第92話 猿と琵琶法師と沈黙の楔
夜の大学キャンパスを揺るがす不協和音。
能面を被った謎の男が奏でる琵琶の音色は、もはやただの音楽ではなかった。
それは空間そのものを歪め、因果律の理すらも乱す呪いの旋律。佐藤健司とニコラス・ケイジは、その異様な力の前に為す術もなく立ち尽くしていた。
「―――ベェンッ!!!!」
再び弦が弾かれる。甲高く耳障りな音波が、健司の脳を直接揺さぶった。
「ぐ……っ!」
健司は思わず頭を押さえて膝をついた。彼の最大の武器である【予測予知】の視界が、砂嵐のテレビ画面のように激しいノイズに覆われる。未来が視えない。コンマ1秒先の因果すら読み解くことができない。それは、羅針盤を失った船が嵐の大海原に放り出されたかのような、絶対的な無力感だった。
「K! 大丈夫か!」
隣でケイジが叫ぶ。彼は懐から拳銃を抜き放ち、能面の男へとその銃口を向けていた。だが、引き金を引くことができない。歪んだ空間の中では、弾丸がまっすぐに飛ぶ保証などどこにもないのだ。
能面の男は何も語らない。ただ、ゆっくりとこちらに向かって歩み寄ってくる。その歩みに合わせて、琵琶の音がまた一つ、また一つと紡がれていく。周囲の空間の歪みがさらに激しくなっていく。アスファルトが粘土のように波打ち、街灯が飴のように、ぐにゃりと曲がっていく。健司たちの足元が覚束ない。まっすぐに立つことすら困難だった。
(くそっ……! 予知だけじゃない! 空間認識まで狂わされてる……!)
健司は歯を食いしばった。平衡感覚が失われ、激しい吐き気に襲われる。これが高レベルの空間操作系能力者の力。戦う以前に、その「領域」にいるだけで、戦闘能力を根こそぎ奪われる。
「……面白い能力ですね」
その絶望的な状況下で、ケイジは意外なほど冷静だった。
「音を媒体に、広範囲にわたって空間と認識を歪める。……ヤタガラスの情報データベースには該当する能力者はいません。……これは未知の敵だ」
『猿! 聞こえるか!』
脳内に、魔導書の焦った声が響く。
『この術式は強力だ! 音波そのものに因果を乱す呪詛が込められている! 聴覚を遮断しても無駄だ! 空間全体が、奴の呪いの領域になっている!』
(じゃあ、どうすればいいんだよ!)
健司は心の中で絶叫した。攻撃しようにも間合いが読めない。回避しようにも、どこへ動けばいいのか分からない。
『―――答えは一つだ!』
魔導書は叫んだ。
『奴の領域を壊せ! こちらの理を上書きするんだ!』
健司ははっとした。――そうだ。俺にはそれがあるじゃないか。
「ケイジさん! 少しだけ時間を稼いでください!」
「……!」
ケイジは、健司のその決意に満ちた声に一瞬だけ驚いた顔をしたが、すぐに頷いた。
「……分かった。何をする気かは知らんが……30秒、いや20秒が限界だ!」
ケイジは覚悟を決めた。彼は銃を構え直し、能面の男へと向かって威嚇射撃を始めた。
パン! パン! パン!
銃声が、不気味な琵琶の音色にかき消されていく。弾丸は歪んだ空間の中を、ありえない軌道で飛び交い、男にかすりもしない。――だが、それでいい。注意を一瞬でもこちらに引きつければ。
その間に、健司は意識を極限まで集中させていた。彼は自らの魂の内側へと、深く深く潜っていく。そして、彼は叫んだ。もはやそれは声ではなかった。魂の咆哮。
(―――我が領域は神聖にして不可侵! 内なる力を増幅し、外なる災厄を退けよ! ――結ッ!!!!)
【結界魔法】発動――。だが、それはただの防御結界ではなかった。
健司の身体から、凄まじい勢いで魔力が溢れ出す。その魔力は半径10メートルの球状の空間を、彼の意志で完全に塗りつぶしていく。
―――ゴウッ!!!!
