第8話 猿と詩人と複合魔法
翌朝。
佐藤健司の世界は、アラームの音ではなく、LINEの通知音で始まった。身体は、昨日の建設現場のバイトで鉛のように重い。だが、彼の意識はその無機質な電子音によって強制的に覚醒させられた。
送り主は、言うまでもなく魔導書だ。
『起きろ猿。二度寝は許さん。今日も戦いだぞ』
「……分かってるよ」
健司は、軋む身体を起こしながら、悪態をつくように誰に言うでもなく呟いた。
カーテンの隙間から差し込む朝の白い光。かつては、ただ憂鬱の始まりを告げるだけの光だった。だが、今は違う。それは、戦いの始まりを告げるゴングの音にも似ていた。
彼は日課となった朝のランニングを終え、シャワーを浴びて、昨日買ったノートPCの前に座る。証券会社のサイトにログインし、市場が開く前のめまぐるしく更新されるニュースや気配値の数字をぼんやりと眺める。
昨日の初陣。
プラス五千四百円という、あまりにささやかな勝利。だが、それは確かに彼が自らの力で、この神々の遊び場から奪い取った最初の戦利品だった。
今日も勝てるのか?
そんな弱気な思考が頭をよぎる。その瞬間を見計らったかのように、魔導書から新たな指令が下った。
『さて。今日のデイトレードを始める前に、新しい訓練だ』
「新しい訓練?」
『ああ。お前のXのアカウントを使え』
健司は、言われるがままにフォロワー0の虚しいアカウントを開いた。
『いいか。これから毎朝、取引が始まる前に、その日の“相場感”をお前の言葉でポエムとして書け』
「は……? ポエム?」
健司は、自分の目を疑った。ポエム。詩。この金と欲望が渦巻くドライなデイトレードの世界で、最も無縁な単語。
『そうだ、ポエムだ。まあ、お前の猿頭から高尚な言葉が出てくるとは思わんがな。要は、その日市場の中心になりそうなテーマや相場の流れを直感で掴み取り、それを宣言するんだ』
『ぱっと見の精度は悪くてもいい。重要なのは、その日一日のハイライトをあらかじめ予知して、そこに書き殴ることだ。いいな?』
そのあまりに突飛な指示に、健司は混乱した。
「……なんでそんなことを? 予知をわざわざ公開するのか? リスクしかないじゃないか」
『猿はこれだから、目先のことしか見えん』
魔導書は、深々とため息をつくようなテキストを送ってきた。
『いいか、よく聞け。これは、“予知”という魔法の本質に関わる重要な訓練だ』
『予知とは、ただ未来が見える便利な能力じゃない。あらかじめ、「こうなる」と言葉やイメージで未来を定義する。そして、後からその結果を確認し、「やはり思った通りになった」と認識する。その一連の観測行為によって、お前の中の“世界は自分の思った通りになる”という絶対的な確信を、より強固なものにしていく儀式なんだ』
『宣言し、観測し、的中させる。その繰り返しこそが、お前の予知能力をより鋭く、より強力なものへと進化させる。分かるか?』
健司は、ゴクリと喉を鳴らした。
Xへの投稿は、ただの自己満足や目立ちたがりの行為ではなかった。
それ自体が、魔法の訓練の一環。
宣言すること、それ自体が魔法を強化するトリガーだったのだ。
『さあ、やってみろ。今日の相場を感じろ。そして、ポエムを詠め。猿なりにな』
健司は、言われるがままにゆっくりと目を閉じた。
意識をPCの画面の向こう側、情報の奔流のさらに奥深くへと沈めていく。
今日の世界の流れ。
今日の人間の欲望の色。
何が見える?
何が聞こえる?
彼の脳裏に、断片的なイメージが浮かび上がっては消えていく。
高速で流れていく光の線、サーバーラック、新しい技術、革新。
その漠然としたイメージが、一つのキーワードへと収束していく。
――IT。
健司は、目を開けた。
そして、Xの投稿画面に震える指で文字を打ち込んでいった。
「……うーん。『今日はIT株に風が吹く。このビッグウェーブに、乗り遅れるな!!!』……かな」
あまりに稚拙で、素人丸出しのその文章。
ポエムと呼ぶには、あまりにお粗末だった。健司は、顔から火が出るほど恥ずかしくなった。
だが、魔導書からの返信は意外なものだった。
『おう。それで良い、猿』
『今お前が感じた「IT株に風が吹く」というその感覚。それこそが、お前が無意識のうちに予知した未来の断片だ』
そして、魔導書はさらに驚くべき魔法の真実を語り始めた。
『いいか、猿。ここからが本番だ。お前は今、一つ目の魔法“予知”を使った。だが、それだけで終わらせるな』
『今からお前は、二つ目の魔法、お前の十八番である“確率を引き寄せる魔法”を使うんだ』
『そして、お前が今しがた予知した「IT株に風が吹く」というこの未来の“本流”に、世界の流れを無理やり引き寄せるんだ』
「……は? どういうことだ?」
『魔法はな、猿、単体で使うよりも、複数組み合わせることでその効果を爆発的に上げることができる! 複合魔法とでも言うかな!』
『予知で未来の的を定める。そして、確率操作でその的に弾が当たるように、世界をほんの少しだけ捻じ曲げる。そうすることで、予知の的中率はさらに向上する。お前の「IT株に風が吹く」という未来が実現する確率を、たとえ1%でも上げることを常に心がけろ。そのわずか1%の上乗せが、この弱肉強食の戦場で生き残るための生命線になるんだ』
複合魔法。
予知と確率操作のコンビネーション。
健司の脳裏で、昨日までの点と点が繋がり、一つの線になるのを感じた。
『さあ、今日の俺からの補助はなしだ』
魔導書のその言葉に、健司の心臓が大きく跳ねた。
『ガンガントレードしていけ。お前一人の力で、今日の相場を乗りこなしてみせろ』
『目標は、最低10回は勝負すること。そして、6回勝つこと。勝率6割を死守しろ』
『稼ぐ額は少額でもいい。今は、利益よりもお前の脳に「勝つ」というイメージを焼き付けることの方が大事だ!!!』
その檄文を最後に、魔導書は沈黙した。
午前9時。
東京株式市場の開場を告げるベルが鳴り響く。
健司は、ごくりと唾を飲み込んだ。
補助なし。
たった一人での戦い。
彼は、Xの投稿ボタンをクリックした。
フォロワー0のタイムラインに、彼の拙い宣言が放たれる。
そして、彼は証券会社の取引画面に向き直った。
その目は、もはや昨日までの恐怖に怯える素人の目ではなかった。
二つの魔法を手に、世界の奔流に挑む戦士の目だった。
最初の一時間。
健司は、苦戦を強いられた。
魔導書の補助がないという、ただそれだけの事実が、彼の精神に重くのしかかる。
本当に自分の感覚だけで大丈夫なのか?
