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この作品には 〔残酷描写〕が含まれています。

血被り聖女は神殿を追放されたので、患者を治しに行きます 〜次期聖女様、祈りの前に止血をしたらどうですか〜

作者: 水素味
掲載日:2026/05/12

※現実の医療とは異なるファンタジー救護描写です。

※手術描写、血管描写などが苦手な方は閲覧をご遠慮ください

リシェルが神殿へ戻った時、袖口からはまだ血が滴っていた。


野戦救護の帰りだった。


騎士を三人縫い、ひとりの腹から呪膿を抜き、死者の喉に残った名持ちの呪いを追い出した。


最後の患者は助からなかった。


けれど、喉に絡んでいた呪いだけは抜いた。

遺体を、家族に返せる形にはできた。


それが救いになるかどうかは分からない。


それでも、残された者が顔を見て別れられるなら、何もしないよりはいい。

少なくとも、喉の奥から他人の声で笑う死体を返すよりは、ずっといい。


だから、今日の仕事は終わりだった。


そう思っていた。


神殿の白い回廊は、夕方の光を受けて淡く輝いていた。


磨き上げられた床。

白い柱。

白い布。

白い花。


この神殿は、表から見るぶんには清らかだ。


リシェルの靴底についた黒い泥が、そこへ点々と跡を残す。


侍女が小さく息を呑んだ。


「リシェル」


大神官は、回廊の中央に立っていた。


その隣には、ひとりの少女がいる。


白い衣。

柔らかく結われた金髪。

花弁のように淡い頬。

汚れひとつない手袋。


聖女、という言葉を絵にしたような少女だった。


リシェルは、自分の手を見下ろした。


手袋は替えたばかりだ。

けれど、もう血が滲んでいる。

爪の間には、洗っても落ちなかった灰が残っていた。


「君には、救護棟を退いてもらう」


大神官は言った。


リシェルは返事をしなかった。

血のついた鞄を足元へ下ろす。


「次期聖女には、こちらのエレナを立てる。今後、救護棟の聖務はエレナを中心に行う」


少女――エレナは、少し緊張した顔で微笑んだ。


「よろしくお願いいたします、リシェル様」


声まで澄んでいる。


リシェルは、エレナの衣装を見た。


上質な白布を惜しげもなく重ね、裾には細かな刺繍が入っている。

袖口のレースは、手首を動かすたびに揺れた。


彼女は、少しだけ息を吐いた。


「その衣装で、一体いくつのベッドシーツになるんでしょうね」


回廊が静まり返った。


大神官の眉が動く。


「リシェル」


「失礼いたしました。では、引き継ぎを」


リシェルは鞄を持ち上げた。


「今から救護棟へご案内いたします」


エレナの表情が、わずかに明るくなった。


「はい。精一杯、学ばせていただきます」


「倒れないでくださいね」


「え?」


「いえ」


リシェルは歩き出した。


神殿の表側は白い。


だが、救護棟へ近づくにつれ、空気は変わる。


薬草を煮る匂い。

焦げた布の匂い。

血の匂い。

洗っても落ちない膿の匂い。


扉を開けると、叫び声が落ちてきた。


「押さえて! 腕を押さえて!」


「吐きます!」


「桶を!」


リシェルは迷わず中へ入った。


長い室内には処置台が並んでいる。

片側には軽傷者。

奥には隔離幕。

さらに奥は、祈りをかける前に切る必要がある患者たち。


床には水が撒かれていた。

水は薄く赤い。


エレナが、一歩で止まった。


「こちらが救護棟です」


リシェルは淡々と言った。


「右の棚が通常包帯。左が灰布。赤い札の棚は触らないでください。名持ちの呪いに触れた布です。そちらの桶は吐血用、隣は呪膿用。混ぜると祈りが通りません」


エレナの顔から血の気が引いた。


「嘔吐物は捨てないでください。色を見ます。黒なら血、緑なら胆、銀なら祈り返し、泡が白ければ肺を疑います」


「そ、そう、なのですね」


「はい。患者が波の音、鐘の音、子どもの声を訴えた場合は、傷を塞がないこと。祈りで閉じる前に、何が中にいるか確認します」


エレナの唇が震えた。


それでも、彼女は必死に頷いた。

