第75話 猿と和尚と見えざる世界
テレビ局の喧騒は、佐藤健司にとって、もはや日常の一部と化していた。
かつては、その光と熱に気圧され、借りてきた猫のように縮こまっていた彼も、今や、その中心にいても動じることのない、奇妙な落ち着きを身につけていた。
「預言者K」。
その、一人歩きを始めた巨大な虚像は、彼に富と名声だけでなく、どんな舞台にも臆することのない、鋼の仮面をも与えてくれていた。
その日、彼が参加するのは、ゴールデンタイムに放送されるオカルト系の特別番組だった。『徹底検証! 日本の怪奇スポット・トップ10』。その、いかにもなタイトルが踊る番組の、メインゲストとして、彼は招かれていた。
案内された豪華な楽屋で、健司はテレビ局が用意した上質なジャケットに袖を通しながら、ぼんやりと、今日の共演者のことを考えていた。
(『怪談和尚』、法城寂照……)
橘から事前に渡された資料には、そう記されていた。東京郊外の古刹の住職でありながら、そのあまりにリアルで怖い怪談話が口コミで広がり、今やカルト的な人気を誇る、謎の僧侶。
資料には、彼の公式なプロフィールしか書かれていなかった。だが、橘は健司に、こう付け加えるのを忘れなかった。
『――彼もまた、我々側の人間だ。それも、とびきりの、な』
(ヤタガラスでも、退魔師協会でもない、純粋な【修練型】の霊能能力者……。一体、どんな人物なんだ……?)
健司が、まだ見ぬ強者への、好奇心と警戒心をないまぜにしながら、思考を巡らせていた、その時だった。
コンコン、と控えめなノックの音。
「どうぞ」と答えると、静かにドアが開き、一人の男が、姿を現した。
健司は、一瞬で、その男が誰なのかを悟った。
年の頃は、四十代後半。着古した、しかし清潔な墨染の作務衣に身を包み、その手には、年季の入った数珠が一つ。綺麗に剃り上げられた頭。深く刻まれたほうれい線。その貌は、一見すると、人の良い好々爺のようだった。
だが、その瞳。
細められた、その目の奥に宿る光は、まるで夜の湖のように、静かで、そして底が知れなかった。
「これは、これは」
男は、柔和な笑みを浮かべ、深々と頭を下げた。
「ああ、すみません。本来であれば、こちらからご挨拶に伺わなければならないところを……。若輩者の私の方から、呼びつけるような形になってしまい、申し訳ない」
健司は、慌ててソファから立ち上がった。
「いえいえ! 別に、お気になさらずに!」
男――法城寂照は、ゆっくりと顔を上げた。
「『預言者K』殿。……いや、Kさんと、お呼びしてよろしいかな。活躍は、かねがね聞いておりますよ。素晴らしいお力だ」
「いえいえ! とんでもない! 和尚こそ、芸能人としては、僕なんかよりずっと先輩ですから!」
健司は、しどろもどろになりながら、そう答えた。
目の前の男から放たれる、穏やかで、しかし、一切の隙がないオーラに、彼は完全に気圧されていた。仙道や橘とは、また質の違う、静かなる「格」の違い。
「ハハハ。いやはや、芸能人とは、こそばゆいですな。私は、ただ、好きな話をしているだけの、ただの坊主ですよ」
寂照は、楽しそうに笑った。その笑い声は、不思議と、健司の緊張を解きほぐしていくようだった。
「時に、Kさん」
寂照は、健司の向かいのソファに腰を下ろすと、ふと、その底知れない瞳を、健司にまっすぐに向けた。
「君は、『霊能』は、あるのかな?」
その、単刀直入な問い。
健司は、少しだけ考えた。
「いえ。……霊能能力は、ないですね。未来や過去を視ることはできますが、いわゆる『幽霊』とか、そういうものは、視えません」
「そうですか」
寂照は、興味深そうに頷いた。
「失礼ですが、君が使うという『魔眼』。その、定義は、ご存知かな?」
「ええ。知ってますし、使えますよ」
健司は、頷いた。先日覚えたばかりの、新たな力。【時間鎖の魔眼】。その感覚は、まだ彼の瞳の奥に、生々しく残っている。
「そうですか。……ならば、話は早い」
寂照は、にこりと微笑んだ。
そして、彼は、とんでもないことを、さらりと言ってのけた。
「霊を視るだけなら、簡単ですよ。……その魔眼に、ほんの少しだけ、指向性を与えてやればいい」
「呪文を唱えて、霊眼を発動したら、簡単に見れますよ」
「へー、ホントですか?」
健司は、思わず身を乗り出した。
そんな、簡単なことで?
