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第76話 猿と祓い屋と百鬼の袖

 ヤタガラス東京支部の、静かで清潔なオフィス。

 その一角にあるブリーフィング・ルームの扉が、静かに開いた。中から現れたのは、今日の共同任務のパートナーとなる、二つの人影。佐藤健司は、ソファから立ち上がり、軽く会釈をした。彼の視線が、その対照的な二人を、冷静に、そして興味深く捉える。


 一人は、少女だった。年の頃は、まだ高校生くらいだろうか。古風なセーラー服を、戦闘用に改造したかのような機能的な隊服に身を包み、その背には、白い鞘に収められた、一振りの日本刀が、凛とした存在感を放っている。切り揃えられた黒髪。大きな、しかし何の感情も映さない、黒曜石のような瞳。彼女は、健司の姿を認めると、ただ無言で、深々と頭を下げた。その立ち姿は、一本の、抜き身の刃物のように、美しく、そして危うかった。


 もう一人は、青年だった。少女とは対照的に、彼は現代的なストリートファッションに身を包み、その表情には、人を食ったような、軽薄な笑みが浮かんでいる。染められた明るい髪、耳にはピアス。その佇まいは、およそこれから危険な任務に赴く者とは思えないほど、飄々としていた。


「どうもー。やあやあ、君が噂のKだね! 話は聞いてるよ、よろしく!」


 青年は、まるで旧知の友人にでも会ったかのように、気さくに手を差し伸べてきた。健司は、その手を握り返しながら、自らも名乗りを返す。

「どうも。佐藤健司、コードネームはKです。よろしくお願いします」


「俺は、怪異操術の遊佐奏ゆさ そうです。まあ、気軽にソウって呼んでよ」

 奏と名乗った青年は、にこやかに言った。そして彼は、隣で石像のように固まっている少女の背中を、遠慮なく、ばしん、と叩いた。

「ほら、りんちゃんも挨拶、挨拶!」


「……っ」

 少女は、一瞬だけ、ビクリと肩を震わせた。そして、小さな、蚊の鳴くような声で、呟いた。

「……冴木、さえき りんです。……どうも……」


「ごめんね、この子、人見知りだからさ」

 奏が、悪びれる様子もなく言うと、凛の眉が、わずかにピクリと動いた。

「……痛い!」

 凛が、肘で奏の脇腹を、鋭く抉る。

「殴らないでよ、ひどいなあ!」


 その、まるで夫婦漫才のようなやり取り。健司は、苦笑するしかなかった。

(……濃いのが来たな)

 これが、日本退魔師協会。弥彦さんと同じ、この国の裏側で、人知れず怪異と戦い続けてきた、スペシャリストたち。


「どうも。じゃあ、俺が仕切るね」

 奏は、何事もなかったかのように、話を続けた。その切り替えの速さは、彼の常人ではない一面を、物語っていた。

「今日は、ヤタガラスからの情報提供通り、このエリアに出現したTier 3の怪異を狙って、討伐するよ。対象は、複数の術式を持ってる、厄介なタイプだから、注意してね。弱らせたら、俺が『取り込む』から、とどめは刺さないように。じゃ、レッツゴー!」


 その、あまりに軽いノリ。

 健司は、少しだけ戸惑いながらも、この奇妙な二人組と共に、任務地である廃ビルへと、歩き出した。


 夕暮れの光が、高層ビルのガラスに反射し、街をオレンジ色に染めている。三人は、雑踏の中を、ごく普通の若者たちのように、並んで歩いていた。だが、彼らの間を流れる空気は、明らかに、日常とは異質だった。


「お二人とも、日本退魔師協会の人なんですか?」

 健司は、沈黙を破るように、尋ねた。


「いいや、俺は外注だね」

 奏が、ポケットに手を突っ込んだまま、答えた。

「普段は、新宿で、しがない探偵をしてるよ。まあ、ヤタガラスさんや、協会さんから、時々こうやって、割のいいバイトを、回してもらってるってわけ」


「探偵……」

 健司は、意外な言葉に、少し驚いた。


「そうそう。外注、多いよ、この業界。年中、人手不足だけど、術式によっては、別のことに利用出来るからね。裏社会の、暗殺とか……まあ、黒いこと、色々あるし。純粋に、怪異退治してる連中は、結構少ないよ」