神殿が次期聖女として選んだ少女だ。覚悟がないわけではないのだろう。


ただ、覚悟と現場は違う。


その時、奥の処置台で男が血を吐いた。


床へ、黒いものが飛ぶ。


エレナの目が見開かれた。


リシェルはそちらを見た。


「桶。左ではなく右。飲ませないで」


若い下働きが慌てて動く。


エレナは、その場で膝から崩れた。


倒れる音がした。


周囲が騒ぐ。


「聖女様が!」


「エレナ様!」


リシェルは、血を吐いた患者の呼吸を見た。

次に、倒れたエレナを見る。


「頭を打っていなければ、後で診ます」


「リシェル様!」


「そちらは呼吸があります。こちらは、今からなくなります」


彼女は手袋を替えた。


「湯を。灰布を。銀針。吐いたものは捨てないでください。色を見ます」


救護棟は、また動き出した。


白い聖女は、床に倒れていた。


血まみれの聖女だけが、立っていた。



翌日。


神殿は、エレナのために患者を選んだ。


見栄えのよい患者だった。


若い貴族の青年。

腕に浅い切り傷。

血はもう止まっている。

顔色も悪くない。

呪膿も表へ出ていない。


礼拝堂の一角に小さな処置台が置かれ、神官たちが周囲を囲んでいた。


リシェルは、壁際に立っていた。


「今日こそ、エレナ様の聖なる祈りを皆で拝見する」


大神官は厳かに言った。


エレナは緊張していた。

けれど、昨日よりは顔色がよい。


血が少ないからだ。


リシェルは患者を見た。


浅い切り傷。

だが、傷の周囲がわずかに熱を持っている。

皮膚の下に、緩い膨らみ。

神経に沿うような痛みの逃げ方。


見た目より悪い。


「その傷は、まだ閉じない方がよろしいかと」


リシェルが言うと、神官のひとりが振り返った。


「君は黙っていなさい。今日はエレナ様の実践だ」


「中に残っています」


「何がだ」


「呪膿です」


神官たちは顔をしかめた。


患者も少し不安そうに腕を見た。


エレナが小さく息を吸う。


「大丈夫です。神の御手は、どんな傷も癒やしてくださいます」


彼女は両手をかざした。


白い光が降りる。


美しい祈りだった。


礼拝堂の花が揺れ、神官たちが感嘆の息を漏らす。

青年の腕の傷が、淡く光りながら塞がっていく。


皮膚はなめらかになった。

血は見えない。

傷跡も薄い。


「おお……!」


「さすが次期聖女様」


エレナはほっと微笑んだ。


その直後、青年が呻いた。


「う……っ」


彼の顔色が変わる。

塞がったはずの腕が、内側から膨らむ。


リシェルはため息をついた。


「不潔に蓋をしてどうするのです」


「何を……」


エレナが振り向く。


リシェルはすでに鞄を開けていた。


黒い革鞄。

角は擦れ、留め具は銀。

神殿の聖女が持つには、あまりに古く、あまりに重そうな鞄だった。


彼女は中から銀のメスを取った。


「麻酔を入れます」


「何をする気だ!」


「塞いだ傷を開けます」


「エレナ様の奇跡を切り開く気か!」


「患者の命を切り捨てるよりは」


リシェルは青年の腕を押さえた。


「痛みます。噛まないでください。三呼吸だけ」


彼女は麻酔祈祷札を青年の手首へ当てた。

光は弱い。

けれど、正確に沈む。


傷跡へ刃を入れる。


エレナが息を呑んだ。


白く塞がった皮膚の下から、黒い膿がどろりと溢れた。


礼拝堂に悲鳴が上がる。


リシェルは眉ひとつ動かさない。


「白布ではなく灰布を」


下働きが慌てて布を渡す。


「吐くなら横へ。飲ませないで。呼吸は残っています」


黒い呪膿を出し、傷の奥を洗う。

銀針で細い血管をつまむ。


神官が震えた声で言った。


「祈りで治せばよいだろう!」


「“治れ”では遅いので」


リシェルは、血に濡れた指先で切れた血管を示した。


「ここの血管を、このように繋げよ。その方が、神によく届きます」


祈りが落ちた。


白くはなかった。

清らかでもなかった。

血と膿と灰の中へ、細い光がまっすぐ入っていく。


血管が繋がる。

肉が閉じる。

呪膿を抜いた傷だけが、静かに塞がった。


青年の呼吸が落ち着く。


リシェルは手袋を外した。


