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第74話 猿と巫女と才能の奔流

 佐藤健司の日常は、もはやかつて彼が夢想した「悠々自適な億万長者ライフ」とは、似ても似つかないものへと変貌していた。その生活は、修行僧のそれであった。いや、あるいは来るべき決戦に備える兵士の日常と、言った方が正しいのかもしれない。

 早朝、まだ空が白み始める前に、彼はマンションに併設された最新鋭のトレーニングジムで汗を流す。魔導書が組んだ常軌を逸したフィジカルトレーニングメニュー。それは、彼の肉体を人間という種の限界を超えた領域へと押し上げるための、容赦のない儀式だった。

 そして夜。全ての仮面を剥ぎ取り、自らの城へと帰り着いた彼は、真の師である魔導書の下、人知を超えた魔法の深淵へとその身を投じるのだ。【魔力メモリ】増設のための地獄の三行訓練――高負荷・反復、並列処理、そして概念の深化。そのどれもが、彼の魂を根こそぎ削り取り、そして再構築していくような、過酷な道程だった。


 その日の夜も、健司は一通りの修行を終え、広すぎるリビングの中心で静かにクールダウンのストレッチを行っていた。汗が床に滴り落ち、静かな部屋に微かな音を立てる。

 ヴァンパイアハンターとの死闘から数週間。彼の肉体と魔法は、あの日の敗北に近い引き分けを糧として、飛躍的な進化を遂げていた。だが、彼の心の中には、常に一つの焦燥感が燻っていた。

 まだ足りない。

 あの領域にいる者たちと、対等に渡り合うには、まだ何もかもが。


「ふー……」

 健司は息を吐き出し、タオルで汗を拭うと、ローテーブルに置いてあったノートPCを開いた。デイトレードの市場分析でも、ヤタガラスの機密資料でもない。彼が最近、日課としてチェックしている、一つのウェブサイト。

 画面に表示されたのは、動画配信サイトのトップページ。そして、そのトップページのおすすめ欄に、一つのサムネイルが輝いていた。

『新人VTuber・デルフィ、奇跡の予知でまたもや万馬券的中!?』

 その、いかにもなサムネイル。描かれているのは、古代ギリシャの巫女を彷彿とさせる、純白の衣装に身を包んだ、銀髪の美しい少女のアバター。その隣には、「100円→120万円」という、射幸心を煽るテロップが躍っている。


「……はは。すっかり、人気者じゃんか」

 健司は、誰に言うでもなく、そう呟いた。

 そのVTuberの名は、『女神デルフィの巫女・ミキ』。

 彼の、記念すべき最初の弟子、相田未来の、現在の姿だった。


 健司は、そのサムネイルをクリックした。アーカイブ動画が再生される。

『は、はい! というわけで、先週のG1レース、見事、三連単、的中しましたー! これも、女神デルフィ様のお導きのおかげです!』

 画面の中で、未来のアバターが、少しぎこちなく、しかし嬉しそうに、ぴょこぴょこと動いている。コメント欄は、「888888」「巫女様すげえ!」「マジで神だろこの子」といった、賞賛の嵐で埋め尽くされていた。


 そう。彼女は、デビューしたのだ。

 あの、競馬場で稼いだ百万円を元手に、彼女は最高の機材を揃え、一流のイラストレーターにアバターを依頼し、そして、彗星の如く、Vチューバー業界に現れた。

『過去と未来を視る巫女』。

 そのキャッチフレーズは、瞬く間にネット上で話題となった。

 最初は、誰もが胡散臭いイロモノとして彼女を見ていた。だが、彼女の「予知」は、本物だった。

 視聴者の失くしたペットの行方を、過去視でピタリと言い当て。

 就職活動に悩む学生に、未来視で面接の質問内容を的確にアドバイスし、内定へと導く。

 そして、彼女の十八番となった、競馬予想。

 彼女が推奨した馬券は、面白いように的中した。数々の万馬券を演出し、彼女の信者は、爆発的に増加していった。

 デビューして、まだ一ヶ月。だが、彼女のチャンネル登録者数は、すでに三十万人を突破しようとしていた。


 健司は、その光景を、どこか父親のような、そして、どこか寂しいような、複雑な気持ちで眺めていた。

 あの、情報の奔流に溺れ、部屋の隅で泣いていた少女は、もうどこにもいない。

 画面の中の彼女は、自らの力を完全に制御し、それを人々を笑顔にするための「祝福」として、使いこなしている。

 その成長は、喜ばしい。

 心から、そう思う。

 だが、同時に、彼の胸には、チリチリとした焦燥感が、広がっていた。

 彼女の、その成長速度。

 それは、健司の想像を、遥かに超えていたのだ。


 その、健司の心の澱を、見透かしたかのように。

 脳内に直接、あの尊大な声が、響き渡った。


『――うむ。あの小娘、相当強力な未来視・過去視を持っているな』


「魔導書……」


『アレは、お前より、遥かに才能があるぞ』


 その、あまりに無慈悲な、宣告。

 健司は、思わず、声を上げた。

「えっ、まじ?」


『まじだ』

 魔導書は、冷徹に言い放った。

『貴様の力が、泥水を濾過して、ようやく一滴の真実を絞り出すようなものだとしたら……。あの小娘の力は、どこまでも澄み切った泉の底を、ただ覗き込むようなものだ。……見えている情報の「解像度」が、全く違う。……いずれ、弟子に抜かれるぞ、猿』