 奏は、こともなげに、この世界の、もう一つの暗部を語った。

「俺も、探偵業で、俺の『子』たちに、対象者を見張らせて、浮気調査や、素行調査を、並行して受けてるしね。こっちの方が、よっぽど儲かる」

 彼は、悪戯っぽく笑った。


「K君は、いいよなー。テレビ受けする能力でしょ? 羨ましいよ。未来予知の術式は、精度高い人、本当に少ないしね……」


 その、軽薄な言葉とは裏腹に、その目は、健司の力の価値を、正確に見抜いていた。

 健司が、返答に困っていると、それまで黙っていた凛が、ぽつりと口を開いた。


「私は、日本退魔師協会で、働いてます。普段は、学業が優先ですが……任務がある時は、学校を休んで、こちらに」


「へー、学生さんと、外注さんなんですね……」

 健司は、改めて、この世界の多様性を、実感していた。


「そういや、凛ちゃん」

 健司は、ずっと気になっていたことを、尋ねた。

「その、日本刀。……職務質問とか、どうしてるの?」


 凛の背中には、明らかに、刀の長さと形をした、白い布に包まれた物体が、背負われている。

 健司の【霊眼】には、その刀身から放たれる、清浄な霊気が見えているが、一般人には、ただの不審物としか映らないはずだ。


「ええ」

 凛は、短く答えた。

「これは、知覚妨害の術式を、貼っているので。Tier 5、6の人には、認知出来ないようになっています」

「普通の人の目には、テニスラケットか、画材のケースのように、見えているはずです」


「へー、知覚妨害、ね」


『……簡易的な、暗示だな』

 健司の脳内に、魔導書の、いつもの声が響いた。

『簡単だから、覚えてみるか? ……いや、待てよ。そもそも、貴様は武器など必要ないからな。……要らんか』


 その、勝手な自己完結。健司は、内心で溜息をついた。

 やがて、三人の目の前に、目的のビルが、その不気味な姿を現した。

 再開発の波から取り残された、十階建ての、廃墟。

 窓ガラスは割れ、壁は、黒ずんだシミで覆われている。

 その入り口からは、淀んだ、負のオーラが、漏れ出していた。


「じゃあ、ビル、入るよ」

 奏が、言った。

「俺の『子』が、すでに場所は特定済みだからね。……三階の、一番奥だ」


 三人は、固く閉ざされた鉄の扉を、奏が懐から取り出した一枚の札で、いとも容易く開けると、カビと埃の匂いが充満する、暗闇の中へと、足を踏み入れた。


 三階、一番奥の部屋。

 ドアは、半開きになっていた。

 中から、何かを、キリキリと引っ掻くような、不快な音が聞こえてくる。


 奏が、指で、合図を送る。

 健司と凛は、頷くと、ドアの両脇に、息を殺して、張り付いた。

 奏が、三、二、一、と指でカウントダウンする。

 ―――ゼロ。


 健司が、ドアを蹴破った。

 中に、飛び込む。

 中は、広いオフィススペースだった。机や椅子が、滅茶苦茶にひっくり返っている。

 そして、その部屋の隅。

 月光が差し込む窓の下に、……それが、いた。


 身長は、二メートル近くあるだろうか。

 痩せこけた、木の枝のような、長い手足。

 継ぎ接ぎだらけの、古びた布でできた、一体の人形。

 だが、その貌には、あるべきはずの、目も、鼻も、口もなかった。

 ただ、滑らかな、のっぺらぼうの顔が、そこにあるだけ。

 その、異様な存在が、ギギギギ、と軋むような音を立てて、こちらを振り返った。


 そして、その細長い指が、三人を、指差した。


『―――動くな』


 声では、なかった。

 健司の、脳内に直接響き渡る、絶対的な、命令。

 呪言。

 その、言霊が、放たれた瞬間。

 健司の、身体が、固まった。

 金縛りにあったかのように、指一本、動かせない。

【身体強化】を発動させようとしても、魔力が、言うことを聞かない。

 因果律そのものが、「動いてはならない」と、彼の存在を、縛り付けている。


(……なんだ、これは……!?)


