第95話 漆黒の便利屋と鴉と鷲
戦いの後の静寂は、心地よい疲労感と、それ以上の深い謎を、佐藤健司の心に残していた。能面の少年――後にヤタガラスの調査で、どの組織にも属さないフリーランスの若き呪術師であることが判明する――は身柄を確保され、霞が関の地下深くへと移送された。彼の背後にいた「依頼主」については、固く口を閉ざしたままだという。
健司は、ヤタガラスのエージェントたちが手際よく現場を処理していくのを、ただぼんやりと眺めていた。自らの肉体を駆け巡る、蘇った魔力の温かい流れ。だが、それ以上に彼の心を満たしていたのは、魔法を失った状態で、己の拳一つで強敵を打ち破ったという確かな手応えだった。
『無想』。
あの漆黒のライダーが呟いた言葉。あの時、自分は確かにこれまでとは違う領域に足を踏み入れていた。その感覚の残滓が、まだ彼の魂の奥で静かに熱を帯びている。
「K」
静かな声に、健司ははっと我に返った。振り返ると、そこにはニコラス・ケイジが、少し気まずそうな、しかしどこか安堵したような表情で立っていた。
「……すまなかった。俺は何もできなかった」
FBIの元敏腕刑事らしからぬ、素直な謝罪の言葉。健司は苦笑しながら首を振った。
「いえ。……ケイジさんが奴の注意を引きつけてくれたから、俺は結界を張る時間が稼げた。……それに、最後の狙撃も」
健司は、その視線をケイジの背後へと向けた。
そこに彼女はいた。黒い大型バイクに無言で寄りかかる、漆黒のライダースーツの女。彼女の周囲だけが、夜の闇よりもさらに深く沈んでいるかのようだった。
健司とケイジが彼女の元へと歩み寄る。彼女は二人の姿を認めると、ゆっくりとその顔を上げた。フルフェイスのヘルメットの奥、スモークシールドの向こう側から、射抜くような鋭い視線が健司を捉えた。
「……礼を言います。助かりました」
健司は深々と頭を下げた。
「……気にするな」
ライダーの声は、ヘルメットの奥からくぐもって響く。
「これも仕事だ」
「……あなたは一体……」
ケイジが、警戒心を隠そうともせず問いかけた。
「ヤタガラスでもマジェスティックでもない。……何者だ?」
その問いに、ライダーは肩をすくめた。
「さっきも言ったはずだ。……ただの金で動く便利屋だよ。……今回の依頼主は『K』君の監視と……まあ、死にそうになった時の後始末だ」
「監視……?」
健司は眉をひそめた。
「ああ。……君、いろいろな方面から随分と注目されているらしいからな。……敵からも……そして味方からも」
その意味深な言葉。
「……その依頼主とは誰です?」
健司は単刀直入に尋ねた。ライダーは数秒間、沈黙した。そして、彼女はゆっくりとヘルメットに手をかける。
カシュッ――。
フルフェイスのヘルメットが外される。
月光の下に晒されるその素顔。
健司は息を飲んだ。ケイジもまた、目を見開いている。
そこにいたのは、彼らが想像していたような百戦錬磨の戦士の貌ではなかった。艶やかな長い黒髪、東洋的な切れ長の瞳、そしてその口元に浮かべられた、全てを見透かすかのような妖艶な笑み。年の頃は健司と同じくらいか、あるいは少し上だろうか。そのあまりに美しい、しかしどこかこの世の者とは思えないほどの非人間的な美貌。
「―――名乗る名はないと言ったが」
彼女は静かに言った。
「……まあ、仕事仲間になるかもしれないからな。……特別だ」
彼女は健司の目をまっすぐに見据えた。その瞳は、まるで夜の湖のように深く、そして底が知れなかった。
「コードネームは『ノックス』。……ラテン語で『夜』という意味だ」
ノックス。
そのあまりに彼女の雰囲気に似合いすぎた名前。健司は、ただその名とその貌を、自らの記憶に刻み付けることしかできなかった。
「……君は何者だ?」
ケイジが再び問い詰めた。その声には、FBIの尋問官としての鋭さが戻っていた。
