第85話 猿と氷刃と新たなる型
血と汗の匂いが染み付いた「SAITO MMA GYM」から帰宅した佐藤健司の肉体は、心地よい疲労と、それ以上の満たされぬ渇望に支配されていた。シャワーで汗を洗い流し、プロテインを胃に流し込む。その一連の動作ですら、彼の意識は先ほどのスパーリングの残像を追い続けていた。
ライバルの鈴木との、息詰まるような攻防。予知と技術を総動員して、ようやく掴んだ薄氷の勝利。だが、彼の心は晴れなかった。
(……足りない)
リビングの広大な窓から見える、眠らない都市の光を眺めながら、健司は自らの未熟さを噛み締めていた。手札は増えた。斬撃、硬化、電撃。だが、そのどれもがまだ荒削りで、戦術として洗練されていない。仙道やガブリエルといった、あの領域にいる者たちと渡り合うには、まだ決定的な何かが圧倒的に足りなかった。
「凍結系は覚えないのか?」
仙道の、あの唐突な言葉が脳裏をよぎる。動きを封じるという一点において、電撃とはまた質の違う絶対的な支配力。あるいは、それこそが今の俺に欠けているピースなのかもしれない。
その魂からの渇望に応えるかのように、彼の脳内に、あの尊大な声が響き渡った。
『猿。仙道のあの筋肉達磨の言葉が、よほど骨身に沁みたようだな』
「……魔導書か。」健司は、もはや驚きもしなかった。「ああ、そうだ。凍結魔法を覚えたい。電撃だけじゃまだ足りない。動きを止める手札は、いくつあってもいい。」
『ふん。向上心だけは一人前だな。』魔導書は鼻で笑った。だが、その声にはどこか満足げな響きがあった。『よかろう。では、始めようではないか。……だが、その前に言っておくぞ猿。貴様は少し勘違いをしている。』
「勘違い?」
『うむ。貴様は、新たな魔法を覚えるには、またあのスタンガンのような地獄の荒療治が必要だと思い込んでいるのではないか?』
図星だった。健司は、ごくりと喉を鳴らした。氷を口いっぱいに含み、その冷たさで脳を焼くような苦行を覚悟していた。
『……まあ、本来であればそれが必要だ。だがな。』魔導書は、芝居がかった口調で宣言した。『とりあえず、今の貴様なら修行なしで【凍結魔法】を使えるぞ。』
「―――は?」健司は思わず素っ頓狂な声を上げた。「修行なしで? なんでだよ。」
『貴様のその猿の脳みそが、この数ヶ月の地獄の修行で、ようやく人間レベルにまで進化してきたからだ。』魔導書は、どこまでも上から目線だった。『冗談はさておき、貴様の「イメージ力」……すなわち、概念を理解し、それを魔力で再現する能力が飛躍的に向上している。斬撃を覚え、重力を捻じ曲げ、電撃を生み出した。その成功体験が、貴様の脳内に魔法を発動させるための新たな回路を構築したのだ。……これくらいなら出来るだろう。』
『とりあえず、手のひらに氷を出すイメージをしろ。』
その、あまりに簡単な指示。健司は半信半疑のまま、リビングのローテーブルの前に座り込んだ。彼は右の掌を、そっとテーブルの上に置いた。そして、目を閉じる。
イメージする。かつて自らの口内を襲った、あの絶対的な「冷たさ」。熱を奪われ、分子の運動が停止する静寂の世界。その概念そのものを、右の掌の上に凝縮させる。
(……凍れ)
彼の意識が集中する。掌の周囲の空気が、ひやりと温度を下げていくのが肌で感じられた。空気中の目に見えない水分が、彼の掌の上に集まり、その形を変えていく。
―――パキキ……。
微かな結晶が生まれる音。健司は恐る恐る目を開けた。そして、彼は息を飲んだ。
彼の右の掌の上。そこには、何の支えもなく、一つの小さな氷の塊が静かに浮かんでいた。不規則な多面体。だが、それは紛れもなく、彼が自らの意志だけで無から生み出した、最初の「氷」だった。
「おっ……出来た! 氷を生成することが出来た!」
健司の口から、子供のような歓声が漏れた。彼はその氷の塊を指でつまみ上げてみる。ひんやりとした確かな感触。痛みも苦しみもなかった。ただ、純粋なイメージの力だけで、彼は新たな奇跡をその手の中に生み出したのだ。
『よしよし。お前のイメージ力は大分上がってるからな。これくらいなら出来るだろう。』魔導書の声が響く。『しかし、これを攻撃に転換するのは難しいぞ? 触れたものを瞬時に凍らすのは出力が必要だ。イメージで具現化出来る範囲を超えてるからな。』
「なるほどね。」健司は頷いた。「使うのは簡単だけど、攻撃に転換するのは難しいと。」
『ああ。その氷を投げて、飛ばしてみろ。』
「よっと。」
健司は、指でつまんでいた氷の塊を数メートル先の壁に向かって軽く投げつけた。カツンという小さな音と共に、氷は壁に当たり砕け散る。だが、変化はそこで終わらなかった。氷が当たったその一点から、白い霜が放射状にみるみるうちに広がっていく。直径30センチほどの範囲の壁が、完全に氷で覆われていた。
「へー。投げたら当たった部分が凍るのか……。」
『そうだ。』魔導書は、新たな戦術を講義し始めた。『【接触凍結】は、電撃魔法と同じく、相手の肉体に直接魔力を流し込み、その細胞内の水分を強制的に凍結させる高等技術だ。それには、莫大な出力と精密なコントロールが必要になる。今の貴様には、まだ荷が重い。それに、貴様には【接触型斬撃】という、より確実な必殺技がある。正直、使い道がイマイチだ。』
『しかし、投げるとなれば別だ。』
『貴様が生成した氷塊は、ただの氷ではない。お前の魔力を凝縮させた「冷気」の爆弾だ。着弾の衝撃で破裂し、その魔力を周囲に拡散させ、対象の表面温度を瞬間的に奪う。……体表面を凍らせるくらいは出来るだろう。直接的なダメージは少なくとも、相手の動きを鈍らせ、体力を奪う。……牽制用の武器になるな。』
「へー、いいな。」健司の目が輝いた。「遠距離武器をもう少し増やしたい所だったんだ。今の所、溜めて撃つ【射出型斬撃】と、この氷塊を投げるくらいしか、遠距離攻撃が出来ないからな。」
彼の脳内で、新たな戦闘シミュレーションが高速で組み立てられていく。氷塊で相手の動きを止め、あるいは牽制する。その僅かな隙に踏み込む。そして、必殺の【斬撃】で仕留める。あるいは、上空から【ガンシップ・スタイル】で氷の雨を降らせ、地上を制圧する。戦術の幅が広がる。
『今後は、氷塊を生成して投げる訓練をするぞ。より大きく、より速く、そしてより正確に。……いずれは、氷の槍や壁を作り出す応用も教えてやる。』魔導書が、新たな宿題を課す。
「了解。これで武器が一つ増えたな!」
健司は不敵な笑みを浮かべた。彼の神へと至る道。その果てしない武器庫に、また一つ新たな牙が加わった。その冷たく、そして美しい刃は、まだ血を知らない。だが、その牙がいつか神々の喉元にまで届くことを、彼はまだ知らなかった。ただ、その手に残る確かな冷気だけが、彼の新たなる力の誕生を静かに告げていた。
彼の孤独な、しかし確かな成長の物語は、まだ始まったばかりなのだ。