「ええ」
寂照は、こともなげに頷いた。
「まあ、私の専門分野ですからな。……こう、唱えてごらんなさい」
彼は、古の言霊を、健司に授けた。
「―――『我が眼、霊なるモノ達を視る力、霊眼』。……ですね」
その、あまりにシンプルで、しかし、どこか神聖な響きを持つ呪文。
健司は、ごくりと喉を鳴らした。
好奇心が、恐怖を上回っていた。
「じゃあ、ちょっと、失礼して……」
健司は、目を閉じ、意識を集中させた。
そして、彼は、教わったばかりの言霊を、静かに、しかし、はっきりと、紡ぎ出した。
「―――我が眼、霊なるモノ達を視る力、霊眼!」
その、瞬間だった。
カッと、彼の両眼が、内側から発光したかのような、熱を帯びた。
視界が、一瞬だけ、真っ白に染まる。
そして、次に目を開けた時。
健司の世界は、変貌していた。
世界の、色彩が、わずかに褪せて見える。
生きている人間―――例えば、目の前の寂照からは、淡い、温かい光のオーラが立ち上っている。
だが、それ以外の、モノ。
壁も、床も、テーブルも、全てが、どこか生気なく、灰色がかっている。
そして、何よりも。
「おわっ……!」
健司は、思わず短い悲鳴を上げた。
目の前。
穏やかに微笑む、寂照の、その背後。
そこに、一人の少女が、立っていた。
いや、立っている、というよりは、……浮いていた。
その身体は、半透明で、向こう側の景色が、うっすらと透けて見える。
大正時代を思わせる、古風な着物を着た、おかっぱ頭の、小さな少女。
その貌には、何の表情もなく、ただ、虚ろな瞳で、健司をじっと、見つめていた。
「……子供が、いる……!」
健司の声は、上ずっていた。
「今まで、見えなかった……。……というコトは……幽霊、ですか!?」
「ええ」
寂照は、健司の視線の先を、振り返ることもなく、静かに頷いた。
そして彼は、まるでそこにいるのが当たり前であるかのように、その「何もない」空間に向かって、優しく語りかけた。
「……ほら。挨拶しなさい。お兄さんが、君のことを見つけてくれたよ」
すると、その半透明の少女が、ぺこり、と小さな頭を下げた。
その口元が、わずかに動く。
健司の耳に、直接、声が聞こえた。
それは、風の音のようでもあり、鈴の音のようでもあった。
『……こんちにちわ、お兄ちゃん……』
「……良い子でね」
寂照は、少女の頭があったであろう場所を、優しく撫でた。
「この子はね、幼くして病で亡くなってね。まだ、自分が死んだことも、成仏するということも、よく分からないみたいでね。……だから、こうして、社会勉強として、連れて歩いているんですよ」
彼は、健司に向き直り、にこりと笑った。
「安心してください。害は、ありませんよ」
「へー……。凄いですね……」
健司は、ただ、感嘆の声を漏らすことしかできなかった。
これが、本物の霊能能力者。
死者の魂と、対話し、共に在る。
その、あまりに自然な佇まいに、健司は、自らがまだ知らない世界の、途方もない広さを、感じていた。
「……悪霊とかも、いるんですか?」
健司は、尋ねた。
「ええ、いますよ」
寂照の、表情が、わずかに曇った。
「我々が『怪異』と呼ぶものとは、また別にね。……怪異の多くは、人々の恐怖心や、土地の記憶が生み出した、いわば自然現象に近い。……だが、『悪霊』は、違う」
彼の声が、低くなる。
「人間が、元になって、悪霊と化すんです。……強い、未練、憎悪、嫉妬。……そういう、負の感情が、死後もその魂を、この世に縛り付け、やがて、他者を害するためだけの、存在へと、変質させてしまう」
健司は、息を飲んだ。
「そして、たちが悪いことに、彼らは、元が人間なだけに、非常に狡猾で、そして……強い」