「さあな」
ノックスは肩をすくめた。
「君たちマジェスティックが最も忌み嫌う存在……とだけ言っておこうか。国家にも、組織にも、思想にも縛られない、自由な『個人』だよ」
彼女はそう言って、妖しく笑った。その笑みは、マジェスティックの徹底した管理主義と組織至上主義に対する、明確な嘲笑だった。ケイジは、ぐっと言葉に詰まった。
「さてと。……依頼はここまでだ」
ノックスはヘルメットを被り直した。
「後始末はヤタガラスさんにお任せする。……じゃあな、『K』」
彼女は健司にだけ、そう囁いた。
「……また会うことになるだろう。……君がもっと面白くなった頃に」
その言葉を最後に、彼女は大型バイクに跨ると、エンジンを始動させた。夜の闇を切り裂くような、低いしかし力強い排気音。バイクは一瞬でその場から、掻き消えるように走り去っていった。
後に残されたのは、排気ガスの匂いと、そしてさらに深まった謎だけだった。
「……一体何なんだ、あの女は……」
ケイジは吐き捨てるように言った。
「さあな」
健司もまた、彼女が走り去った闇を見つめながら呟いた。だが、彼の胸の内には確かな予感があった。――また会う。必ず。そしてその時は、敵としてか、味方としてか。それはまだ分からない。
◇
その夜。
健司はヤタガラスのオフィスで、橘から厳しい、しかしどこか安堵したような声で事情聴取を受けていた。彼の無断での戦闘行為、そしてランク4の【身体強化】の使用。――それらは、組織の規律を乱す重大な違反行為だった。
「……まあ、今回は緊急事態だったということで、不問に付そう」
橘は深々と溜息をついた。
「だが二度はないぞ、K君。……君の身は、もはや君一人のものではない。……国家の資産なのだからな」
その重い言葉。健司は、ただ深々と頭を下げることしかできなかった。
そして橘は、もう一つの重要な情報を健司にもたらした。
「……あの『便利屋』……ノックスと名乗った女だが」
橘の声が低くなる。
「彼女の正体は、我々ヤタガラスにも全く掴めていない。……ただ一つだけ分かっていることがある」
「……何です?」
「彼女の依頼主は……」
橘はそこで一度、言葉を切った。
そして、彼は健司の想像を遥かに超える人物の名を口にした。
「……皆木冬優子嬢。……おそらく彼女個人からの依頼だろう」
「―――『女王陛下』が!?」
健司は絶叫していた。あの Tier 0。希望ヶ丘魔法学苑に君臨する、究極の利己主義者。彼女が、なぜ俺を?
「理由は分からん」
橘は首を振った。
「……あるいは、彼女の『快適な日常』を脅かす可能性のある、この『自販機』の件を危険視したのか。……あるいは……」
橘は、健司の目をじっと見つめた。
「……ただの気まぐれか。……あるいは君という新たなる『おもちゃ』に興味を持ったか。……神の考えることなど、我々人間には分かりはしないよ」
健司は言葉を失っていた。自分の知らないところで、自分の運命が、神々の気まぐれなチェス盤の上で動かされている――その、あまりに壮大で、あまりに理不尽な現実。
◇
その夜。
健司は自室のベッドで、一人、天井を見つめていた。彼の脳内に、あの忌々しい声が響く。
『……猿。……面白くなってきたではないか』
魔導書の声は、心底楽しそうだった。
『鴉と鷲、そして夜。……三つの鳥が揃った。……この奇妙なゲームの行方……俺様も少し興味が湧いてきたぞ』
健司は、何も答えなかった。彼はただ、自らの拳を強く握りしめた。
俺は駒じゃない。プレイヤーだ。
その静かなる闘志を胸に、健司は、まだ見ぬ明日へとその意識を向けた。彼の本当の戦いは、まだ始まったばかりなのだから。神々が作り出した、この理不尽な盤上で、彼がどんなジャズを奏でるのか――その答えを知る者は、まだ誰もいなかった。




