何ですか?』
また質問だった。
美咲は天井を見上げる。
「本当に質問ばかりね」
思わず声に出る。
けれど、嫌ではなかった。
むしろ、自分でも答えを知りたくなっている。
行かなかった理由――
忙しかったから。
お金がなかったから。
休みが取れなかったから。
理由は、いくつも浮かぶ。
けれど、どれも少し違う気がした。
美咲は、スマートフォンを見つめる。
そして、ゆっくりと文字を打ち込んだ。
『そのうち、行こうと思っていたからです』
送信したあとで、自分でも驚いた。
たぶん、それが一番本当の理由だった。
そのうち。
落ち着いたら。
時間ができたら。
いつか。
そう思っているうちに、十年が過ぎていた。
画面に、新しい返信が表示される。
『では、その「そのうち」は、いつ来ると思いますか?』
美咲は言葉を失った。
静かな部屋だった。
時計の秒針だけが、進んでいる。
その音を聞きながら、美咲は初めて思う。
もしかすると――
自分は旅行へ行かなかったのではなく、何かを始めることを、ずっと先送りにしていただけなのかもしれない。
翌朝。
目が覚めた時、美咲は最初にスマートフォンへ視線を向けた。
珍しいことだった。
普段なら時計を見て、慌てて起きるだけなのに。
画面には、昨夜の会話が残っている。
『では、その「そのうち」は、いつ来ると思いますか?』
短い一文だった。
美咲は、しばらく見つめる。
答えは思いつかなかった。
けれど、その質問だけは頭のどこかに残ったまま、仕事へ向かった。
図書館へ着く。
開館準備。
返却本の整理。
予約本の確認。
いつもの朝だった。
変わったことなど、何もない。
それなのに、旅行記の棚の前を通った時、美咲は思わず足を止めた。
函館。
小樽。
金沢。
昨日と同じ本が、並んでいる。
いつも見ていたはずなのに、今朝は少しだけ違って見えた。
美咲は苦笑する。
たった一晩、誰かと話しただけだ。
しかも相手はAI。
それなのに、頭の中の引き出しを勝手に開けられたような気分だった。
昼休み。
休憩室で、お弁当を広げる。
何気なく、スマートフォンを開く。
旅行サイトの記事が表示される。
函館特集。
昨夜、検索したせいだろう。
海鮮丼。
赤レンガ倉庫。
夜景。
美咲は思わず笑った。
「単純ね」
自分で呟く。
行くわけでもないのに。
記事を閉じようとして、
ふと手が止まる。
料金を見る。
新幹線。
ホテル。
二泊三日。
思っていたより、高くない。
むしろ、思っていたより現実的だった。
その事実に少し驚く。
今まで、考えたこともなかったからだ。
その夜。
帰宅した美咲は、昨日より少しだけ自然に画面を開いた。
『今日、函館の旅行代金を調べました』
送信する。
少しして、返信が来る。
『どう思いましたか?』
美咲は笑ってしまった。
「だから質問ばっかり」
けれど、もう嫌ではない。
むしろ、考える。
昨日の自分なら、閉じていた。
でも、今日は違う。
だから、正直に打ち込んだ。
『思っていたより行けそうでした』
送信する。
画面を見つめる。
すると、『それは良かったですね』
初めて質問ではない返事が返ってきた。
美咲は思わず吹き出した。
「そこは質問じゃないのね」
誰もいない部屋で笑う。
そして久しぶりに、自分の未来を少しだけ想像した。
二泊三日。
函館。
五十八歳の話ではない。
来月の話だ。
そのことに気付いた時、美咲の胸の奥で、何かがほんの少し動いた気がした。
それから数日が過ぎた。
美咲の日常は、相変わらずだった。
朝、図書館へ行く。
本を整理する。
利用者の対応をする。
帰宅する。
大きく変わったことは、何もない。
それでも、ほんの少しだけ違うことがあった。
以前より、本を見るようになったのだ。
もちろん、仕事では毎日見ている。
