第88話 鷲と刑事と最初の駒
アメリカ合衆国、ネバダ州。砂漠の太陽が地平線の彼方へと、その最後の残光を沈めていく。その赤と紫のグラデーションが広がる空の下、地上からはその存在をうかがい知ることのできない、地下深く。そこに、MAJESTIC-12(マジェスティック・トゥエルブ)の心臓部、コードネーム「エリア・デルタ」は存在した。
冷たく、清潔で、どこまでも無機質なカンファレンス・ルーム。壁も床も、そして中央に鎮座する巨大な円卓も、継ぎ目のない白い複合素材で作られている。部屋を照らすのは、天井から吊り下げられた照明ではなく、円卓そのものが放つ淡い光だけ。その光が、そこに集う男たちの厳しい貌を、彫刻のように浮かび上がらせていた。
「――結論から言おう。不可能だ」
静寂を破ったのは、技術分析部門の若きトップ、ドクター・アリス・ソーンだった。彼の指が円卓の表面を滑るように動くと、中央の空間に巨大なホログラムが浮かび上がった。それは、西東京の公園に佇む、あの古びた自動販売機の三次元モデルだった。
「日本支部……ヤタガラスから提供された、あの『預言者K』なる男の過去視情報を元に、我々のチームが徹夜で解析を続けた結論です、将軍。この自動販売機に施された術式――彼らが言うところの『魔法』は、我々の現在の技術では、複製は不可能です」
円卓の上座に座る男――MAJESTIC-12の最高司令官、マーカス・ソーン将軍は、眉一つ動かさなかった。その顔に刻まれた深い皺は、この男が潜り抜けてきた無数の修羅場を物語っている。
「理由を聞こう、ドクター」
「はい」
アリスは、新たなホログラムを表示させた。それは、常人には到底理解できない、複雑な数式と幾何学模様の奔流だった。
「第一に、術式に込められた『確率操作』のロジックが、我々の理解を超えています。対象となる人間の魂の情報をスキャンし、その者が持つ因果律への適性……すなわちTier 5としての素質を瞬時に見抜き、その上で数百万分の一という天文学的な確率で『当たり』を生成する。このプロセスは単純な乱数生成ではありません。未来の因果そのものに、極めて高度なレベルで干渉しています」
「第二に、術者の『痕跡』が完全に消去されています。我々の最新の魔力痕跡追跡システムをもってしても、術者の魂のシグネチャーを特定することはできませんでした。これは個人の仕業ではない。極めて高度な技術を持つ、組織的な犯行であると断定できます」
「そして第三に……」
アリスは、そこで一度言葉を切った。
「この術式の最も恐るべき点は、才能を開花させる際の、その『最適化』のプロセスです。まるで熟練の庭師が、一本一本の苗木に合わせて与える水の量や肥料を変えるように、覚醒者一人一人の魂の形に合わせて、注入する魔力の質と量を完璧に調整している。……これは、もはや科学技術ではない。……生命そのものを創造する、神の領域です」
カンファレンス・ルームに、重い沈黙が落ちた。
「能力者覚醒ロジックを真似出来れば、我々の『アセット』を量産するための、便利なツールになると思ったが……そうは行かないか……」
ソーン将軍は、忌々しそうに呟いた。
「ええ。残念ながら」
アリスは、静かに頷いた。
「よろしい」
将軍は、すぐに思考を切り替えた。
「それより日本に派遣する人員を決めなくてはならん。ヤタガラスとの共同捜査だ。下手に動けば、あの古狸どもに、こちらの内情を探られることになる」
円卓の一角から、鋭い声が飛んだ。作戦立案部門のトップ、副長官のエヴリン・リードだった。
「将軍。ここは我々の最強のカードを切るべきです。Tier 2クラスの戦闘員を送り込み、ヤタガラスの『K』と直接接触させる。その男の実力を、この目で確かめる絶好の機会です。ついでに、あの忌々しいカラスどもの組織の内情も、根こそぎ探らせましょう」
その、あまりに攻撃的な提案。だが将軍は、静かに首を振った。
「いや、それは悪手だ。警戒されるだけだ。日本の土俵で我々が派手に動けば、それこそ、あの老獪なカラスどもの思う壺だ。……奴らは、我々が動くのを待っている」「今回、我々が送るべきは『兵士』ではない。『連絡員』だ。誰の目から見ても無害で、人畜無害な、ただの使い走り。……奴らが完全に油断するようなな」
「うーん……日本か。正直、連絡員程度で良いんじゃないでしょうか」
アリスが、将軍の意見に同調した。
「能力者を送って警戒されても、行動しづらいでしょう。むしろ、全くの部外者……我々の組織とは何の繋がりもない人間を、エージェントとして仕立て上げ、送り込むというのはどうです?」
その言葉に、将軍の目がわずかに光った。
「面白い。……続けろ、ドクター」
「はい」
アリスは、新たなファイルをホログラムに表示させた。そこに映し出されたのは、一人の、どこか見覚えのある男の顔写真だった。少し憂いを帯びた、犬のような瞳。
「予備資産のリストの中に、興味深い人物がいます。FBIの、ニコラス・ケイジ刑事という人物です」
「……ケイジ?」
リード副長官が眉をひそめた。
「俳優と同じ名前か」
「いえ。名前だけではありません」
