第78話 猿と祓い屋と仕組まれた罠
車は、都心から少し離れた、再開発の波から取り残されたような古い工業地帯へと入っていった。その一角に、目的のビルは、まるで巨大な墓標のように聳え立っていた。十階建ての、コンクリート打ちっぱなしの廃ビル。窓ガラスはほとんどが割れ、壁には無数の落書き。その入り口からは、健司の【霊眼】でなくとも感じ取れるほどの、淀んだ負のオーラが、陽炎のように立ち上っていた。
「さて、と。お仕事の時間だね」
奏は車を路肩に止めると、エンジンを切った。その顔から、先ほどまでの軽薄な笑みが消え、プロの「祓い屋」のそれに変わっていた。
三人は車を降り、フェンスの破れ目から敷地内へと侵入した。ビルのエントランスは固く閉ざされていたが、奏が懐から取り出した一枚の札を鍵穴にかざすと、まるで最初から鍵が開いていたかのように、いとも容易く扉が開いた。
中は、カビと埃の匂いが充満していた。床には瓦礫やゴミが散乱し、壁からは鉄筋が剥き出しになっている。
「ふむ……」
奏は、エントランスホールの中央で立ち止まり、鼻をひくつかせた。
「……おかしいな。ヤタガラスの情報じゃ、Tier3の怪異が一体、のはずだったが……。この気配は、少し違う。数が多すぎる。それに、何より……」
彼は、床に落ちていた一枚の紙切れを拾い上げた。それは、コンビニのレシートのようだったが、その隅に、肉眼ではほとんど見えないほどの、微かな紋様が描かれている。
「……人工的な匂いが、プンプンしやがる」
「どういうことです?」
健司が尋ねると、凛が短く答えた。
「罠、ということです」
その言葉と、同時だった。
背後で、凄まじい轟音と共に、彼らが入ってきたはずのエントランスの扉が、内側から分厚い鉄のシャッターで塞がれた。同時に、ビルの壁に描かれていた無数の紋様が、一斉に不気味な赤い光を放ち始める。
「チッ。ご丁寧に、結界まで張ってくれたか」
奏は、舌打ちした。
『猿! 気をつけろ!』
健司の脳内に、魔導書の声が響く。
『この結界は、ただの封鎖ではない! 空間そのものを歪める、迷宮型の術式だ!』
その言葉を証明するかのように、目の前にあったはずの階段へと続く廊下が、ぐにゃり、と歪んだ。壁が生き物のように蠢き、通路が塞がれ、新たな道が現れる。ここはもはや、ただの廃ビルではない。侵入者を嬲り殺すための、巨大な迷宮と化していた。
「なるほどね。……どうやら、俺たちの知らない先客がいたらしい」
奏の目が、冷たく光る。
「――チッ。同業者の匂いがしやがる」
その呟きには、自らの縄張りを荒らされたことへの、明確な怒りが込められていた。
「いいだろう。……戦争だ」
彼の探偵業のライバルか、あるいは裏社会の組織が、このビルをアジトとして利用し、その警備に「怪異使い」を雇っている。任務は、単純な怪異退治から、敵対する能力者との市街地戦へと、その様相を変えたのだ。
「さて、どうする? この迷路、闇雲に進んでもラチがあかないぞ」
奏が腕を組む。彼は、懐から数体の紙の式神を取り出し、周囲に放った。だが、式神たちは数メートルも進まないうちに、歪んだ空間に飲み込まれ、その気配が途絶えた。
「ダメだ。斥候が役に立たない。完全にこちらの目を塞ぐ気だな」
「ならば」
凛が、背中の刀に手をかけた。
「全て、斬り拓くまでです」
その瞳には、一点の曇りもない。彼女にとって、壁とは、斬り伏せるための障害物でしかなかった。
「待て、凛ちゃん。それは最後の手段だ」
奏が、彼女を制した。
「相手は、俺たちをここに誘い込んだんだ。下手に動けば、それこそ思う壺だ」
その、一触即発の空気の中。
健司は、静かに目を閉じていた。
そして、彼は、開いた。
【予測予知】、起動。
彼の脳内で、この歪んだ迷宮の、数秒先の未来が、無数の可能性としてシミュレートされていく。壁が動き、床が抜け、天井が落ちる、無数の「死」の未来。