「傷が閉じたことと、患者が助かったことは違います」


エレナは青ざめたまま立っていた。


神官たちは怒りで震えていた。


「リシェル」


大神官の声は低かった。


「君には、正式に神殿を去ってもらう」


周囲が静かになる。


「切って繋ぐなら祈祷師でよい。聖女とは、清らかに祈る者だ。君のように血と膿にまみれた者を、聖女とは呼べない」


リシェルは鞄の留め具を閉じた。


「それは助かります」


大神官が眉をひそめる。


「何?」


「やっと、治したい患者のところに行けますので」


神官たちが言葉を失う。


リシェルは処置台の脇から厚い書類束を取り出した。


「では、引き継ぎ書はこちらに。救急患者の分類表、薬草棚の鍵、汚染布の焼却手順、祈ってはいけない傷一覧、死亡記録の提出先、すべてまとめてあります」


「待て」


「待ちません」


リシェルは鞄を肩にかけた。


「患者が待っておりますので」


神殿を出る前に、リシェルは救護棟の奥へ戻った。


私物は少ない。


替えの手袋。

古い外套。

書きかけの処置記録。


それから、未処置記録。


助けられなかった患者の名が、そこには綴じられている。


正しくは、助けられなかったのではない。


許可が下りなかった。

祈祷料が足りなかった。

聖女らしくない処置だと止められた。

民話など迷信だと、問診を退けられた。


そういう患者の記録だった。


リシェルは一冊を開く。


《ヴァルター・エイゼン太公。黒山羊呪と診断。継続祈祷七年》


その下に、自分の字があった。


《黒山羊反応弱し。発熱時刻不一致。脂臭なし。傷口閉鎖不可。再診断を要す》


さらに下には、上席神官の赤い字。


《不要な再診断を禁ず。黒山羊呪として継続祈祷》


リシェルは、その頁を見た。


七年。


まだ生きているなら、間に合うかもしれない。


彼女は記録を鞄へ入れた。


「最初は、太公様ですね」



ヴァルター・エイゼン太公は、七年寝台に沈んでいた。


治療不能。


神殿の診断書には、そうは書かれていない。


《黒山羊の呪い。継続祈祷により進行抑制中》


そう書かれていた。


リシェルは太公屋敷の応接室で、その診断書を読んだ。


エイゼン太公家は、古い家だ。


王家の傍流に連なり、北西の大領と、いまは使われなくなった旧港湾権を持つ。

太公が病で退く前は、王宮の会議でも神殿の予算案に口を出せるほどの力があったという。


だからこそ、神殿は彼を手放さなかったのだろう。


定期祈祷。

聖具。

護符。

聖布。

信仰という名の請求書が、七年分積み上がっている。


家令が緊張した面持ちで立っていた。


「神殿からは、黒山羊の呪いと」


「黒い膿だけで黒山羊と決めたのなら、診断ではありません。色当てです」


家令が息を呑んだ。


診断書の横には、祈祷料の明細がある。


月ごとの継続祈祷。

特別聖香。

黒山羊除けの護符。

聖布の交換費。


七年分。


リシェルは、最後の頁を閉じた。


「太公様のもとへ」


太公の寝室は、重い匂いに満ちていた。


火の聖香。

黒山羊除けの護符。

高価な香炉。

締め切られた窓。

寝台には神殿印の聖布。


リシェルは足を止めた。


「……っち、杜撰すぎます」


家令が硬直した。


「今、舌打ちを」


「しました。すぐに緊急処置をいたします。その香炉は要りません。処分。窓を開けて。火を消して。塩を持ってきてください。水も。汲み置きではなく、今汲んだものを」


侍女たちが顔を見合わせる。


「神殿からは、水を控えるようにと」


「神殿は七年かけて悪化させました。今は私が診ます」


寝台の上で、太公が目を開けた。


痩せていた。

頬はこけ、唇は乾いている。

だが、目はまだ死んでいない。


青灰色の目だった。


衰弱しているのに、視線だけが病床に置き去りにされていない。

リシェルを見ている。


「君は……私を癒やしに来たのか」


声は掠れていた。


リシェルは寝台の脇に立つ。


「いいえ」


太公の目が、わずかに動く。


「では?」


「以前、助けられませんでした。処置をしに来ました」