 その、からかうような言葉。

 健司は、ぐうの音も出なかった。

「……半年、先輩なんだけどなぁ、俺……」


『ふん。才能の前では、半年なぞ、瞬きほどの時間にもならん』

 魔導書は、鼻で笑った。そして、彼は、健司が先日出会った、もう一人の天才の名を口にした。

『まあ、あの『星王』星野航が、重力に特化しているように、あの小娘は、未来視・過去視に、特化しているのだろう』

『おそらく、身体能力強化と、最低限の再生ぐらいは覚えられるだろうが、それ以外の、攻撃的な魔法や、複雑な結界術などは、からきしだろうな。……魂の器が、その一つの才能に、極端に偏っているのだ』


「……専門家スペシャリスト、ってことか」


『そうだ。……だが、侮るな。一つの道を極めた者は、強いぞ。……俺の見立てでは、あの小娘は、未来視・過去視という、その一点においてのみ、すでにTier 2相当の領域に、足を踏み入れている』


「へー……。凄いなぁ……」

 健司の口から、素直な感嘆の声が漏れた。

 Tier 2。

 ヤタガラスの中でも、エリート中のエリートとされる階級。

 あの、まだあどけなさの残る少女が、すでにその領域に?

 才能とは、これほどまでに、残酷で、そして美しいものなのか。


 健司が、そんな感慨に浸っていると、PCの画面の中で、未来が、新たな企画を始めていた。

『はい! それでは、今日の特別企画! 『あなたの未来、占います!』のコーナーです! 今から、スパチャで、お悩みを送ってくれた方の中から、抽選で三名様の未来を、占いたいと思います!』


 その言葉に、健司の口元に、悪戯っぽい笑みが浮かんだ。

 彼は、おもむろに、自らのスマートフォンを手に取った。

 そして、動画配信サイトのアプリを起動し、未来のチャンネルへとアクセスする。

 彼は、慣れた手つきで、スーパーチャットの画面を開いた。

 金額は、上限額の、十万円。

 そして、彼は、そこに、一つのメッセージを打ち込んだ。

 もちろん、その名前は―――。


『―――予言者K』


 彼は、送信ボタンを押した。

 その、瞬間。

 画面の中の未来のアバターが、ぴたり、と固まった。

 そして、コメント欄が、爆発した。


『え』

『ちょ』

『今、スパチャしたの……』

『【【【予言者K】】】』

『本人!?!?!?!?!?』

『ぎゃあああああああああああああ!!!!!! 神と神の共演!!!!!!!』


 画面の中の未来は、数秒間、完全にフリーズしていたが、やて、そのアバターが、ありえないほど激しく、上下に揺れ始めた。

 中の人が、パニックに陥っているのが、手に取るように分かる。


『えっ……えっ……えっ!?!?!? ほ、本物の、K様……ですか!?!?』

 その声は、完全に裏返っていた。

『す、スパチャ、ありがとうございます! そして、お礼を言わせてください! ……あの時は、本当に、ありがとうございました!』

 彼女は、画面の中で、何度も、何度も深々と頭を下げた。


 その、健気な姿。

 健司は、思わず吹き出してしまった。


 コメント欄は、もはや、混沌の坩堝と化していた。

『え、知り合いなの!?』

『あのKが、この子に礼を言われてるぞ!』

『ってことは、この子の力も、本物ってことか!』

『K様のお墨付き……! この子は、本物だ!』


 健司は、その騒ぎを、どこか満足げに眺めていた。

(まあ、俺がスパチャしたからには、もう誰も、彼女の予知が本物だってこと、疑わないだろ)

 それは、弟子を思う、師としての、ささやかな親心。

 そして、自らが作り上げた「K」というブランドイメージを、最大限に活用する、冷徹な戦略家としての、一手でもあった。


 その夜。

 健司は、未来の配信が終わった後も、しばらく、PCの前から動けなかった。

 胸の内で、様々な感情が渦を巻いていた。

 弟子への、誇らしさ。

 彼女の、才能への嫉妒。

 そして、何よりも、自らの、未熟さへの、焦燥感。


(……俺は、何でもオールラウンダーか)


 魔導書の言葉が、蘇る。

 星野航は、重力の王。

 相田未来は、時間の巫女。

 彼らは、一つの道を極める、槍。

 ならば、俺は?

 斬撃、重力、再生、予知、そして、格闘術。

 数多の武器を持つ、器用貧乏。

 このままでは、いつか、本物の「専門家」たちの前に、敗れ去る日が来る。


『……ふん。ようやく、自らの立ち位置を、理解したか、猿』

 脳内に、魔導書の声が響く。


「……ああ」

 健司は、頷いた。

「俺は、スイスアーミーナイフ、なんだろ。……でもな」

 彼は、顔を上げた。

 その目には、もはや、焦りの色はない。

 そこにあるのは、静かで、しかし、どこまでも燃え盛る、闘志の炎だった。

「……たった一本のナイフでも、それが、星を断ち切るほどに研ぎ澄まされていれば。……それはもう、ただの道具じゃない。……神殺しの、武器になる。……違うか?」


 その、あまりに傲慢で、しかし、揺るぎない覚悟の言葉。

 それを聞いた魔導書は、しばらく沈黙した。

 そして、やがて、心底愉快そうに、せせら笑った。


『……ふん。面白い。……面白いことを、言うじゃねえか、猿』

『よかろう。ならば、見せてみろ。……貴様のその、ガラクタのナイフとやらが、どこまで、神々の喉元に届くのかをな』


 その言葉を、合図に。

 健司は、立ち上がった。

 そして彼は、リビングの中心で、ゆっくりと構えた。

 MMAの、ファイティングポーズ。

 彼の、新たな地獄が、始まる。

 才能の奔流に、飲み込まれないために。

 自らが、ただの「猿」で終わらないために。

 彼の、果てしない修行の夜は、まだ、始まったばかりなのだから。

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