海と恋人
雨に打たれたままの鞄を放り出して、登喜子はベッドに飛び込んだ。硬いマットで全身を強打し、堪らず呻く。けれど、それよりも今はただ眠かった。重い瞼を閉じると、心が白い波に漂うかのようにゆらゆらと安らぐ。意識が溶けていくようで、その心地良さに登喜子はすぐに眠りに落ちた。
東京湾に昭夫を沈めたのは、意図的にやったことではなかった。東京湾は汚れているね。そうね。夕日はきれいだね。そうね。おかげで東京湾も少しばかりマシに見えるね。そうね。恋人らしく腕を組み、防波堤に二人佇んでうっとりと目を細めていたときのことだ。昭夫が急にこんなことを言い出した。僕はいつか海に解けてみたいんだ。心を許した者にのみ伝えられる、少しばかり恥ずかしい昭夫の夢。普通の恋人ならば、まあロマンティストなのね、という返答が期待できるだろう。けれど、登喜子は気付いたときには、恋人を海へ突き落としていた。どうしてか自分でも分からないまま、ただ微笑んで。突然足場を失った昭夫は当然のことながら、何が何やら、といった顔で海へ沈んでいった。自分のしたことが信じられず茫然自失としていた登喜子は、我に返ると素早く海を覗き込んだ。廃棄物や油で汚れた海では、その中を窺い知ることはできなかった。でも、その内自力で上がってくるだろう、子供ではあるまいし。心配しつつも、登喜子はそう考えて波が押し寄せる防波堤間際の海をじっと見つめた。けれど、波が寄せる以外の飛沫が立つことはとうとうなかった。
警察へ連絡しようかとも思った。恋人が海へ落ちてしまって、上がってこないんです。それはいかにも間抜けなように思われた。だから、登喜子は警察へは連絡しなかった。それに、登喜子はまた、こんなことを考えてもいた。海水は、浄化されたのち水道水として一般家庭に行き渡る。あのまま海に漂っていれば、いつか昭夫は海に解けるだろう。そんな昭夫をこの体に取り入れる、それはとても素敵なことのように思われた。