世界が変わった。
健司の周囲、半径10メートルの空間だけが、琵琶法師が作り出した歪んだ世界から「切り離された」。アスファルトは元の平坦な姿を取り戻し、揺らめいていた空気は静寂を取り戻す。
彼の絶対的な聖域。
「な……!?」
初めて、能面の奥から驚愕の声が漏れた。自らの完璧だったはずの領域支配に亀裂が入れられた――その事実に、男は動揺していた。
「はぁ……はぁ……」
健司の肩が大きく上下する。結界の発動は、彼の魔力を根こそぎ奪っていた。だが彼の顔には、不敵な笑みが浮かんでいる。予知の視界がクリアになる。未来が、再び見える。
「―――ケイジさん! いけます!」
「……やるじゃないか、K!」
二人の間に、言葉はいらなかった。
健司は床を蹴る。結界の境界線を一歩踏み出す。――再び世界が歪む。だが、もう彼は迷わない。
「―――時の楔よ、彼の歩みを戒めよ!」
健司の瞳が青白く発光する。【魔眼】起動。彼の視線が能面の男を捉える。男の時間の流れが、ほんの一瞬――コンマ数秒だけ鈍化した。
その僅かな、しかし絶対的な隙間。
「―――我が魂の命ずるままに、肉体の枷を解き放て。――ランク3、30second!!!!!」
健司の身体が爆発した。ランク3の超加速。もはや、それは音速を超えていた。彼の姿は掻き消え、残像だけが歪んだ空間を駆け巡る。
能面の男は、その神速の動きを捉えることができない。彼が反応できた時には、すでに健司はその背後に立っていた。
「―――終わりだ」
健司の冷徹な声。彼の右手が刀のように振り抜かれる。『無刃』の型。その手刀には、鋼鉄すらバターのように切り裂く【接触型斬撃】の力が宿っていた。男の首筋に、その刃が吸い込まれるように――。
―――その瞬間だった。
能面の男の身体が、ぐにゃりと歪んだ。
いや違う。それは、まるで水面に映った月のように揺らめき、そして掻き消えた。
――幻影。
「なっ!?」
健司は戦慄した。手応えがない。切り裂いたはずの場所に、何も――。
その硬直した健司の背後。音もなく、本物の能面の男が姿を現した。
(……くそっ! 分身……!? いや違う! 空間転移……!?)
魔導書が叫ぶ。
『―――空間置換だ、猿ッ! 奴は幻影と本体の位置を入れ替えた!』
もう遅い。能面の男の手が、健司の無防備な背中に触れた。その掌に握られていたのは、琵琶ではない。一枚の古びた呪符。
「―――『沈黙の楔』」
男が静かに呟いた。呪符が健司の背中に、吸い付くように貼り付く。
その瞬間――。
「―――あ……が……っ!?」
健司の喉から、声にならない声が漏れた。全身から力が抜けていく。【身体強化】が強制的に解除される。魔力が霧散していく。彼の脳内で、何かが断ち切られた。――魔法を発動させるための回路そのものが。
彼は糸の切れた人形のように、その場に崩れ落ちた。意識が遠のいていく。薄れゆく視界の中で彼は見た。能面の男が、ゆっくりとこちらに近づいてくるのを。そして、ケイジが絶望的な顔でこちらに向かって叫んでいるのを。
「K!!!!!!!!」
――これが俺の終わりか。
その静かな諦めが彼の心を支配した、その時だった。
―――バァン!!!!!!
夜の静寂を切り裂いて、凄まじい轟音が響き渡った。
それは拳銃の音ではない。もっと重く、もっと破壊的な――対物ライフルの轟音。
能面の男の数センチ横のアスファルトが、爆発したかのように砕け散る。男は咄嗟に後方へと跳躍した。
どこからだ?――狙撃手? ヤタガラスの増援か?
だが、その答えは健司の想像を遥かに超えていた。
「―――やれやれ。日本の夜は、随分と物騒になったものだな」
声が聞こえた。それは少しだけくぐもった、しかしどこまでも落ち着き払った女性の声。
健司は最後の力を振り絞り、その声のした方を見た。
そこには、一台の真っ黒な大型バイクが、いつの間にか停まっていた。そして、そのバイクに跨る一人の人物。全身を漆黒のライダースーツで覆っている。その手には、SF映画に出てくるような長大な対物ライフル。顔は、フルフェイスのヘルメットで完全に隠されていた。
「……誰だ……?」
健司の最後の問い。
その漆黒のライダーは、ライフルを構え直し、能面の男へと銃口を向ける。そして、ヘルメットの奥から、くぐもった声で告げた。――それは、絶対的な強者の宣告だった。
「―――名乗る名はない。……ただの通りすがりの『便利屋』だ」
その言葉を最後に、健司の意識は完全に闇に沈んだ。
彼の新たなる敗北。
そして、彼の運命を大きく揺るがす、謎の協力者の出現。
物語は、健司の意志すら置き去りにして、さらに加速していく。