 健司が、人生で初めて体験する、完全な無力感に、戦慄した、その時だった。

 彼の、両隣。

 凛と奏は、その呪縛を、まるで、そよ風でも受け流すかのように、全く意に介していなかった。


「……チッ。……面倒な」

 凛が、舌打ちした。

 彼女は、一瞬で、背中の刀に手をかけた。

 神速の、居合。


「―――待って、りんちゃん!」

 奏の、制止の声が飛ぶ。

「倒さないで! 弱らせるだけ!」


 その言葉に、凛の動きが、一瞬だけ、止まった。

 そして、彼女の、抜き放たれた刃は、人形の首ではなく、その右腕を、狙っていた。

 閃光が、走る。

 ―――スパッ。

 音もなく、人形の右腕が、宙を舞った。


「ギギギギッギ!!!!」

 人形が、甲高い悲鳴を上げる。

 その悲鳴と共に、健司を縛り付けていた呪いが、霧散した。


「はぁ……はぁ……」

 健司は、ようやく身体の自由を取り戻し、荒い息を吐いた。


 その隙を、奏は見逃さなかった。

 彼は、懐から数枚の札を、取り出すと、それを人形に向かって、投げつけた。

 札は、人形の身体に、吸い付くように貼り付く。

「―――はいはい、大人しくしような」

 奏が、そう呟くと、彼の、着物の袖が、ぐにゃり、と歪んだ。

 そこだけ、空間が抉られたかのように、黒い渦が、現れる。

『神隠しの袖』。

 渦は、抵抗する人形を、容赦なく、その闇の中へと、吸い込んでいった。


「……ふう。一件落着、っと」

 奏は、何事もなかったかのように、手を叩いた。


「……なんですか、今の……」

 健司は、まだ、心臓が激しく脈打つのを感じながら、尋ねた。

「全然、動けなかった……」


「あれー? K君、呪言は、初体験?」

 奏は、意外そうな顔をした。

「呪言って言って、発現した内容を実現する、オーソドックスな呪術だよ。動きを止める系が、主な使い方だね。……わりと、ある能力だから、来る前提で、構えてないとダメだよ」


「……なるほど。……初体験、でした……」

 健司は、自らの未熟さを、噛み締めていた。

 まだまだ、知らないことだらけだ。


「まあ、来ると分かってれば、怖くないよ。相手も、弱いしね。……強いヤツの呪言は、また話は別だけど」

 奏は、そう言って、笑った。

「じゃあ、次の部屋、行こうか。……こっちも、もう一体いる」


 二部屋目。

 そこにいたのは、一体の、真っ赤な、着物を着た、市松人形だった。

 その人形は、健司たちが部屋に入るなり、ケラケラと甲高い笑い声を上げると、すっと、床の影の中へと、溶けるように消えた。


「影渡りか。……厄介だな」

 凛が、刀を構え直す。


 その、瞬間。

 健司の、背後の影から、赤い人形が、ナイフを振りかざして、飛び出してきた。

 だが。

 健司は、振り返りもせず、その攻撃を、左に一歩、ずれるだけで、完璧に回避していた。


「―――そこか」


 彼の、【予測予知】は、その奇襲の、全てを、捉えていた。

 人形が、着地する、その一瞬の硬直。

 健司は、その隙を見逃さない。

 彼は、神速で、人形の懐へと、潜り込む。

 そして、彼が斎藤会長と共に編み出した、必殺の間合いで、その両の手刀を、振るった。

【接触型斬撃】。

 人形の、両腕と、両足を、同時に、切り裂く。


「キララララララララッ!!!!」

 人形は、悲鳴を上げ、だるまのように、その場に転がった。


「はいはい、取り込もうね」

 奏が、すかさず、その人形を、『神隠しの袖』へと、吸い込んでいく。


「……いやー、予知は、やっぱり強いね」

 奏は、心から感心したように、言った。

「影に潜るのは、結構、強い能力だよ。それ、初見で対応できるとは、流石だな」

「次も、ぜひ、組みたいね、K君」


 その、手放しの称賛。

 健司は、少しだけ、救われた気持ちになった。

「いやー……。さっきの呪言で、いいとこ無かったから……活躍出来て、良かったですよ」


 彼は、照れくさそうに、そう答えた。

 彼の、ヤタガラスとしての、そして、一人の戦士としての、新たな一日。

 それは、血と、呪詛の匂いではなく、新たな仲間との、確かな絆の匂いと共に、幕を閉じようとしていた。

 彼の心は、確かな手応えと、そして、まだ見ぬ強者たちとの出会いへの、期待に満ち溢れていた。

 運命の歯車は、確かに回り始めた。彼を、逃れられぬ闘争の渦へと、引きずり込みながら。

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