第91話 猿と金の卵と見えざる大学(アカデミー)
ヤタガラス東京支部の地下深く。先ほどまでの熱狂が嘘のように、第四訓練場は静まり返っていた。中央に空いた大穴と、そこから無残に砂をこぼし続けるサンドバッグの残骸だけが、先ほどの激闘の爪痕を物語っている。
二十七人の「金の卵」たちは、もはやただの寄せ集めの集団ではなかった。彼らの目には、自らの内に眠る未知なる可能性に目覚めた者だけが持つ、確かな熱と光が宿っていた。その中心で、彼らの視線を一身に浴びる佐藤健司は、自らが背負ってしまった責任の重さと、それ以上の確かな手応えを感じていた。
「―――素晴らしい。実に素晴らしい光景だった」
訓練場の入り口から響いた声に、全員がはっと振り返る。そこに立っていたのは、腕を組み満足げな笑みを浮かべた橘真と、その隣でどこか憂いを帯びた、しかし全てを見透かすかのような鋭い瞳でこの光景を観察していたニコラス・ケイジだった。
「君は最高の教官でもあるらしいな、K君」
橘の労いの言葉に、健司は少し照れくさそうに頭を掻いた。
数時間後、副局長室。
健司と橘、そしてケイジの三人は、重厚な革張りのソファに向かい合って座っていた。テーブルの上には、先ほどの訓練の映像と、五十嵐がまとめた分析データがホログラムとして浮かび上がっている。
「『印』……ですか」
橘は、健司と佐藤優子が観測した「魂の紋様」についての報告を、厳しい表情で聞いていた。
「やはり、私の立てた最悪の仮説が正しかったようだな」
「マーキングですね」
それまで黙って話を聞いていたケイジが、静かに口を開いた。日本語は少しぎこちないが、その言葉には、FBIの敏腕刑事だった頃の鋭さが宿っている。
「彼らは、ただ能力を覚醒させているだけではない。自らの『資産』として印を付けている。問題は、その印が何を意味するのか……ですね」
「ええ」
橘は頷いた。
「我々の分析官の見解では、やはり一種のネットワークを構築している可能性が高い。覚醒者を無意識の『端末』とし、そこから魔力を徴収する、あるいは、より巨大な術式を発動させるための『生体CPU』として利用する……。目的は、まだ不明ですが」
「ふむ……」
ケイジは顎に手を当て、何かを考え込んでいた。そして彼は健司に向き直る。
「K。君が見た『印』は有害なものだったか? 呪いのような?」
「いえ」
健司は首を振った。
「悪意は感じられませんでした。むしろ、どこまでも無機質で、完璧にバランスが取れていた。だからこそ、魂が異物として認識せず、完全に受け入れてしまっている……そんな印象です」
「なるほど。だから本人たちにも自覚がないわけか」
ケイジは納得したように頷くと、懐からスマートフォンより一回り大きい黒い端末を取り出した。マジェスティックから支給された、最新鋭の通信機だ。
「……失礼。本国に中間報告を」
彼は健司たちがいることも意に介さず、淡々と英語で状況を報告し始めた。健司の乏しい英語力では断片的にしか理解できなかったが、「Soul Stamp(魂の刻印)」「Network Hypothesis(ネットワーク仮説)」といった単語が、耳に強く残った。
数分後、ケイジは通信を終えると顔を上げた。その表情には、新たな情報に触れた興奮が浮かんでいる。
「……面白いことが分かりました」
彼は言った。
「私の報告を受け、マジェスティックの技術分析部門が一つの可能性を指摘してきました。……もし、その『印』がネットワークの端末なのだとしたら、彼らが能力を行使する際、ごく微弱な『信号』のようなものを発している可能性があると」
「信号?」
橘が眉をひそめる。
「ええ。我々が『魔力』と呼ぶエネルギーの、特殊な波長です。ヤタガラスのセンサーは、主に霊的なものや純粋な魔力放出を探知することに特化している。だが、マジェスティックのグローバル監視網は、より科学的なアプローチで、あらゆる異常なエネルギーパターンを常にスキャンしています。……彼らの衛星が、この東京で奇妙なエネルギーの収束を捉えていたようです」
ケイジは通信端末を操作し、新たなホログラムを空間に投影させた。そこには、東京の立体地図と、二十七個の光る点がプロットされていた。それは、健司が見つけ出した覚醒者たちの現在の所在地だった。
「見てください」
地図が拡大される。二十七個の光点から、それぞれ細い、か細い光の糸が伸びている。そして、その二十七本の糸は、東京の中心のある一点に向かって収束していた。
「この微弱なエネルギー……それは、彼らが今日、Kの指導で【身体能力強化】を発動させた際に、同時に観測されました。……つまり、この『印』は、能力を行使するたびに、この中心点に向かって何らかの情報を送信、あるいはエネルギーを上納していると考えられます」
健司と橘は息を飲んだ。――敵の尻尾。それを、マジェスティックの科学力が掴み取ったのだ。
「そして、その収束点は……」
地図がさらに拡大される。新宿区戸塚。広大な敷地が現れる。
「―――早稲田大学」
その、あまりに意外な名前に、健司は思わず声を上げた。大学? それも、日本有数の名門大学が敵の拠点?