太公はしばらく彼女を見た。


それから、ほんの少しだけ笑いそうになった。


「妙な聖女だ」


「笑うと出血します」


「では、後で笑おう」


「後でなら、いくらでも」


リシェルは鞄を開いた。


中を見た侍女が、小さく悲鳴を飲み込む。


銀のメス。

焼き針。

縫合糸。

銀管。

灰布。

鉛布。

海塩。

黒塩。

聖灰。

麻酔祈祷札。

名問いの鈴。

封じ釘。

骨鋸。


祈りの道具と、肉を開く道具が、同じ箱の中に並んでいる。


「……聖女様の鞄、なのですか」


侍女が震える声で聞いた。


「もう聖女ではありませんが」


リシェルは迷わず銀のメスを取った。


「救護棟では、だいたいこれで足ります」


太公が、掠れた声で言う。


「医者の鞄か」


「半分は」


「残り半分は」


リシェルは、名問いの鈴を一度だけ見た。


「患者ではないものを追い出す道具です」


太公は黙った。


リシェルは問診を始めた。


「女性から贈り物は」


「……多くはないが」


「その中に、紙でできた箱は。内側に香が移るような薄い箱です」


「ない」


「髪を結んだ紐は。赤か紫のものは」


「覚えがない」


「では、男性から宝石を贈られたことは。指輪、飾り釦、剣帯の留め具。身につけるものです」


「青い石なら」


「赤は」


「ない」


リシェルは記録を取る。


紙箱ではない。

髪紐ではない。

赤石ではない。


家令がたまらず口を挟んだ。


「それらが、太公様の病と何の関係があるのですか」


「民話は、昔の患者記録です」


リシェルは太公の脈を見ながら答えた。


「村で繰り返し起きた症状が、怪談の形で残ります。紙箱で香を移された者、髪紐で縁を縛られた者、赤石に血を吸われた者。名前が違うだけで、症例です」


「迷信では」


「迷信として扱うと、患者が死にます」


家令は黙った。


「倒れる前、遠出をされたのは」


「王都へ」


「その前は」


「東方の会議へ」


「黒山羊なら、夜明け前に熱が上がります。太公様は」


家令が答える。


「夜半です。月が高い頃に」


「黒山羊なら脂の臭いがするはず」


リシェルは聖布へ手をかけた。


「この布は外します」


「神殿から、外してはならないと」


「保護ではありません。蓋です」


聖布を剥がす。


患部の周囲は黒く湿っていた。

封じ込められた呪膿が、皮膚の下で重く波打っている。


家令の顔色が変わった。


「切開します」


「診断は」


「まだです」


リシェルは手袋を替えた。


「ですが、閉じたままでは死にます」


麻酔祈祷札を太公の胸元に置く。


「痛みは残します。消しすぎると、呪いの位置が分かりません」


リシェルは銀のメスを入れた。


黒い呪膿が、どろりと溢れる。


侍女が口元を押さえた。


「吐くなら外で。倒れるなら壁際で。立っていられるなら働けます」


リシェルは銀管を取った。


「塩水。海と同じ濃さで」


「海と同じ……?」


「ええ。分からなければ、そこの本を開いて。二十八頁三十六行目にあります」


銀管を患部へ入れる。


黒い液が器へ落ちた。


最初は、ただ重い音だった。


次に、低く鳴った。


長く、深く。

部屋の中ではない。

海の底から響くような声。


リシェルの手が止まる。


「……鯨」


太公の呼吸が乱れた。


リシェルは麻酔祈祷を細く保ったまま、顔を上げる。


「太公様。海に行かれたことは」


「……ある」


「そこで、鯨を見ましたね」


太公の喉が震えた。


「赤い鯨でしたか。白い鯨でしたか」


長い沈黙のあと、太公が答えた。


「……赤だ」


リシェルは短く息を吐いた。


「赤ですか。よかった」


「何が、よかった」


「白なら、私の肺を片方移すしかありませんでした」


部屋中の者が凍りついた。


太公だけが、弱々しく眉を上げる。


「君は、それを当然のように言うのか」


「必要であれば」


太公は、わずかに眉を顰めた。


「赤い鯨は血を追います。白い鯨は息を奪います。太公様は赤です。血管に絡んでいる」


彼女は神殿の聖布を見た。


