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第77話 猿と探偵と世界の裏側

 東京の血管を流れる、無数の鉄の箱。その一つ、何の変哲もない国産のセダンが、午後の喧騒を滑るように進んでいた。車内を支配しているのは、カーナビの無機質な音声と、カーステレオから微かに流れる、趣味の悪いオールディーズ。そして、運転席の男が時折漏らす、気の抜けた鼻歌だった。


 助手席に座る佐藤健司は、窓の外を流れていく景色を、ぼんやりと眺めていた。数ヶ月前まで、自分もあの雑踏の中を、ただ無目的に歩く一人だった。だが、今は違う。自分は、この平穏な日常の、薄皮一枚下で繰り広げられる、もう一つの世界の住人。その自覚が、彼の目に、かつてはなかった静かな光を宿らせていた。


「いやー、しかし、良い天気だねえ」


 ハンドルを握る遊佐奏が、欠伸を噛み殺しながら言った。その軽薄な口調とは裏腹に、その視線は常に周囲の車の動きを、鷹のように鋭く捉えている。この男、探偵というだけあって、観察眼は常人の域を超えていた。


「この後、学校まで凛ちゃんをお出迎えして、そのまま怪異が現れてる所に直行だよ。まあ、今日の相手は雑魚だって話だから、さくっと終わらせて、美味いラーメンでも食いに行こうや」


「はい、了解です」

 健司は短く答えた。彼の心は、すでに次なる戦場へと向かっていた。だが、奏はそんな健司の緊張を解きほぐすかのように、唐突に、全く違う方向からボールを投げてきた。


「そういや、K君」

 奏は、バックミラーでちらりと健司の顔を窺った。

「彼女は?」


「えっ」

 その、あまりにプライベートで、あまりに直球な問い。健司は、思わず素っ頓狂な声を上げた。

「えー……居ませんよ、そんなの」


「なんだ、そうなの」

 奏は、心底残念そうな顔をした。

「勿体ないねえ。君、テレビに出てから、めちゃくちゃモテるようになったでしょ。XのDMとか、すごいことになってんじゃないの?」


「まあ、それは……」

 健司は、言葉を濁した。事実、彼の元には、日に数百件単位で、女性からの熱烈なメッセージが届いていた。だが、今の彼に、そんなものに現を抜かしている余裕はなかった。


「この業界、意外と既婚者が多いからなぁ。君も、早く良い人見つけとかないと、売れ残っちゃうよ?」


「へえ、そうなんですか?」

 健司は、意外な言葉に聞き返した。能力者という、特殊で、危険な世界。恋愛や結婚とは、最も縁遠いものだと思っていた。


「うん、そうなの」

 奏は、赤信号で車を止めると、煙草に火をつけた。紫煙が、車内にふわりと広がる。

「特に、凛ちゃんみたいな、古い家の子たちはね。お家同士で、婚約とか、かなり多いよ。能力者同士がくっついて、その子供も、より強力な能力者になるようにって、まあ、一種の血統管理みたいなもんだね。昔の、武家や公家と、やってることは変わらない」


 政略結婚。

 その、古めかしい響き。健司の脳裏に、ヤタガラスから渡された資料の内容が蘇る。【継承型】。血の繋がりによって、その力を代々受け継いできた者たち。彼らにとって、結婚とは、個人の感情だけでなく、一族の存続を賭けた、重要な戦略なのだ。


「なるほど……。じゃあ、俺みたいな【突然覚醒型】は、あんまり関係ない話ですかね」


「まあ、そうだねえ。俺たちみたいな、ぽっと出の野良犬には、縁のない話だ」

 奏は、自嘲するように笑った。

「でも、そういう血の繋がりが、この業界の、面倒くさい派閥争いの原因にもなってるんだけどね。……この業界、狭いようで広いからねぇ」

 彼は、そう言って、遠い目をした。


 健司は、ふと、もう一つの疑問を口にした。

「じゃあ、海外の能力者と結婚、とかは無いんですか? ほら、国際結婚みたいな」


 その、あまりに素朴な問い。

 それを聞いた奏は、腹を抱えて笑い出した。

「ぶはっ! K君、面白いこと言うね! 無い無い、絶対にない!」


「え、なんでですか?」


「そりゃあ、縄張り意識が、バチバチだからだよ」

 奏は、笑い涙を拭いながら言った。

「ヤタガラスと、アメリカのマジェスティックの人間が、結婚? EUのオルド・クロノスの貴族様が、日本の退魔師と? 地獄だよ、そんなの。スパイ合戦の始まりじゃん。絶対ないね」


