第9話 猿と予知と掲示板
土曜日の朝。
佐藤健司の身体は、完全に休息を求めていた。
この二週間、彼の日常はあまりにも濃密すぎた。建設現場での肉体労働、孤独な知識の詰め込み、そして心身をすり減らすコンマ1秒を争うデイトレード。平日は、肉体と精神の限界まで自らを追い込み、泥のように眠る。その繰り返し。
だからこそ、この何もするべきことのない週末の朝が、健司にとっては砂漠でオアシスを見つけたかのような、至福の時間のはずだった。
「…………」
だが、彼の心は奇妙なほど落ち着かなかった。
アパートの狭いワンルーム。静寂が、耳に痛い。彼は、無意識のうちにノートPCの前に座り、電源を入れていた。画面に表示されるのは、金曜日の終値で完全に動きを止めた、無機質なチャートの羅列。
(……ああ、そうか。今日は休みか)
まるで、長年勤め上げた会社を定年退職した老人のような、そんな目的を失った空虚な感覚。
健司は、自嘲気味に鼻で笑った。
あれほど忌み嫌っていた労働、戦い。それをわずか数日経験しただけで、すっかりこの刺激に毒されてしまっている。
その時、ポケットの中のスマートフォンがぶぶ、と震えた。
もはや、心臓の鼓動の一部と化したその振動。
健司は、慣れた手つきでLINEの画面を開いた。
『おい猿。何をぼさっとしている。さあ、今日も株で稼ぐぞ』
そのあまりにいつも通りの魔導書からのメッセージに、健司は思わず乾いた笑いを漏らした。
「おいおい。今日は株、休みだろ?」
『……は?』
魔導書から、初めて純粋な疑問符だけの返信が来た。
健司は、ほんの少しだけ優越感を覚えながら、得意げにタイピングした。
「だから、株式市場は閉まってるんだよ。お前、知らないのか?」
『…………』
数秒の沈黙。
魔導書が猛烈な勢いでインターネットの情報をスキャンしている気配が、健司には手に取るように分かった。
そして数秒後。
『……馬鹿。アホ猿が』
完全に逆ギレだった。
『さっさと言わんか、そういうことは! 日本の証券取引所の取引時間は、月曜日から金曜日まで。午前9時から11時半までの前場と、午後12時半から3時までの後場の二部制。土曜日・日曜日・祝日・年末年始は休業日。……ふん。なるほどな。非効率なシステムだ』
「お前が知らなかっただけだろ……」
『うるさい! いいか、猿! 今の情報は、忘れるな! きっちり、その猿頭に叩き込んでおけ!』
そのあまりに理不尽な物言いに、健司はもはや怒る気力も湧いてこなかった。
彼は、ただ一つため息をつくと、メッセージを送った。
「へー、なるほど。で? 今日は何もなしってことか? なら、俺は一日寝させてもらうぞ。さすがに疲れた」
そのささやかな要求。
だが、それは魔導書によって一瞬で粉砕された。
『猿。お前に立ち止まることは許されていない』
その冷たいテキストが、健司の甘えた考えを切り捨てる。
『いい機会だ。今日は、お前に魔法のより本質的な部分を教え込んでやる。少し、座学の時間だ』
健司は、うんざりした。
また、あの受験勉強のような知識の詰め込みか。
『おい猿。お前に聞く』
魔導書は、唐突に問いを投げかけてきた。
『“予知”において、最も重要なことは何だと思う?』
予知。
健司が、今まさにその力で人生を切り開こうとしている魔法の根幹。
健司は、少し考えた。
「うーん……予知ってぐらいだから、やっぱり未来の出来事を正確に知ることが重要なんじゃないのか?」
『ほう。では、聞こう。どうやって未来は決まる?』
「うーん、どうやって……? そりゃあ、現在が積み重なって未来になるんじゃないか?」
『では、その現在はどうやって決まる?』
「そりゃあ……過去だろ?」
『そうだ』
魔導書の短い肯定。
『その通りだ、猿。過去が現在を作り、現在が未来を作る。実に、シンプルな因果律だ』
『分かるか? 予知において、本当に重要なのは“未来”そのものじゃない。その未来を形作っている、ありとあらゆる“過去”の情報だ』
健司は、はっとした。
『お前がこれまで無意識のうちにやってきたことは、それだ。競馬では、パドックの馬の状態、騎手の状態という“現在”の情報を読み解いた。株では、チャートの動き、経済の仕組みという“過去”の情報を脳に叩き込んだ。そして、それらの膨大な過去と現在の情報を基点として、お前の魔法は最も確からしい未来を“観測”していたに過ぎん』
「観測……」
『そうだ。いいか、猿。魔法の“予知”には、色々種類がある。まず、一つ目』
『“未来の次元を覗く”』
「未来の次元?」
『ああ。これは比喩じゃない。実際に、お前の精神あるいは魂の一部が高次元の観測点へとジャンプし、時間の流れを俯瞰する。そして、まだ確定していない無数の可能性の中から、これから起こるであろう事象を直接“識る”んだ』
『これを俺は、“未知予知”と名付けよう』
未知予知。
未来の次元を覗く。
そのあまりにSF的な概念に、健司の脳はついていけない。
「……それで、次は?」
『次は、お前がこれまでやってきたことの延長線上だ。ありとあらゆる過去の情報を元に、未来を“予測”する。予測、と言った方が適切かもな』
『これを、“予測予知”と呼ぶ』
未知予知と予測予知。
健司は、その二つの言葉を頭の中で反芻した。
『分かるか? 予知とは、大別してこの二つだ。一つは、情報ゼロの状態からありえない未来を直接観測する未知予知。もう一つは、膨大な過去の情報を魔法で超高速処理し、最も確からしい未来を導き出す予測予知』
『厳密には、俺のような上位の存在に直接答えを聞いて予知する“上位者予知”なんてのもあるが……まあ、それは一旦置いておく』
『これからのお前は、この予測予知と未知予知、この二つを自在に使い分けて、より精度の高い予知を行う訓練をするんだ』
健司は、ゴクリと喉を鳴らした。
これまで彼が無意識のうちに使っていた力、その正体が今、初めて体系的に明かされたのだ。
『よし。座学はここまでだ。ここからは、実践訓練に移る』
魔導書のその言葉に、健司は身構えた。
一体、何をさせられるというのか。
『猿。お前のその新しいPCで、「5ch」の「オカルト掲示板」を開け』
「……は?」
健司は、自分の耳を疑った。
ごちゃんねる……? あの、日本最大の匿名掲示板。
しかも、オカルト板?