だが、その無数のデッドエンドの中に、たった一本だけ、安全に先へと進める、光の道筋が見えた。
「――こっちです」
健司は、迷いなく、右手の壁を指差した。
そこは、今はただのコンクリートの壁にしか見えない。
「10秒後、ここが通路になります。……敵は、俺たちの心理を読んで、最もありえない場所を、安全なルートに設定している」
その、あまりに自信に満ちた言葉に、奏と凛は、顔を見合わせた。
そして、10秒後。
健司が指差した壁が、音もなくスライドし、新たな通路が現れた。
「……なるほどね」
奏は、ニヤリと笑った。
「噂の予知能力か。……こりゃ、頼りになる」
こうして、三人の奇妙な共闘が始まった。
健司が、予知で進むべき道を示し、ナビゲーターとなる。
凛が、その道の先に現れる物理的な障害物を、神速の居合で斬り拓き、先鋒を務める。
そして、奏が、自らの使役する怪異を周囲に展開させ、奇襲を警戒し、後衛を固める。
攻・防・知。
即席のチームでありながら、その役割分担は、驚くほど完璧だった。
数十分後、彼らは迷宮を抜け、一つの広大なフロアへとたどり着いた。
そこは、かつてコールセンターとして使われていたのか、無数のデスクと椅子が、整然と並んでいた。だが、その静寂は、不気味なほどだった。
「来るぞ」
健司が、短く呟いた。
彼の予知が、捉えている。
この部屋の、影。
その全てから、敵意が溢れ出しているのを。
その言葉と同時に、部屋中のデスクや椅子の影が、生き物のように蠢き始めた。そして、その闇の中から、数十匹の、墨のように黒い猟犬が、その姿を現した。その目は、憎悪の炎のように、赤く輝いている。
「影の怪異か。……面倒だな」
奏が、舌打ちした。
彼は、懐から数枚の札をばらまき、自らの前に、土壁のような姿をした、亀の怪異を召喚する。
「凛ちゃん、K君! 俺がこいつで時間を稼ぐ! その間に、数を減らして!」
「――承知」
凛は、短く答えると、その身を低く沈めた。
次の瞬間、彼女の姿は、掻き消えていた。
銀色の、閃光。
それが、猟犬たちの群れの中を、縦横無尽に駆け巡る。
一閃するたびに、一匹、また一匹と、黒い猟犬が悲鳴を上げる間もなく、霧散していく。
抜刀から納刀まで、コンマ数秒。
『刹那』。
その、あまりに洗練された剣技に、健司は息を飲んだ。
「――Kさん! 右翼、三匹!」
凛の、鋭い声が飛ぶ。
健司は、はっと我に返ると、自らも戦闘態勢に入った。
【身体強化】、起動。
彼の身体が、爆発的なエネルギーに満たされる。
彼は、迫りくる三匹の猟犬を、正面から迎え撃った。
予知が、告げている。
一番右の個体、狙いは喉元への噛み付き。中央は、陽動。左は、足元へのタックル。
健司は、その全てを読み切り、最小限の動きで、その三つの攻撃を、同時に捌いた。
そして、がら空きになった、三匹の胴体。
そこに、彼は、嵐のようなパンチの連打を叩き込んだ。
『無刃』の、布石。
その超人的な連打の前に、影の猟犬たちは、抵抗する術もなく、その形を崩壊させていった。
数分後。
フロアには、静寂が戻っていた。
数十匹いたはずの猟犬は、一匹残らず、祓われていた。
「ふう。……やるじゃないか、二人とも」
奏が、亀の怪異を袖の中に戻しながら、言った。
その顔には、疲労の色が見える。
健司と凛もまた、荒い息を吐いていた。
だが、彼らの目には、確かな手応えが宿っていた。
いける。
この三人なら。
彼らは、最上階へと続く、最後の階段を駆け上がった。
その先に、この茶番劇の、演出家がいる。
最上階は、役員室だったのだろうか。
床には、深紅の絨毯が敷かれ、壁には、趣味の悪い絵画が飾られている。
そして、その部屋の、一番奥。
巨大な革張りの社長椅子に、一人の青年が、ふんぞり返って座っていた。