アリスは、別の写真を表示させた。それは、監視カメラが捉えた、街を歩くその刑事の姿だった。
「外見は、あの俳優のニコラス・ケイジに、そっくりです」
部屋に、かすかな失笑が漏れた。だがアリスは、構わずに続けた。
「彼は、非常に優秀な刑事でした。……過去形ですが。数年前、彼が担当した連続猟奇殺人事件の捜査報告書に、彼はこう書き記した。『犯人は物理的に不可能な方法で犯行現場から消失している。これは人間の仕業ではない。何らかの超常的な能力が介在している可能性を排除できない』と」
「……当然、その報告書は上層部に一笑に付され、彼は精神鑑定を命じられた。結果はシロ。だが彼は組織の中で完全に『干され』、以来、資料室の整理係という閑職に追いやられています」
「我々は、彼を『予備資産』として登録しています。いつか、こちらの世界に引き込む価値のある才能の持ち主としてね」
「……なるほど。面白い経歴だな」
将軍は腕を組んだ。
「そして何よりも」
アリスは、とどめの一言を告げた。
「彼の甥が、現在、日本の大学の日本語学校に通っており、彼自身も、ある程度の日本語会話が可能です。非公式にですが、何度も日本を訪れている記録もあります」
その場の全員が理解した。これ以上ない、完璧な駒。ヤタガラスが、絶対に警戒しない人選。俳優そっくりの、オカルトかぶれの、干された刑事。――その男が、マジェスティックのエージェントだと、誰が思うだろうか。
「この人物を、我々マジェスティックで正式に雇用し、日本に派遣するというのはどうでしょうか?」
アリスは提案した。
「比較的安全な日本で、エージェントとしての研修でも積んでもらうという名目で。……彼なら、カラスどもも、赤子の手を捻るように油断するでしょう」
「……賛成だ」
将軍が短く言った。
「異議のある者は?」
反対する者はいなかった。
「よろしい。……賛成多数ということで、ニコラス・ケイジ刑事の雇用と、日本への派遣を正式に決定する。……すぐに彼を迎えに行け」
その非情な決定が下された頃、当のニコラス・ケイジ刑事は、ワシントンD.C.にあるFBI本部の地下深く、埃っぽい資料室で、終わりの見えない書類の山と格闘していた。蛍光灯の白い光が、彼の少し憂いを帯びた貌を、無機質に照らし出している。彼のキャリアは、ここで終わった。真実を追い求めた結果、彼は組織という巨大な壁の前に敗れ去り、この紙の墓場で、ただ静かに朽ちていくだけの運命。そう思っていた。
「……すみません。ニコラス・ケイジ刑事ですね?」
不意に背後から声をかけられた。振り返ると、そこに立っていたのは、黒いスーツに身を包んだ二人の男女だった。その佇まいはFBIの人間ではない。もっと冷たく、そして、一切の感情を感じさせない、異質なオーラを放っていた。
「政府機関の者です。少しお時間を下さい」
「……はい、なんだ?」
ケイジは、億劫そうに立ち上がった。――また、どこかの部署の面倒な書類整理の手伝いか。
「我々は、アメリカの超常現象を管理している、MAJESTIC-12(マジェスティック・トゥエルブ)と申します」
男は、淡々とそう告げた。
「……済まない。ジョークか何かか?」
ケイジは眉をひそめた。マジェスティック12。ロズウェル事件に端を発する、陰謀論の代名詞。
「いえ。本物です」
女の方が、静かに言った。
「ケイジ刑事。貴方の経歴は、全て把握しています。上層部に超能力の可能性を進言し、干されていることも」
「我々は、貴方のような人材を雇用したいと思いまして来ました。……どうですかな? 給与はFBIとは比べ物にならない額をお約束します。……戻りたいと思ったら、いつでもFBIにも戻れます」
その、あまりに現実離れした言葉。だがケイジの、刑事としての直感が告げていた。――こいつらは本物だ、と。そして彼の脳裏に、あの未解決事件の不可解な現場が蘇る。ありえない消失トリック。ありえない犯人の痕跡。あの時、自分が追い求めた真実。
「……分かった」
ケイジは、観念したように息を吐いた。そして彼は、長年、自らの胸の内だけで燻らせてきた、その問いを口にした。
「……超能力は存在するんだな?」
「はい。存在します」
男は頷いた。
「まずは軽い研修を受けて、裏社会の常識を勉強して貰います。そして、その後、日本に派遣したいと思っています」
「ジャパン? 日本に?」
「ええ。あなたが日本語を話せると、我々は把握しています。……我々の連絡員として、日本で研修を受けて下さい」
ケイジは、何も言わなかった。彼は、自らが積み上げてきた、埃まみれの書類の山を一瞥した。そして、目の前の清潔で冷たい二人のエージェントを見る。過去と未来。そのどちらを選ぶべきか。答えは決まっていた。
「……では、行きましょうか」
「……ああ」
ケイジは、短く答えた。彼は上着を羽織ると、二度とこの紙の墓場を振り返ることはなかった。MAJESTIC-12に加入するニコラス・ケイジ刑事。――それは、彼にとって新たなる人生の始まりであると同時に、彼がこれから足を踏み入れる巨大な陰謀の、最初の駒として盤上に置かれた瞬間でもあった。