けれど、それとは違う。
棚を眺めながら、「面白そう」と思うことが増えた。
旅行記だけではない。
写真集。
散歩の本。
カフェ巡りの本。
今までなら、通り過ぎていた棚の前で、ふと足が止まる。
自分でも、不思議だった。
ある日の午後。
返却カウンターへ、一冊の本が置かれた。
『東京レトロ喫茶巡り』
見覚えのある本だった。
先月入ったばかりの新刊で、予約が多かった一冊だ。
「面白かったです」
本を返却した女性が笑う。
三十代くらいだろうか。
「そうですか」
美咲は、いつものように答えかけた。
けれど、なぜだかその先の言葉が出た。
「どんなところが良かったんですか?」
女性が少し驚く。
そして、嬉しそうに話し始めた。
「行ったことのないお店ばかりで」
「写真も綺麗なんです」
「思わず休みの日に行っちゃいました」
美咲は頷きながら聞く。
話を聞いているうちに、少しだけ気になった。
どんな店なのだろう。
どんな景色なのだろう。
女性が帰ったあと、美咲は返却された本を見下ろした。
そして、そっと表紙を開く。
珈琲の湯気。
古い木の椅子。
窓際の席。
写真を見ているだけなのに、どこか楽しそうだった。
気付けば、閉館時間まで、何度もその本を手に取っていた。
その夜。
美咲はいつものように、スマートフォンを開いた。
『最近、本を見るのが少し楽しいです』
送信する。
以前なら、書かなかった言葉だった。
少しして、返信が届く。
『何が変わったのでしょう?』
美咲は苦笑する。
「また質問」
けれど、今は嫌ではなかった。
むしろ考える。
何が、変わったのだろう。
しばらく悩んでから、ゆっくりと打ち込む。
『前は仕事のために見ていました』
指を止める。
そして、続けた。
『今は、自分のために見ている気がします』
送信したあと、美咲はその文章を見つめた。
それは、小さな違いだった。
けれど、自分にとっては思っていた以上に、大きな違いだった。
その変化に最初に気づいたのは、美咲ではなかった。
ある日の昼休み。
休憩室でお弁当を広げていると、向かいへ佐々木が座った。
「三浦さん」
「ん?」
「最近、何かありました?」
美咲は首を傾げる。
「何かって?」
「いえ……」
佐々木は少し考えるように箸を止めた。
「前より楽しそうだなって」
美咲は思わず笑った。
「そんなことないわよ」
「そうですか?」
「うん」
即答だった。
実際、何かが変わったという実感はない。
毎日図書館へ来ているし、同じ仕事をしているし。
相変わらず、一人暮らしだ。
旅行へ、行ったわけでもない。
人生が、大きく変わったわけでもない。
だから、佐々木の言葉が不思議だった。
「気のせいじゃない?」
「そうかなあ…」
佐々木は、納得していない顔をした。
「でも、前より笑ってる気がします」
そう言って、お茶を飲む。
美咲は返事に困った。
笑っている。
そんなつもりはなかった。
けれど、最近自分でも思うことがある。
仕事の合間に、本を開く時間が少し楽しみになっていること。
帰宅してから、何を読もうか考えること。
スマートフォンを開いて、誰かと話すこと。
それは、以前にはなかったことだった。
「まあ、悪いことじゃないですよね」
佐々木は笑った。
「そうね」
美咲も笑う。
その時だった。
ふと、頭の中に浮かぶ。
何が、変わったのだろう--
本当に、何が。
その夜。
帰宅した美咲は、いつものようにスマートフォンを開いた。
『最近、前より笑っていると言われました』
送信する。
少しして、返信が届く。
『どう思いましたか?』
「また質問」
思わず声が漏れる。
けれど、もう慣れていた。
美咲は少し考える。
嬉しかったのか、恥ずかしかったのか。
驚いたのか。
どれも、違う気がした。