「……灯台下暗しか」
橘は忌々しそうに呟く。
「確かに、大学のキャンパスは人の出入りも激しく、我々の監視の目も届きにくい。巨大なサーバーや研究施設を隠すにも好都合だ。……奴ら、我々の盲点を完璧に突いてきやがった……!」
「K」
ケイジが健司に向き直った。その目は、もはやただの憂いを帯びた刑事のものではない。共に謎を追う、相棒の目だった。
「君の力で、その場所を『視て』もらうことはできるか? ……ただの建物ではないはずだ。我々の知らない何かが、そこにある」
健司は力強く頷いた。
「……やってみます」
その夜。
健司とケイジは、ヤタガラスが手配した何の変哲もないワゴン車の中で、早稲田大学の正門を睨んでいた。周囲には、すでに数十名のヤタガラスのエージェントが、学生や通行人を装って潜伏している。
「ここが早稲田か……。甥がこの近くの日本語学校に通っているんだ」
ケイジが、どこか感慨深げに呟いた。
「すごいですね。エリートじゃないですか」
健司は適当に相槌を打ちながら、自らの意識を研ぎ澄ませていた。
彼は目を閉じる。そして、【霊眼】と【予測予知】を同時に最大戦速で起動させた。
視界が変貌する。物理的な世界が後退し、因果と魔力が織りなす「世界の裏側」の景色が、その網膜に焼き付いていく。
そして――彼は見た。
「…………これは」
健司の口から、呻き声が漏れた。
早稲田大学の広大なキャンパス。それは、彼が今まで見たどんな場所とも違っていた。キャンパス全体が、巨大な蜘蛛の巣のような緻密で幾何学的な魔力のラインで覆い尽くされていたのだ。
そのラインは、学生や教職員、そして建物そのものから伸び、まるで毛細血管のようにキャンパスの中心のある一点へと繋がっている。
それは、一種の巨大な「結界」だった。だが、それは外部からの侵入を防ぐためのものではない。内部にいる無数の人間の微弱な「才能」や「可能性」という名のエネルギーを吸い上げ、収穫し、そして、一つの場所へと送るための……巨大な「魔力集積回路」。
「……大学丸ごと、魔術装置になってる……」
その、あまりに常軌を逸した光景に、ケイジは息を飲んだ。
「そして、そのエネルギーの収束点は……」
健司の視線が、キャンパスの中心に聳え立つ古びた時計塔へと向けられる。大隈記念講堂――早稲田大学の象徴。
「―――あの時計塔の地下だ」
健司の言葉が、最終的なターゲットを特定した。
その瞬間だった。ケイジの持っていたマジェスティックの端末が、甲高い警告音を発した。同時に健司の脳内にも、魔導書からの最大級の警告が響き渡る。
『猿ッ! 伏せろッ!!!!』
健司は反射的にケイジの身体を突き飛ばし、自らもワゴン車の床に転がり込んだ。
そのコンマ数秒後――夜の静寂を切り裂いて、銃声が響く。
―――ヒュンッ!
ワゴン車のフロントガラスが、蜘蛛の巣状に砕け散った。狙撃。それも、ただの銃弾ではない。魔力を帯びた、対能力者用の特殊な弾丸。
「チッ! ……バレてたか!」
ケイジが吐き捨てるように言う。二人は車外へと転がり出た。周囲に潜伏していたヤタガラスのエージェントたちが、一斉に臨戦態勢に入り、銃撃のあった方向へと駆け出していく。
だが、敵の狙いはそこではなかった。
健司とケイジが体勢を立て直した、その目の前。正門のアーチの影から、ゆっくりと一人の人影が姿を現した。
それは、健司が今まで出会ったどんな能力者とも違う、異様な雰囲気を纏っていた。学生のようなラフな服装。だが、その貌は無機質な能面で、完全に覆い隠されている。そして、その手には、奇妙な形状の楽器――琵琶。
能面の男は、何も語らない。ただ、琵琶を構えると、その弦を指でかき鳴らした。
―――ベェンッ!!!!
空気が震えた。健司の鼓膜を、直接揺さぶる不快な音波。だが、それはただの音ではない。健司の【予測予知】の視界が、ぐにゃりと歪む。因果の糸が絡み合い、乱れ、ノイズだらけになる。――未来が見えない。
(……なんだ、こいつは……!?)
健司は戦慄した。予知殺し。あのボスとの戦いで経験した悪夢の再来。だが、その規模は比較にならない。この音波が届く範囲、すべての因果が、乱されている。
能面の男は、ゆっくりとこちらに向かって歩み寄ってくる。その歩みに合わせ、再び琵琶の音が響き渡った。今度は、周囲の空間そのものが歪み始める。アスファルトが粘土のように波打ち、街灯が飴のように、ぐにゃりと曲がっていく。
「……空間操作系か……! それも、音を媒体にした広範囲術式……!」
ケイジが歯を食いしばりながら呻く。
「……ヤタガラスの情報にはない! ……未知の能力者だ!」
健司とケイジ。二人の最強のバディが、今、最大の危機に直面していた。彼らの本当の戦いが、今、始まったのだ。
逃げ場のない、歪んだ空間の中で。――聞こえるのは、ただ、不協和音を奏でる琵琶の音だけだった。