「本来なら、ここまで深くありません」


「なぜ深くなった」


「塞いだからです。何度も」


太公の目が、静かに冷えた。


「私は、七年かけて悪化を買っていたのか」


「そうなりますね」


リシェルは頷きもしなかった。


「ナルヴァ神の神殿から祈祷師を。いなければ信者で構いません。船乗りでも、魚売りでもいい。肺に潮を通したことがある者を」


「すぐに!」


家令が走る。


「白い布は使いません。白鯨に見つかります。灰布を」


リシェルは記録係を指した。


「私が言うことを全部書いて」


老いた魚売りが連れてこられたのは、それから間もなくだった。


彼はナルヴァ神の正式な祈祷師ではない。

だが、海辺の生まれで、赤い鯨を眠らせる古い歌を知っていた。


「歌えますか」


リシェルが聞くと、老人は震えながら頷いた。


「歌えます。けれど、あれは葬送の歌で」


「今日は帰す歌です。歌ってください」


老人が歌い始める。


低く、波のような歌だった。


リシェルは祈る。


「右腹部、潮呪による血管裂開。赤鯨反応あり。出血を三呼吸だけ弱めよ。呪膿は閉じず、管へ流せ。生きた肉を残し、死んだ肉だけを離せ」


祈りが落ちる。


傷は塞がらない。

血だけが、遅くなる。

呪膿が管へ流れる。


器の中で、鯨が鳴く。


太公の呼吸が浅くなる。


「眠らないでください」


リシェルは言った。


「今眠れば死にます」


「……それは、困るな」


太公の手が、敷布を掴む。


呪いが一度、心臓へ戻ろうとした。


リシェルは自分の指先を切ろうと、銀のメスを動かす。


その前に、太公が彼女を見た。


「君は、自分を使うのか」


「足りない時だけです」


「足りていると言え」


リシェルは、初めてわずかに黙った。


「……治りは遅くなりますが、足ります」


「よろしい」


患者に言われることではない。


それでもリシェルは、指を切らなかった。


老人の歌が続く。

塩水が黒く濁る。

器の中の声が、少しずつ遠ざかる。


最後にリシェルは、切れた血管を押さえた。


「繋ぎたまえ、血が漏れぬよう」


光が落ちる。


肉が閉じる。

呪膿の逃げ道を残したまま、必要な場所だけが繋がる。


鯨の声は、もう聞こえなかった。



太公が目を開けたのは、夜だった。


「……朝か」


リシェルは記録を書いていた。


「夜です」


「そうか」


太公の声は、まだ弱い。

だが、昨日までとは違っていた。

死へ沈む声ではない。


リシェルは筆を止めずに言う。


「ですが、太公様の中では、ようやく朝が来たのだと思います」


太公は黙って、彼女を見た。


髪は乱れている。

袖は乾ききっていない。

手袋は替えられていたが、手首のあたりに黒い染みが残っている。


美しい聖女ではなかった。


少なくとも、神殿が好む意味では。


太公は七年のあいだ、いくたりもの聖女を見てきた。


白い衣。

香の匂い。

澄んだ声。

祈る時に伏せられる睫毛。

神殿の者が清らかだと褒める、整えられた姿。


その誰も、彼の傷の奥を見なかった。


顔色を見た。

脈を取った。

祈った。

慰めた。

寄付の礼を言った。


けれど、傷の奥に何があるかを見ようとはしなかった。


リシェルだけが違った。


彼女は、太公の身分を見なかった。

神殿の診断書を信じなかった。

部屋に置かれた高価な香炉にも、聖布にも、何の敬意も払わなかった。


彼女が見ていたのは、傷だった。

呼吸だった。

膿の臭いだった。

血の流れだった。


そして、彼自身が忘れようとしていた海だった。


血と膿の中で、彼女は立っていた。


誰かに支えられているわけではない。

誰かに褒められるためでもない。

誰かに清らかだと認められるためでもない。


ただ、患者を死なせないために立っていた。


その姿を、太公は美しいと思った。


白い衣よりも。

神殿の聖歌よりも。

七年分の祈祷よりも。


あの黒い鞄を開き、銀のメスを取り、己の血さえ道具に数えようとした女を、恐ろしいと思った。


そして、それ以上に、惜しいと思った。


この女が、自分を数に入れないまま、どこかで倒れるのは惜しい。