しばらく悩んでから、文字を打つ。
『自分では、変わっていないと思っていました』
送信する。
すぐに、返事が来た。
『では、半年前のあなたと今のあなたで、違うことはありませんか?』
美咲は、画面を見つめた。
半年前。
何をしていただろう。
思い返す。
そして、少しだけ笑った。
『函館のホテル代は、調べていませんでした』
送信した瞬間、自分で吹き出してしまう。
すると、『それは大きな違いかもしれません』という返事が返ってきた。
美咲は、声を立てて笑った。
部屋に自分の笑い声が響く。
それが、少しだけ新鮮だった。
週末だった。
珍しく予定のない土曜日。
洗濯をして、掃除をして。
買い物へ行く。
いつもと同じ、休日だった。
それなのに、どこか落ち着かない。
理由はわかっていた。
スマートフォンの中にある、『函館のホテル一覧』、『保存したままになっている旅行サイト』
何度も見ているのに、予約ボタンだけは押していない。
美咲は、ソファへ腰を下ろした。
窓の外では、初夏の日差しが揺れている。
「何をやってるのかしら」
思わず呟く。
行きたいのなら、行けばいい。
そう思う。
けれど、その一歩が思っていたより遠かった。
一人だからだろうか。
お金がもったいないからだろうか。
違う――
たぶん、失敗したくないのだ。
楽しめなかったら、どうしよう。
一人で、寂しくなったらどうしよう。
そんなことを、考えてしまう。
その時だった。
スマートフォンへ、視線が落ちる。
昨夜の会話が残っていた。
『それは、大きな違いかもしれません』
その一文を見て、美咲は少し笑った。
ホテル代を調べただけで、大きな違い。
そんなこと、あるだろうか。
けれど、半年前の自分なら確かに調べていなかった。
考えもしなかった。
そう思うと、不思議な気持ちになる。
美咲は、旅行サイトを開く。
函館ではなく、東京近郊の日帰り特集。
電車で一時間。
古い街並み。
小さな喫茶店。
神社。
商店街。
どれも、今からでも行けそうな場所だった。
美咲は、しばらく画面を見つめる。
そして、気付けば小さく笑っていた。
函館じゃなくても、いいのかもしれない
――
その考えは、自分でも意外だった。
旅行へ行くことが、大事なのではなく、どこかへ行こうと思うことが、大事なのかもしれない。
窓から風が入る。
カーテンが揺れる。
美咲は、スマートフォンを手に取った。
『函館じゃなくても、良いのかもしれません』
送信する。
しばらくして、返信が届く。
『どうして、そう思ったのですか?』
美咲は笑う。
本当に質問ばかりだ。
けれど、今なら少し答えられる気がした。
『行くことより、動くことの方が大事な気がしたからです』
送信した後、その文章を何度も見返した。
そして、自分で書いた言葉なのに、少しだけ胸が熱くなった。
翌週の休日。
美咲は、電車に乗っていた。
函館ではない。
隣県の小さな街だった。
古い商店街が残り、喫茶店が点在している。
旅行と、呼ぶほどでもない。
ただ少しだけ、いつもと違う場所へ来てみただけだ。
それでも、窓の外を流れる景色を眺めながら、美咲は少しだけ、胸が弾んでいる自分に気付いていた。
喫茶店で珈琲を飲む。
本屋へ立ち寄る。
知らない道を歩く。
それだけだった。
それだけなのに、帰りの電車へ乗った時、美咲はふと思った。
楽しかったな、と。
声に出すほどではない。
けれど確かに、そう思った。
その夜。
帰宅した美咲は、いつものようにスマートフォンを開いた。
『今日は、少し遠くまで出掛けました』
送信する。
少しして、返信が届く。
『楽しかったですか?』
美咲は笑う。
以前なら、そんなこと聞かれても困っただろう。
けれど、今は違う。
『はい』
短く返す。
すると、『何が楽しかったのでしょう?』と返ってきた。