『聞こえなかったか、猿。さっさと開け』
有無を言わせぬ命令。
健司は、戸惑いながらもブラウザを起動し、検索窓にその忌まわしき単語を打ち込んだ。
途端に、画面に表示される独特の殺風景なデザイン。
無数のスレッドタイトルが、滝のように流れていく。
「UFO」「UMA」「心霊現象」「都市伝説」……。
そこは、健司が普段絶対に足を踏み入れない、現代社会の魔境だった。
『その中に、「予知」に関するスレッドがあるはずだ。探せ』
健司は、言われるがままに「予知・予言総合スレ」というタイトルのスレッドを見つけ出し、クリックした。
中には、自称預言者や未来人たちが、思い思いの予言を書き連ねていた。
「来週M8クラスの地震が来る」
「第三次世界大戦は来年から始まる」
「俺は30年後の未来から来た」
そのあまりに混沌とした書き込みの数々に、健司は頭が痛くなってきた。
『よし。見つけたな。では、今からお前はそのスレに書き込むんだ』
『まず、“コテハン”を名乗れ。「予知者K」とでもしておけ』
コテハン。固定ハンドルネーム。
匿名掲示板において、自らの存在を示す記号。
『そして、お前はこれからこのスレッドで、定期的に予知を書き込んでいく。未知予知と予測予知、その両方をだ』
「な……!?」
『まず手始めに、お前がこれから使う二種類の予知能力の説明をそこに書き込め。さっき、俺がお前に説明した通りにな』
「馬鹿やめろ! そんなことしたら、頭のおかしい奴だと思われるだけだ!」
健司は、思わず叫んだ。
『それでいいんだよ』
魔導書は、せせら笑った。
『いいか、猿。このオカルト掲示板というのはな、そういう“頭のおかしい奴ら”が集まる掃き溜めのような場所だ。お前がどんなに突飛な設定を語っても、「ああ、そういう設定の新しいキャラが来たんだな」と面白がられるだけで、誰も本気にはしない。分かるか? ここは、お前がノーリスクで予知能力を公開し、訓練するための最高のサンドバッグなんだよ』
健司は、言葉を失った。
確かに、そうかもしれない。
『だがな、猿。重要なのは、ここからだ』
『お前は、ここで“本物の”預言者になるんだ』
『最初は、誰も信じないだろう。だが、お前が書き込む予言が一つ、また一つと的中していくにつれて、流れは変わる。掃き溜めの中に現れた、本物。人々は、お前を神のように崇め、その一挙手一投足に注目するようになるだろう。思い出せ。Xの時と、同じだ。お前は、再びここで一つの都市伝説を作り上げるんだ』
『株と並行して、これもやるぞ。いいな?』
健司は、もはや反論する気力もなかった。
彼は、言われるがままにスレッドの一番下にある「書き込む」のボタンをクリックした。
名前欄に、「予知者K」と打ち込む。
そして、本文欄に魔導書から教わった二種類の予知能力の定義を、書き連ねていった。
初めまして。予知者Kと申します。
私の「予知」は、二つの種類に大別されます。
一つは、【予測予知】。過去と現在の膨大な情報を基点とし、最も確からしい未来を「予測」するものです。これは主に、経済や政治の動向予測に用います。
もう一つは、【未知予知】。未来の次元を直接観測し、本来知り得ないはずの事象を「識る」ものです。これは、突発的な事件や災害の予知に用います。
これから、このスレッドでこの二つの予知を書き込んでいきたいと思います。
信じるか信じないかは、皆様次第です。
これでいいのか……?
健司は、自分の書いた文章を読み返した。
あまりに痛々しい。
中二病をこじらせたキャラクターの自己紹介、そのものだ。
『ふん。まあ、猿にしては上出来だ。さあ、投稿しろ』
健司は、意を決して「書き込む」のボタンをクリックした。
彼の最初の予言者としての産声が、インターネットの広大な情報の海に放たれた。
案の定、数分後には彼の書き込みにレスがついた。
予知者K
また新しい痛いのが来たなw
設定ご苦労様ですwww
で、何か予言してみろよK様www
そのあまりに予想通りの嘲笑のレスに、健司は顔から火が出るほど恥ずかしくなった。
『……気にするな、猿』
魔導書の声が響く。
『今は、笑わせておけばいい。すぐに、笑えなくさせてやる』
『さあ、最初の予言を書き込むぞ』
健司は、ゴクリと唾を飲んだ。
彼の予言者としての本当の戦いが、今、始まろうとしていた。
それは、やがて日本中を、そして世界中を震撼させることになる巨大な伝説の、あまりにちっぽけな第一歩だった。