 マジェスティック。

 オルド・クロノス。

 健司が、ヤタガラスの資料でしか見たことのない、海外の巨大組織の名前。

 奏は、まるで近所のコンビニの話でもするかのように、その名前を口にする。


「マジェスティックも、特にきな臭いからねぇ」

 奏は、煙を深く吸い込むと、忌々しそうに吐き出した。


「海外組織のこと、俺、全然知らないんですけど……。そんなに、ヤバいんですか?」


「ヤバい、というか、……俺たちとは、根本的に人種が違うんだよ」

 奏は、ハンドルを握り直した。信号が、青に変わる。

「ヤタガラスは、良くも悪くも、日本の古い官僚組織だ。伝統とか、調和とか、そういうのを大事にする。能力者も、『保護すべき国民』として、扱うだろ?」

「だが、マジェスティックは違う。あそこは、軍隊であり、企業だ。能力者は、『兵器』であり、『商品』。全てが、Tierっていうランクで格付けされて、給与とか、待遇が、がらっと変わる。だから、内部の競争も、半端じゃない。仲間を蹴落としてでも、上のTierに行こうとする。もう、バチバチよ」


 その、あまりにドライで、実力主義な世界。健司は、息を飲んだ。


「まあ、一口にアメリカって言っても、一枚岩じゃないけどね」

 奏は、付け加えた。

「アメリカ軍に所属してる能力者部隊の連中は、そんなことないよ。あいつらは、軍人だからな。仲間意識も強いし、気の良い奴らが多い。……問題は、マジェスティックみたいな、秘密組織の方だよ」


「なんで、そんなに違うんですか?」


「所属してる人間の、質が違うからさ」

 奏は、言った。

「覚醒型が多いのも、原因だよね、あそこは。世界中から、有望な才能を、金で買い漁ってるから。生まれつき、強い力を持ってる連中が多いんだ。……そういう奴らは、大抵、『自分が一番だ』と思ってるから、仲間意識なんて、ゼロだよ。……まあ、K君も覚醒型だけど、君は珍しく素直なタイプだから、可愛いげがあるけどね」

 その、軽口。だが、健司は笑えなかった。

 自分も、一歩間違えれば、そちら側の人間になっていたかもしれない。


「へー……」

 健司の口から、乾いた声が漏れた。

「いつか、俺も……マジェスティックと、関わること、ありますかね?」


「あるある。絶対にある」

 奏は、断言した。

「というか、もう、関わってるよ、君も、俺たちも」

「マジェスティックも、日本に支部があるからね。それなりに、デカいのが」


「えっ、そうなんですか!?」


「ああ。で、ここだけの話だけどな」

 奏は、声を潜めた。

「連中、日本の大学でも、平気でスカウト活動してるらしいんだよ。有望なTier 5……まだ覚醒してない『原石』を見つけては、ヤタガラスより先に接触して、破格の条件で、アメリカに引き抜こうとする」

「数年前、それでヤタガラスが、『内政干渉だ!』とか言って、ブチギレてた事件があってね。結構、大きな騒ぎになったんだ」


「……で、どうなったんですか?」


「……結局、ヤタガラスが、折れたらしいけどな」

 奏は、吐き捨てるように言った。

「向こうは、外交問題までチラつかせてきたらしい。……まあ、今の日本が、アメリカに強く出られるわけないだろ。……結局、いくつかの大学は、マジェスティックの『治外法権』みたいな感じになっちまって、ヤタガラスも、手が出せない。……本当に、ドロドロしてるんだよ、この業界は」


 健司は、言葉を失っていた。

 自分の知らないところで、そんな、生々しい国家間のパワーゲームが、繰り広げられていたとは。

 自分が見ている世界など、まだ、ほんの表層に過ぎなかったのだ。


「アメリカさんは、この業界だと、まだ歴史の浅い新参だけど、……その分、やり方がえげつないし、何より、勢力的に、でかいからなぁ……」

 奏は、そう言って、大きく溜息をついた。

 車は、いつの間にか、女子高生たちの華やかな笑い声が溢れる、学校の前に差し掛かっていた。

 凛が、校門の前で、腕を組み、仁王立ちで待っているのが見えた。


「おっと、姫君のお出ましだ」

 奏は、煙草の火を消すと、軽薄な笑みを、顔に貼り付けた。

「さて、と。……面倒くさい、大人の話は、ここまでだ。……ここからは、仕事の時間と行こうか、K君」


 健司は、頷いた。

 彼の心は、まだ、先ほどの話の衝撃から、抜け出せていなかった。

 マジェスティック。

 アメリカ。

 そして、いつか自分が相見えるかもしれない、未知なる強者たち。

 彼の、戦うべき世界の広がりを、彼はこの日、改めて思い知らされた。

 それは、彼の魂を震わせる、恐怖であると同時に、何よりも心躍る、冒険の始まりの予感でもあった。

 運命の歯車は、確かに回り始めた。彼を、逃れられぬ闘争の渦へと、引きずり込みながら。

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