「生前の、因果律改変能力を、そのまま、あるいは、より歪んだ形で、保持していることも、珍しくない。……そうなると、かなり、強いですね。最大で、Tier 0クラスの悪霊も、過去には確認されています」
「Tier 0の、悪霊……!」
「ええ。……幸い、ここ数百年は、出現していませんがね。……ですが、この日本という国は、世界でも屈指の、霊能スポットが多いですからな。……長い歴史の中で、この土地に積み重なってきた、人々の想い、念、そして物語の量が、他の国とは、比較にならない」
寂照は、窓の外を見つめた。
その目は、この、近代的な大都市の、そのさらに奥深く。アスファルトの下に眠る、無数の魂の記憶を、見ているかのようだった。
「正直に言えば、警察が発表している、年間の行方不明者の、かなりの割合は、……霊の仕業ですよ」
その、あまりにさらりとした、衝撃的な告白。
「神隠し、というやつですな。……特に、力の強い悪霊は、自らのテリトリーに、人間を引きずり込み、その生気を、喰らう。……かなり、危険なので、Kさんも、注意が必要ですね」
寂照は、そう言うと、健司に向かって、再び人の良い笑みを浮かべた。
「まあ、Kさんは、大丈夫でしょうが。ハハハ」
その、根拠のない、しかし、絶対的な信頼を感じさせる言葉。
健司は、苦笑するしかなかった。
「そのうち、Kさんも、テレビのロケで、そういう『いわくつき』の場所に、行ったりして」
寂照は、悪戯っぽく言った。
「その時は、……霊と、戦うことになるのかなぁ」
その、予言めいた言葉。
健司は、背筋に、冷たいものが走るのを、感じていた。
霊と、戦う。
俺の、斬撃や、重力は、実体のない、そいつらに、通用するのだろうか。
その、健司の不安を、見透かしたかのように、寂照は、静かに言った。
「……大丈夫。……困った時は、いつでも、この怪談和尚を、頼ってくださいな」
その時、楽屋のドアがノックされ、ADが、本番の時間を告げに来た。
健司と寂照は、立ち上がり、スタジオへと向かう。
健司は、自らの眼が、もはや以前とは違うものになってしまったことを、実感していた。
彼の視界には、常に、もう一つの世界が、重なって見えていた。
スタジオの、機材の影に、蹲る、古びた武士の霊。
観客席の、隅で、楽しそうに笑っている、着物の少女の霊。
この世界は、生者だけのものじゃ、なかったのだ。
その夜の、テレビ収録は、大成功に終わった。
寂照の語る、本物の怪談話は、スタジオを、恐怖と興奮の渦に巻き込んだ。
そして、健司は、その話の端々で、寂照が語る怪異の姿を、自らの「霊眼」で、確かに、目撃していた。
それは、彼にとって、何よりも刺激的で、そして、何よりも恐ろしい、体験だった。
番組が終わり、健司が、楽屋で一人、その日の出来事を反芻していた、その時。
彼の、脳内に、あの忌々しい声が、響いた。
『……どうだ、猿。……面白かったか? ……見えざる世界は』
「……ああ」
健司は、頷いた。
「面白かった。……そして、怖かった」
『ふん。貴様の、そのちっぽけな世界が、また一つ、広がったわけだ』
魔導書は、満足げに言った。
『……せいぜい、その眼で、新たな獲物を、見つけることだな』
その言葉を、最後に、魔導書は沈黙した。
健司は、一人、テレビ局の窓から、東京の夜景を、見下ろしていた。
無数の、光の点。
あの、一つ一つの光の下で、人々は、生きている。
そして、そのすぐ隣で、……見えざる者たちもまた、生きている。
その、事実。
その、世界の、本当の姿。
それを、知ってしまった、自分は。
これから、どう、生きていくべきなのか。
彼の、新たなる問い。
その、答えを見つけるための、長く、そして果てしない旅が、今、また、始まろうとしていた。