年の頃は、健司と同じくらい。
ブランド物の、派手なスーツに身を包み、その顔には、全てを見下したような、傲慢な笑みが浮かんでいる。
「ようこそ、ヤタガラスの、皆さん」
青年は、芝居がかった口調で、言った。
「俺は、カゲヤマ。……しがない、怪異使いさ。……このビルは、今日から俺の新しいアジトだ。……悪いが、お前らには、ここで消えてもらう」
その言葉と共に、彼の背後の空間が、ぐにゃり、と歪んだ。
そして、その闇の中から、一体の、巨大な怪異が、その姿を現した。
猿の顔、狸の胴体、虎の手足、そして蛇の尾を持つ、伝説の魔獣。
―――鵺。
その、Tier 3の名にふさわしい、圧倒的な威圧感。
「さあ、始めようか。……第二ラウンドを」
カゲヤマが、楽しそうに、指を鳴らした。
鵺が、咆哮を上げる。
その口から、雷撃が放たれた。
奏が、咄嗟に亀の怪異を再び召喚し、その盾で雷撃を受け止める。
だが、その衝撃で、盾には大きな亀裂が入った。
「凛ちゃん!」
健司が、叫んだ。
凛は、すでに動いていた。
彼女は、床を蹴り、一直線に、鵺の懐へと飛び込む。
神速の、居合。
だが、鵺の硬い皮膚は、その刃を、甲高い音を立てて、弾き返した。
「―――硬い!」
凛の口から、驚愕の声が漏れる。
「無駄だ、無駄だ!」
カゲヤマが、高笑いする。
「俺の『クロ』は、最強なんだよ!」
その、慢心。
それこそが、彼の、敗因だった。
「……奏さん!」
健司の声が、響いた。
「俺の予知によれば、……あいつの弱点は、……雷撃を放った直後、コンマ5秒だけ、無防備になる、左の脇腹です!」
「……なるほどな!」
奏は、ニヤリと笑った。
「―――凛ちゃん! K君! 聞いたな!? ……合わせろよ!」
奏は、自らが盾としていた亀の怪異を、消した。
無防備になった、三人の前に、鵺が、再び、最大級の雷撃を、放とうと、その口を大きく開く。
「―――今だッ!!!!」
奏は、懐から数十体の、鳥の形をした式神を、一斉に放った。
それは、陽動。
鵺の、視界を、一瞬だけ、奪う。
その、隙。
凛は、すでに、動いていた。
彼女は、自らの刀に、全霊力を込める。
その刃が、白銀の光を放った。
そして、健司。
彼は、鵺の、足元へと、滑り込む。
そして、その両の手を、床に叩きつけた。
【重力制御】。
鵺の、巨体を、一瞬だけ、床に縫い付ける。
「―――ギッ!?」
動きを封じられた、鵺。
その、がら空きになった、左の脇腹。
そこに、凛の、全てを込めた一閃が、吸い込まれるように、突き刺さった。
「―――ギィヤアアアアアアアアアアアッ!!!!」
鵺の、断末魔の叫びが、ビル全体を、震わせた。
その巨体は、光の粒子となって、霧散していく。
「……な……!?」
カゲヤマは、呆然と、その光景を、見つめていた。
そして、彼が、我に返った時には、すでに、奏の、無数の札が、その身体を、雁字搦めにしていた。
「……ゲームセット、だな」
奏は、肩をすくめた。
その顔には、いつもの軽薄な笑みが、戻っていた。
戦いは、終わった。
三人は、疲労困憊の身体を引きずりながら、ビルの外へと出た。
東京の夜景が、彼らを迎える。
「……やるじゃないか、二人とも」
奏が、言った。
「最高の、チームだったな」
凛は、何も言わなかった。
だが、その口元には、ほんのわずかに、笑みが浮かんでいるように、見えた。
健司は、その光景を、ただ、誇らしく見つめていた。
一人では、勝てなかった。
だが、三人なら。
その夜、三人が、汚い中華料理屋で、ラーメンを啜っていたのは、また別の話。
健司の、ヤタガラスとしての、そして、一人の戦士としての、新たな一日。
それは、血と、呪詛の匂いではなく、確かな絆と、そして、安いラーメンのスープの匂いと共に、幕を閉じた。
その手に残る確かな感触だけが、彼がまだ人間であることを、証明していた。