誰にも止められず。

誰にも食べさせられず。

誰にも眠れと言われず。

患者の名ばかりを記録し、自分の名だけを余白に置いたまま、倒れるのは惜しい。


太公は、まだ動かしにくい指で診断書を押さえた。


「神殿の診断書を」


家令が差し出す。


太公は震える指でそれを受け取り、祈祷料の明細を見る。

七年分。

治療ではなく、悪化を買っていた年月。


「君は怒らないのか」


リシェルは筆を止めた。


「今は再発防止が先です」


「違うな」


太公は、診断書を見た。


七年分の祈祷。

七年分の誤診。

七年分の、彼女が消された記録。


「君は、怒る時間をいつも患者に譲ってきたのだろう」


リシェルは黙った。


その沈黙が、答えだった。


太公は、静かに息を吐いた。


「なら、私が怒る」


リシェルが顔を上げる。


「太公様がですか」


「私のことだからな」


彼は薄く笑った。


「そして、君の手を七年も無駄にしたことについても、少しは怒っていいだろう」


「私の手は、太公様のものではありません」


「まだな」


リシェルの筆が止まった。


太公は、そこで笑いすぎないようにした。

出血すると叱られる。


「診療記録の写しを神殿へ求める。なければ、ない理由を問う」


「神殿は出さないと思います」


「なら、出さない理由が増えるだけだ」


太公は微笑んだ。


「病人だった頃より、忙しくなりそうだ」



神殿から使者が来たのは、三日後だった。


リシェルはその時、太公の包帯を替えていた。


使者は高圧的だった。


「救護棟が混乱しています。戻っていただきたい」


リシェルは、包帯を巻きながら答えた。


「切って繋ぐなら、祈祷師でよいと伺いました」


「リシェル殿」


「私は今、患者の処置中です」


使者の顔が赤くなる。


「神殿の命です」


寝台の上から、太公が口を開いた。


「この者は私の救護役だ」


使者が振り返る。


「太公様、しかし」


「連れ戻すなら、私の命を神殿が再び預かる覚悟で来い」


声は静かだった。


けれど、部屋の空気が変わる。


それは病人の声ではなかった。


太公ヴァルター・エイゼンの声だった。

かつて王宮の会議で、神殿の予算案を半分に削らせた男の声だ。


使者の顔から血の気が引く。


太公は続ける。


「それから、診療記録の写しを求める。黒山羊と診断した根拠、継続祈祷の処置内容、リシェルの所見を修正した者の名。すべてだ」


使者は言葉を失った。


リシェルは包帯を留めた。


「太公様、あまり話すと傷に響きます」


「君は私には厳しいな」


「患者ですので」


「それだけか」


リシェルは少しだけ黙った。


「再発されると、困ります」


太公は、使者の前で少し嬉しそうにした。


使者は黙って帰った。



数ヶ月後。


太公は、杖をついて歩けるようになっていた。


まだ長くは歩けない。

けれど、顔色は戻り、声にも力がある。


寝台に沈んでいた頃とは、別人だった。


銀灰色の髪は整えられ、青灰の目には静かな光が戻っている。

痩せた身体にも、衣の上から分かる芯があった。

杖をつく指は長く、歩みは遅いが、姿勢は崩れない。


病み上がりなのに、声には低い艶がある。


リシェルはその声を聞いて、診療記録にこう書いた。


《呼吸音、改善》


太公は、少しだけ肩を落とした。


「そこか」


「はい?」


「いや、いい」


リシェルは術後診察のため、太公屋敷を訪れていた。


「深く息を」


太公は息を吸う。


リシェルは首を振った。


「途中で止めました」


「よく分かるな」


「分かります」


「君は厳しい」


「患者が嘘をつくので」


太公は楽しそうに笑った。


「笑っても?」


「今日は少しなら」


「進歩だ」


診察を終えると、リシェルは鞄を閉じた。


「次は二週間後で結構です」


「その前に、食事だ」


「次の村へ向かいます」


「食事をしてからだ」


太公は穏やかに言った。

だが、その声には患者のものではない強さが戻っている。


「朝は何を食べた」


「移動中に干し肉を」


「昼は」