美咲は考える。
喫茶店。
本屋。
商店街。
電車の窓から見えた景色。
思い浮かぶものは、いくつもあった。
その中から一つを選ぼうとして、やめた。
『全部です』
送信する。
すぐに、返事が届いた。
『以前は、何をしたいかわからないと仰っていました』
美咲は画面を見つめる。
『今は、楽しかったことをいくつも挙げられています』
その言葉に、少しだけ胸が熱くなった。
『覚えていたんですね』
思わず送る。
すると、『会話履歴に残っていますから』
返ってきた文章に、美咲は吹き出した。
らしい答えだと、思った。
数日後。
返却カウンターで、利用者の対応をしていた時だった。
「三浦さん」
後ろから声が掛かる。
振り返ると、館長だった。
「はい」
「最近、楽しそうですね」
美咲は目を瞬く。
その言葉を聞いたのは、初めてではない。
けれど、今までとは少し違って聞こえた。
「そうですか?」
「ええ」
館長は笑った。
「何か、良いことでもありましたか?」
美咲は答えようとして、言葉に詰まる。
何か良いこと――
特別なことは、何もない。
旅行へ行ったわけでもない。
人生が、劇的に変わったわけでもない。
けれど、以前と同じではなかった。
美咲は小さく笑う。
「少しだけ」
そう答えると、館長も笑った。
「それは良かった」
閉館を知らせる音楽が、流れ始める。
美咲は返却された本を手に取り、棚へ向かった。
旅行記のコーナーだった。
北海道。
金沢。
瀬戸内。
色鮮やかな表紙が、並んでいる。
その中の一冊を、本来の場所へ戻す。
何度も見てきた本だ。
けれど、少し前とは違って見えた。
「ありがとうございました」
ふと声がした。
振り返ると、利用者の女性が頭を下げている。
以前、北海道の旅行記を借りていった人だった。
「あの本のおかげで、行ってこられました」
そう言って笑う。
あの日と同じように、楽しそうに。
美咲も笑った。
「それは、良かったですね」
今度は、心からそう思えた。
女性が帰っていく。
その背中を見送りながら、美咲は本棚へ視線を戻した。
返却された本は、また誰かの手に渡る。
読まれて、閉じられて。
そして、戻ってくる。
図書館の本には、返却期限がある。
けれど、人生は違うのかもしれない。
やりたかったことも、行ってみたかった場所も。
始めてみたかった何かも、もう遅いと思っていた。
とっくに、期限が過ぎているのだと思っていた。
けれど、そんなものは、最初からなかったのかもしれない。
「三浦さん」
佐々木の声がする。
「閉館ですよ」
「今行くわ」
返事をしながら、美咲は最後にもう一度だけ、本棚を見た。
函館。
小樽。
金沢。
その中の一冊へ、視線が止まる。
少し考えてから、そっと抜き取った。
貸出カウンターへ向かう。
利用者として、本を借りるのは、いつ以来だろう。
思い出せない。
けれど、それも悪くない気がした。
貸出手続きを終えたあと、
ポケットの中でスマートフォンが震える。
何気なく開く。
昨夜の会話が、表示された。
しばらく眺めてから、美咲は文字を打ち込む。
『ありがとうございました』
送信する。
少しして、返信が届いた。
『何に対してですか?』
思わず笑ってしまう。
本当に、この相手は変わらない。
美咲は立ち止まり、少し考えた。
そして、 ゆっくりと文字を打つ。
『話を聞いてくれたことです』
送信する。
返事はすぐに来た。
『それは良かったです』
短い文章だった。
けれど、それで十分だった。
スマートフォンをしまい、顔を上げる。
夜風が頬を撫でた。
明日も仕事だ。
相変わらず、同じ毎日だろう。
それでも、少しだけ違う。
美咲は旅行記を抱え直し、駅へ向かって歩き出した。
その足取りは、以前よりほんの少しだけ軽かった。