その迷いが、予知の精度を鈍らせる。
最初のトレードは、数百円の損失。
二回目のトレードも、わずかな損失。
(クソッ……! やっぱり俺一人じゃ……)
弱音が漏れそうになる。
その時、彼はXに自分が投稿した言葉を思い出した。
「IT株に風が吹く」
そうだ。俺は、朝予知したじゃないか。
今日の主役はITセクターだと。
彼は、監視銘柄をIT関連の数十社に絞り込んだ。
そして、その中の一社、AI関連のソフトウェアを開発している新興企業のチャートに、目を奪われた。
何か感じる。
昨日までの彼なら見過ごしていただろう、ほんのわずかなチャートの揺らぎ。
その揺らぎの奥に、彼は「上向く」という未来の気配を感じ取った。
「……これだ!」
彼は、買い注文を入れた。
その直後、株価はまるで彼の注文を待っていたかのように、急騰を始めた。
数分後。
彼は、冷静に利益確定の売り注文を出す。
プラス七千円。
今日初めての勝利だった。
「……よし!」
一度勝ちの感覚を掴んでしまえば、あとはもう迷いはなかった。
彼は、次々とIT関連銘柄の中から「気配」のする銘柄を見つけ出し、エントリーしていく。
もちろん、全ての取引がうまくいったわけではない。
時には、予知が外れ、損切りを余儀なくされることもあった。
だが、彼の勝率は確実に6割を超えていた。
彼は、気づけばこのスリリングな金と数字のゲームに夢中になっていた。
そして午後三時。
取引終了のブザーが鳴り響く。
健司は、疲労困憊で椅子の背もたれに深く身体を沈めた。
脳が痺れている。
だが、その疲労感は不思議と不快ではなかった。
むしろ、全力を出し切った心地よい達成感に包まれていた。
彼は、おそるおそる本日の取引結果を確認した。
トレード回数12回。
勝ち8回。
負け4回。
勝率は、6割6分。
そして確定損益は――。
プラス3万2千円。
「…………勝った…………」
健司の口から、絞り出すような声が漏れた。
魔導書の補助なしで。
たった一人で、一日で3万円以上を稼ぎ出した。
それは、かつての彼が三日間コンビニで魂をすり減らして、ようやく手にできる金額だった。
彼は、震える指でXを開いた。
そして、今日の戦績を打ち込んでいく。
『@Kabu_no_K(株のK)』
『本日の戦績:+32,000円(8勝4敗)。朝書いた通り、今日はIT株に風が吹く一日でした。この波にうまく乗れた感じです。明日も頑張ります。 #デイトレ #株式投資』
送信ボタンをクリックする。
相変わらず、フォロワーは0人。
だが、彼の心は昨日とは比較にならないほど晴れやかだった。
彼は、自分の足で確かに一歩前へと踏み出したのだ。
その時。
Xの通知が、一つ光った。
見ると、彼の今しがたの投稿に、初めて「いいね」が一つついていた。
アカウント名は「T」。
ただ一文字。
それが誰なのか、健司には知る由もなかった。
だが、その小さなハートマークが彼の胸を温かくした。
見てくれている人がいる。
この広大な情報の海の中で、確かに自分を観測している人間が。
ポケットの中で、スマートフォンが震えた。
魔導書からだった。
たった二文字。
『合格』
その短い承認の言葉が、どんな賛辞よりも彼の心に深く染み渡った。
健司は、ノートPCを閉じると、ベッドに倒れ込んだ。
心地よい疲労感に包まれながら、彼の意識は急速に眠りの奥深くへと沈んでいく。
夢の中で、彼は無数のチャートの波を乗りこなす、一人のサーファーになっていた。
彼の長く、そして果てしない戦いは、まだ始まったばかりだ。