「患者が吐いたので抜きました」


「では、夕食はここで食べる」


「時間が」


「医者は体が資本だろう」


リシェルは黙った。


反論しにくい理屈だった。


食卓には、肉と豆の煮込み、根菜のスープ、焼きたてのパン、塩漬け肉、蜂蜜漬けの果物が並んでいた。


リシェルは、よく食べた。


太公はそれを、楽しそうに見ていた。


「見られると食べにくいのですが」


「すまない」


「謝る気がない声です」


「ないな」


太公は低く笑った。


「よく働く者がよく食べる姿は、見ていて気分がいい」


「不快ではないのですか」


「まさか」


彼は、皿に肉を足した。


「君は、処置中に自分の肺を数えた。血も数えた。必要なら使うと言った」


「必要ならです」


「その“必要なら”を、私は信用していない」


リシェルの手が止まった。


太公は穏やかに続ける。


「だから、君が食べていると安心する。少なくとも今は、自分を削っていないと分かる」


リシェルは、少しだけ目を伏せた。


「……では、もう少しいただきます」


「いくらでも」


家令が、すぐに二皿目を運ばせた。


食後、太公は何でもないことのように言った。


「よかったら、ここに住まないか」


「自宅兼診療所がございますので」


「……早いな」


「神殿を出た日に借りました。床が洗えます。裏手に焼却炉も置けます」


「それは住まいではなく救護棟ではないか」


「自宅兼診療所です」


太公は少し項垂れた。


家令がそっと目を伏せる。

この三日、東棟の一室を整えさせていたことを、屋敷の者は皆知っていた。


だが、太公はすぐに顔を上げた。


「なら、病院はどうかな」


リシェルの手が止まる。


「病院」


「君を止める気はない。止めても行くだろうからな」


「はい」


「だから、君を閉じ込める家ではなく、君が戻れる場所を作る」


太公は図面を出させた。


「東棟を処置棟に。隣を洗浄室。旧礼拝室は隔離室にできる。井戸も近い。焼却炉は庭の外れに置ける」


リシェルは図面を見た。


「書記官を二名。薬草師を一名。洗浄係を三名。神殿付きではない祈祷師も登録する。船乗り、墓守、井戸掘り、産婆。君が必要だと言った信仰の回線を、患者ごとに呼べるようにする」


「記録を取れる書記官ですか」


「まずそこに食いつくのか」


「重要です」


「だろうと思った」


太公は、少しだけ満足そうに笑った。


「私は七年、間違った祈りに金を払った。今度は、正しい処置に払いたい」


リシェルは黙った。


患者を待つのは性に合わない。


けれど、患者を置いていける場所は必要だった。


人員。

器具。

洗える床。

燃やせる庭。

記録を取れる手。


それは、魅力的だった。


「患者を待つのは性に合いませんが」


リシェルは言った。


「優秀な人員と器具は魅力的ですね」


太公の表情が明るくなる。


「では」


「条件があります」


「聞こう」


「白い布を大量に買わないでください。灰布と鉛布が先です。香炉も不要です。洗浄用の桶を。吐血を色別に見る白皿を百枚」


「百枚」


「割れますので」


「……分かった」


「それから、術後患者に勝手に菓子を与えない人員をお願いします」


家令が視線を逸らした。


太公も少し視線を逸らした。


リシェルは記録帳を閉じた。


「太公様」


「何だ」


「再診日は守ってください。病院の話は、その後です」


「君に会う口実が増えたな」


「病院の打ち合わせです」


「もちろん」


太公は、実に満足そうに笑った。


リシェルは鞄を持ち上げる。


中には、銀のメスと、封じ釘と、未処置記録。

そして次の患者の名。


北の修道院。

精霊の歌やられの村。

黒鹿の足を持つ子どもの再診。


患者は減らなかった。


むしろ増えた。


けれど、戻る場所も増えた。


リシェルは記録帳の二週間後の頁に、太公の名を書いた。


術後診察。

病院計画、初回打ち合わせ。


それだけは、忘れないように。

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